第六十五話 暗闇の中の道標
血痕だらけの森の中、セレナの剣を抱えて一体どれだけの時間を過ごしただろう。
世界はカシュパルから彼女を奪ってしまった。長い長い時間の後、漸くカシュパルは喪失を受け入れた。
その瞬間、復讐だけに留まらない大いなる破壊衝動が体中を支配する。
剣に力任せに魔力を込め、横に薙ぐ。彼女の死を傍観していた数本の木々が簡単に斬られて轟音を立てながら地面に倒れた。
カシュパルは幾筋もの涙の跡を頬に付け奥歯を噛み締めながら、炯々と光る目で何処ともなく虚空を睨みつける。
思い知らせてやろう。お前達がなまくらな目で見逃した彼女の価値を。その偉大さでこの混血児の底に封じていた闇の深さを。
形ある物でも、人の心でも、目に映る物を端から区別せず悉く粉砕しよう。
恐らく、元々カシュパルはこういう者だったのだろう。そうでなければ納得出来ない程の、他者への躊躇のない攻撃性だった。
胸に渦巻く混沌がこの世の何処かに居るセレナを殺した愚者を、最も残酷な方法で苦痛を味あわせねばならないと囁いてくる。
それだけではない。彼女が苦痛に塗れて死んだにも関わらず、今も笑って生きている全ての者はそれだけで殺しても構わないと思えた。
最早生きる事に意味はない。止める者もいない。今、カシュパルは悪意の塊になろうとしている。
これからカシュパルは返り血を浴びる度に笑うだろう。他者の苦痛の悲鳴も歌声の様に甘美に聞こえる筈だ。
何故ならばセレナは死んでしまったのだから。彼女が愛した世界は、あっけなく彼女を裏切った。あれ程身を削り他者の幸せの為に努力した人を、無造作に殺させた。
だから皆、苦しまなくては。
セレナがこんな場所で誰にも知られずひっそりと殺されたのであれば、その他の命などそれ以下に違いない。
セレナの喪失という現実を数瞬毎に認識する度に、セレナが作り上げたカシュパルが崩壊していく。
拗れてしまったカシュパルの脳内では最早、正論や常識など影も形もない。カシュパルという存在の全てを使って最大限の不幸を齎そうと、恐ろしい思考を始めた。
カシュパルには何もなくなってしまった。賞賛された才能も、磨き上げた技術も、彼女の為に歩んだこれまでの人生も。全てが唯々空しく、意味を失い、馬鹿げたものに成り下がる。
この世の全ては罰せられるべきだった。カシュパル自身も含めて。
けれど手にしたままのセレナの剣が木漏れ日に反射してカシュパルの目を焼いた。剣を眺めた事で、その前にやらなければならない事に気がつく。
彼女の亡骸がこの森の何処かに埋められている筈である。カシュパルはこの剣だけでセレナの死を悼む事に満足出来ない。
カシュパルはセレナが恐怖に怯え、戦っていただろうその時に何も感じなかった。死んだ瞬間でさえ、兆候は何もなかった。目に見えない繋がりなど、所詮はそう信じたい者が作り上げた嘘だった。
ならばこんな地面の下の何処に彼女がいるか分からない状況でカシュパルが野垂れ死んだ時、セレナの魂と再会出来るだろうか。
復讐も、破壊も、自死も、全てはセレナの亡骸を手に入れてからにしなくては。
「……探さないと」
冷たい土から掘り起こし、物言わぬ彼女を抱きしめた時こそカシュパルはセレナの魂との再会を確信出来るだろう。
カシュパルは幽鬼のように立ち上がり一度町に戻ると、土を掘り返す為の道具を手に入れた。
それから疑わしい柔らかい地面を見つけては掘り返し、獣の骨などを見つけて落胆する。
広大な森の中から埋められた死体を見つけ出そうなど、少しでも地面から物を探した経験がある者ならば不可能であると直ぐに分かる事だろう。
しかしそんな簡単な事を理解したくなくて、カシュパルは唯々無心で地面を掘り返し続けた。
やがてセレナが埋葬された場所などとっくに硬くなっただろう時間が経過し、根拠もなく手当たり次第に掘るしかなくなってしまう。
それでも毎日地面を掘り続け、その痕跡を見た近隣住人の間では新しい魔物が出たのではないかと噂される程だった。
その噂は何年かする内に不気味な男の話へと変わり、不用意に森に立ち入ろうとする者は誰も居なくなる。
稀に迷い込んだ人がカシュパルの姿を見かけて声をかけたが、地面と会話をするかの様に一心不乱に掘り続け、返事もしないので眉を顰めて逃げるばかりだった。
疑わしい場所があれば素手で丁寧に掘り返すので、カシュパルの手は土塗れで爪が割れてしまっていた。
木の根や鋭い石に傷つけられた掌は痛々しく、眉を顰めるような有様なのに本人は何も感じていないかのように同じ作業を延々と繰り返す。
カシュパルにとって今の現実こそ地獄であり、逃避する為に過去のセレナを思い返した。
幼い頃、抱きしめながら共に寝た姿。優しくカシュパルを呼びながら、撫でてくる細い手。追いかけた先で、再会した時の驚いた表情。
どれも愛おしくて、幻覚や幻聴が周囲に溢れる。
温かなそれらに浸ってしまいたかったが、甘さを叱責するように地面の下で寂しいと泣くセレナの声を聞く時もあった。
そんな時は尚更酷く取り乱し、カシュパルは幻聴の聞こえる地面を必死で掘らずにはいられなかった。
この日もカシュパルはいつもと同じように当て所もなくそこら中を掘り、体を休める為に木に背中を預けて座っていた。
ぼんやりしているとセレナの幻覚が、疲れたカシュパルを労わろうと頬に手を伸ばす。
当然の様に感触はなく、消えるのを恐れてただ彼女がする事を受け入れた。
愛したかつての面影そのままに、セレナは美しく笑っている。少し慰められて、空虚に笑みを浮かべた。
けれどもこれが本物ではないと気がついている自分がいて、微かに浮かんだ笑みは押し寄せる現実に消されてしまった。
奥歯を噛み締めて、泣きそうな顔で唯々セレナを見つめる。
会いたい。触れたい。……貴女に。
カシュパルの胸の内の声には答えず、セレナの幻覚が景色に溶けるように消えてしまう。
その後に目の前に見慣れない男が立っている事に気がつき、片眉を上げた。
神官のような服装である。男はカシュパルが認識した事に気がつくと、頭を深々と下げて挨拶した。
「カシュパル様ですね?」
「……ああ」
何年も森をうろつき酷い格好になり果てたカシュパルに対して、随分と丁寧な接し方だった。
けれどどうでもよく、立ち上がりもせず眺めていると男の方からカシュパルに近寄って来る。
そして恭しく水晶のような球をカシュパルに差し出した。
「お受け取り下さい。尊き方より、預かって参りました」
一体何を期待しているのか。セレナの幻覚が優しくカシュパルの前に現れていなかったら、今頃この男は死んでいただろう。
どんな企みにも巻き込まれるつもりはなくて、手を伸ばさない事で意志を伝える。
しかし次の言葉に無視出来なくなった。
「セレナ様をまだお忘れでないのなら、お手に取られた方がよろしいかと」
急激に剣呑な雰囲気に変わったカシュパルに、神官服の男が冷や汗を垂らす。結果次第では殺されるのを、脅されるまでもなく察した。
カシュパルが荒々しく出された水晶の球を奪い取ると、急いで神官服の男は距離を取り再び頭を下げる。そして兎の様に逃げて行ってしまった。
残された水晶の球を眺めている内に、その正体に気がつく。
「魔水晶か」
何処の富豪がこんな物を用意したのか。呆れながら惜しげもなく発動させた。
指先に清涼な風が当たるような不思議な感触があり、眉間に皺を寄せる。込められた力の作用だと気がついたのは、割れた爪や傷だらけの手が綺麗に治ったのを見た時だった。
癒しの力。
それは獣人の使う魔術の中にも、人間の使う魔術の中にも存在しない。唯一、神話の中の神族とそれに連なる王族だけがその力を有している。カシュパルはそれを幼い頃にセレナから聞いていた。
いよいよただならぬ事に巻き込まれそうで、だからこそセレナの名前を出された事が無視出来ない。
やがてカシュパルの前に幼い子供の映像が映し出される。それは只の過去に記録した光景を繰り返すだけなのに、しかとカシュパルの目を見て言葉を発した。
「はじめまして。……いえ、それとも久しぶりと言った方が良いでしょうか」
白い肌に金の髪。空色の目をした、まだ嘘を嘘とも見抜けぬような幼さだ。
けれど不自然に大人にも負けない理知の光が目に宿り、それが人間らしからぬ雰囲気として現れていた。
ヴィルヘルムス。
彼の姿を見て、カシュパルはセレナが死んでからそれ程の時間が経った事を漸く認識した。
過去に記録された映像とは会話が出来ない。その常識からカシュパルはヴィルヘルムスの言葉にただ耳を傾ける。
「貴方にして欲しい事があります。それを実行していただければ、セレナさんを貴方の元へお連れしましょう」
「……戯言を」
カシュパルは奥歯を噛み締めた。セレナが生きていたとしたならば、必ずカシュパルに連絡をくれただろう。だからセレナは既に死者に違いなく、蘇るのは神話の中ですらあり得なかった。
けれどヴィルヘルムスはカシュパルに言葉を返した。
「いいえ。戯言ではありません。私は未来が見えますから」
会話をしたという事実に、カシュパルは一瞬事態が認識出来なかった。それからあり得ない事が現実に起きたのを知り、目を見開いていく。
記憶されている映像は只の過去の光景でしかなく、会話など出来るはずがない。未来でも見えていない限り。
もしもヴィルヘルムスの言葉が事実ならば、セレナに会えるというのも事実なのだろうか。
粉々になったカシュパルの精神が、突然齎された一縷の希望に俄かに騒ぐ。
それが真実ならば、どんな事でも実現してみせよう。
歴史に名を遺す大罪人になる事も恐れず、この身が欠ける事も厭わず。血を流し、涙を啜り、地を這ってでも。
カシュパルは立ち上がり、目の前の幼子を見下ろした。落ち窪んだ眼は爛々と輝き、食い入るようにヴィルヘルムスを見続ける。
もしもこの場に実際に現れていたのなら、攫いかねない雰囲気だった。
けれどヴィルヘルムスは恐れる様子もなく、カシュパルに微笑んで言った。
「簡単な事ではありません。何せ世界を救ってもらわねばならない」
余りにも壮大な単語に怖気づく様子もなく、カシュパルは淡々と言い返す。
「言え。叶えてやる。それでセレナが帰るならば」
むしろあの尊い人を得ようとするならば、それぐらいの事を実行しなければ割に合わないだろうとさえ思った。
そんなカシュパルに頷き、幼子はその目で見た光景を語る。
「間もなくアリストラ国の神族が張った結界が消滅します。魔物は増え、アリストラ国は耕作地が激減するでしょう。ヨナーシュ国へ食料の輸出も少なくなり、百年後、両国で悲惨な戦争が勃発する」
憂いながら語られる言葉に、カシュパルは口を挟まず聞き入る。彼にとって世界は既に敵であり、不幸が来るのは寧ろ望むところでさえあった。
「長い長い戦争の末に獣人が勝ちますが、一度減少した人口では溢れる魔物に対抗出来ません。そして文明は衰退し、人は神族が降臨する前の原始的な生活に戻るでしょう。これが私の見た、未来」
忍び寄る崩壊の足音は直ぐそこまで来ており、残された時間は少ない。
ヴィルヘルムスは小さな指をカシュパルに向けた。
「貴方だけが、それを変えられる」
「……俺が?」
何でもこなせる自信はあるが、正義の使者になるには人格が不適説だろう。カシュパルはセレナ以外に興味がない。そして既に、残酷で破滅的な自分自身に気がついてしまっている。
それでもヴィルヘルムスの指はカシュパルから動かなかった。
「ええ。人間と竜人の混血児。人間と獣人の両者を良く知る者。冷徹な程合理的でありながら、非合理な程優しい人を愛した男。そして、この世で最も才能溢れる王たる器。バルターク・カシュパル王。貴方だけが二つの国を治められる」
カシュパルはヴィルヘルムスが求めている事を理解した。
アリストラ国とヨナーシュ国の完璧な統治。人間と獣人の相反する両者を交わらせ、やがて来る災厄に立ち向かえるようにしろと言っている。
「は、……成程。俺以外には出来ないな」
カシュパルは混血児だ。それは最早カシュパルに取って意味を成さないが、他の者は違うだろう。
両者を統べる立場になれば、人間も獣人も勝手に血の近さを感じるに違いない。
しかしその意味は、アリストラ国に攻め入れという意思表示に他ならなかった。
「お前の国だろう」
ヴィルヘルムスは儚く笑いながら言った。
「そうです。私の国です。……しかし、他に方法はありません。獣人の王となり、アリストラ国を攻めて下さい。圧倒的な一撃の下に、人間が抵抗する気も起きないように。それでこそ、最小限の人口の減少で抑えられる」
それから覚悟の滲む表情でカシュパルに頭を下げた。
「私はカシュパルさんの統治の妨げになりそうな者と共に、戦場に出ます。どうぞ劇的に、この私に流れる神族の末裔の血で心を挫いて下さい」
それは生贄になる羊の哀れさだった。自分で自らの死を言いだす事が理解出来なくて眉を顰める。
「殺されたいのか」
「私がいる限り、貴方の統治の邪魔になるでしょう。私はいずれ、最後の王族の血族になる」
カシュパル以外ならば哀れんだだろう。けれどカシュパルは納得する以外に感情はなく、その役目に素直に頷く。
「一つ聞きたい」
「どうぞ」
「セレナを襲ったのは……誰だ?」
身を焦がす復讐心。セレナへの愛着故に後回しになっていただけである。未来を見るこの幼子ならば答えを知っているかと思い尋ねた。
ヴィルヘルムスは大人のようなくたびれた表情をして答えた。
「私の祖父です」
瞬間、カシュパルの剣が抜き放たれてヴィルヘルムスの首筋に当てられる。
殺気を身に纏う様は背筋を凍らせる程恐ろしく、生身であれば死んでいたのをヴィルヘルムスは確信した。
カシュパルは剣をぴたりと突き付けたまま、微動だにせず言った。
「誓言する。獣人の王となり、アリストラ国に攻め入ると。そして神族の末裔の流血を以て誓いが果たされた事としよう」
ヴィルヘルムスはこの破滅を望む男でなければ世界が救えないと言った。随分と皮肉な話だった。
けれどセレナの話を出された以上、カシュパルに他の選択肢は存在しない。
もしもこれが嘘であったと分かったならば、手にした力で全てを壊してしまえば良い。それこそ、魔物に壊されるよりも更に酷く破滅的に。
幼子は恐れず、カシュパルに同じように気高く宣言した。
「では私も。セレナさんを貴方の元に送り届ける事で、誓いが果たされた事にしましょう」
それを聞き終えて、漸くカシュパルは剣を鞘に戻す。
やる事が山積していた。けれど苦では全くない。この先にセレナとの再会が約束されたのだから。
まずはこの身なりをどうにかしなければ。まともに見える様に取り繕い、人心を掌握してこそ王への道が開ける。
早速そんな事を考え出したカシュパルに、ヴィルヘルムスが穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「手付として貴方に贈り物をしましょう。木の上に登ってみて下さい」
思わず上を仰ぎ見るが、カシュパルの目にはただ葉の影が見えるだけである。一体何があるのか分からない。
疑問を口にする前に、ヴィルヘルムスの映像は終わってしまった。保存されていた全てが終わったのか、渡された魔水晶が粉々に砕け散る。
仕方なく実際に登ってみる事にした。枝から枝へ大柄な体格でありながら、しなやかな身のこなしで軽々と上がっていく。
やがて枝で作られた鳥の巣が見えて、何の気なしに覗いてみれば見間違いようのないセレナのチャームが中にあった。
どれだけ探しても見つからなかったのに、こんな場所にあったとは。
カシュパルは震える手でそれを取り、大事に握りしめる。
最早ヴィルヘルムスの能力は疑いようがなかった。
「……セレナ」
貴方に会える。それだけで。
どんな血に塗れた道でも、その果てに光があるような気がした。




