第六十四話 羊
宮殿の中には外に出る事が出来ない私の気を紛らわす為の手段の一つとして、古今東西の本が集められた場所があった。
その中で一冊の本を手に取り、椅子に座ってぱらぱらと頁を捲っていく。これはカシュパルの経歴を纏めた本だった。
「東部地方にいた大規模盗賊団の壊滅。災害級魔物の討伐。反目していた首長達の歴史的和合……」
どれもこれも恐ろしい程短期間の内に成し遂げられている。それが過去ただの魔物狩人として私の隣にいた男の業績であると頭では理解しているが、不思議な気分だった。
どれだけ本来の自分を押し込めて、私の思う通りにしてくれていた事だろう。
それが愛おしくも切ないのは、今や彼がすっかり私の手から離れてしまっているからに違いなかった。
ぐらり、強烈な眠気に襲われる。閉じそうになった瞼を強引に開いた。
頬を両手で叩いて気合を入れて、本の続きへと視線を移す。
もういいじゃないか、ゆっくり休んで何も考えるな。そんな体の声なき声をねじ伏せて、それでも視線と手を動かす。
カシュパルを救いたい。その一心だった。
私に笑えと言い、この世の貴重なものばかり捧げて幸福を強要するのに、本人こそ幸福から最も遠く見える。
絶望の底に沈み込んで、傍に居るのに声が心に届かない。怒りと悲しみばかり渦巻いた世界にいるカシュパルが可哀想で、私の胸を締め付ける。
救済の手がかりなど大量の書籍の何処にもないのかもしれなかった。それでも私に出来る事はこれぐらいしかなかった。
文字を追う内に、ふとした疑問が浮かび上がる。
「いつから王を目指したんだ……?」
本人に聞こうと思ったが、最近は以前よりも宮殿に帰って来る時間が遅くなっている。
誰に聞いても宮殿の外の事など教えてくれやしないが、カシュパルが忙しいという事は開戦に向けて着々と準備が進められているに違いなかった。
怒り、泣いて縋り、必死に言葉を尽くしてもカシュパルはそれを止めやしないだろう。
再び強烈な眠気に襲われる。自分の無力さを知る度に、体は私を夢に引き摺り込もうとした。
首を横に振ってどうにか正気を保ち、本を閉じる。
今日はこれまでにしようと図書室を出れば、廊下から出来過ぎた美しい庭園の光景が見えた。
小鹿が青々とした芝生を食むその姿に、羊と名乗ったヴィルヘルムスの事を思い出した。
「何が『羊』だ」
カシュパルをけしかけるなど、猛獣のような猛々しさではないか。
何を間違えたのだろう。何故ヴィルヘルムスはアリストラ国を憎んだのだろう。
ヴィルヘルムスは私にとても親切で、一族として迎え入れたいとさえ言った。それなのに何故。
エリーも救った筈だった。彼女は長寿でこそなかったが、自分の運命を受け入れて悲嘆しなかった。ならばエリーの為にそうする訳ではない。
国民や貴族達に失望したのだろうか。そうなのかもしれない。王宮は孤独な空間で、精神を病むには十分だ。
しかし、思い返せば過去も何故ヴィルヘルムスが王族を全員殺してしまったのか理由は分からなかった。
思考を巡らせる。ヴィルヘルムスの穏やかな笑みの影に隠れた狂暴性が理解出来なくて。
それは彼の本質とは全く逆のようにしか思えず、私は現状に納得が出来ない。
ヴィルヘルムス。お前の事も、救えたと思ったのに……。
溜息を吐いて上を見上げれば、美しい空色が雲に彩られながら広がっていた。それが少し胸の閉塞感を晴らしてくれる。
何処かで見た色だった。暫し考え、ヴィルヘルムスの目の色と同じである事を思い出す。
そして同時に、同じ目の色を持つ男の顔がもう一人脳裏に浮かんだ。
「オークバン……」
未来を見る神、オークバン。彼と同じ空色の目。先を見てしまうが故に、憂鬱に苛まれていた神。
脳裏に閃光の様に過るものがあった。点と点が繋がった気がした。
もしも、ヴィルヘルムスが未来を見るのなら?
ヴィルヘルムスが殺さなくても死んでいた王族達。もしも彼が未来を見るならば、過去の彼は苦しみながら死んでいく運命の王族達を救ったのではないだろうか。
その考えは、恐ろしい程全ての辻褄を合わせていった。
『セレナさん。貴女の望みが叶いますように』
ヴィルヘルムスは私に羊と名乗った。祭りの時、神に捧げて命を絶たれる哀れな生贄。その獣を。
何故今回は王族を自ら殺さなかった? 一体何が以前と違う。
私の望み。獣人も人間も戦い合わず、幸せに暮らす事。戦争とは真逆だ。けれどその先に、更なる不幸が襲うならば?
気力を失い、腑抜けている場合ではなかった。何かが私を急き立てる。大事な何かが見落とされたまま取り返しつかない所まで進もうとしていた。
「テレーゼ!」
私の背後に影の様について来ていた彼女は、唐突に名前を呼ばれて驚いた様子で近づいて来た。
「はい、何でしょうか?」
「カシュパルを呼んでくれ」
「今はご政務中で、」
「直ぐに。私に許される出来得る限り早く」
テレーゼはいつになく声に張りのある私に慣れない様子だったが、頭を下げて一礼すると他の者に伝えに行ってくれた。
私は自室でカシュパルの帰りを待つ事にしたが、とても落ち着いてはいられなかった。
椅子に座ったかと思えば立ち上がり、部屋をうろついて彼が近づいていないか窓の外を見てみる。
ヴィルヘルムスの望みは、戦争だけではなかった。カシュパルが王を目指した事さえ、恐らく彼の指示だろう。
私はカシュパルが王になった事に違和感を覚えなかった。それは、過去彼が王になった事実を知っていたからだ。
けれど王に興味もなく、人間の国にさえ足を踏み入れる混血児が、どうして急に獣人の王になろうとしたか。
私が死んで四年が経過した頃、急に彼は王の候補に名乗りを上げた。別人の様に。誰かにそう仕向けられた様に。ヴィルヘルムスの指示だと考えれば不自然ではなかった。
そうしなければならなかった理由は何だ。
重大な何かである事は間違いなかった。私は必死に考えたが、どうしても思いつかない。答えを知る筈の人物は長い会議でもしているのか、テレーゼに言ってから随分と時間が経っていた。
夕闇が迫って来た頃に、漸く足音が聞こえてくる。どうやら随分と急いでくれているようだ。
それが部屋の前で一端止まった後、演じる様に徐に扉が開かれていく。現れたのは、忙しい様子を気遣って見せまいとするカシュパルの姿だった。
「遅くなってしまってすまない。どうした? 呼んだと聞いたが」
私は待ち望んでいた彼の姿に堪らなくなり、駆け寄って服を掴んで縋りつく。
「セレナ?」
「……カシュパル」
直ぐにでも聞こうとしていたのに、いざカシュパルを目の前にすると余りの重大さにたじろんでしまった。
カシュパルは普通ではない私の様子を察すると、目線で部屋の隅に控えていたテレーゼを退室させる。
それから私にだけ向ける甘ったるい程の優しい声で、静かに丁寧に先を促した。
「セレナ。何があった?」
それに促され、意を決して口を開いた。
「……ヴィルヘルムスは未来が見えるんだな?」
カシュパルは直ぐには答えなかった。ただ何を考えているか私に読み取らせない顔で、僅かに目を細めた。
この問いは只の確認でしかなく、私はそれを確信している。それが分かるように、彼に次の質問をした。
「答えてくれ、カシュパル。ヴィルヘルムスは『何』を救おうとしている?」
カシュパルを王になるように仕向け、アリストラ国に剣を向けるまでしなければ救えないもの。
カシュパルは私の質問から逃れられないのを知り、困った顔をした。それから苦笑を浮かべるといつもの通りに私の体を抱き上げてソファーに腰を下ろし、足の上に私を乗せる。
「知らない方が良い事もある」
「カシュパル」
私は責める様に名前を呼び、ぐいと彼の顔を両手で挟み自分に向けさせた。
何としても知らねばならないと本能が言っている。カシュパルは私の険しい表情を見て、溜息を吐いて白旗を上げた。
私の両手を自分の両手で外すと、額を合わせて内緒話をするかのように小さく言った。
「どうやら、世界は衰退するらしい」
それは私の想像さえも超える、実に恐ろしい宣告だった。




