第六十三話 獣人の王
軍議室ではカシュパルを前に軍幹部達が居並び、緊張した面持ちで広げられた地図に視線を向けていた。
色分けした駒をその上に乗せては、開戦時の状況について議論している。その中の一人ベンヤミンは知将達の発言に耳を傾けつつ、黙して座るカシュパルの様子をちらりと窺った。
特に話される内容に反応する素振りはなく、まるで全ての流れを予め把握しているかのようである。恐らくは彼にとっては今出た作戦など、既に思考済みであって無駄な時間でしかないのかもしれない。
それでも付き合ってやっているのは、上に立つ者として臣下達の程度を把握したい為か、或いは我々にも考えさせる工程を経る事で己の考えに少しでも近づけられるよう努力を促しているだけなのだろう。
彼はいつもそうだった。どれだけ他の者が議論を尽くして隙の無い答えを出したつもりでも、予期せぬ視点から問題点を指摘し、或いは上回る答えを平然と出して来る。
最早会議は教師と生徒の答え合わせのような空気さえある始末だった。
粗方議論が終わった所で、狐獣人の軍幹部バルビエがカシュパルを窺いつつ作戦の内容を説明した。
アリストラ国軍が平原部に出る前に奇襲をかけ、森林地帯を決戦地にする内容である。
「これならば我が国の兵士の少なさを補えます。個人の能力ではこちらが上とはいえ、兵士の数ではアリストラ国が勝っているのですから。戦況は長引くかもしれませんが、最終的な兵士の損失は平原部に出るより少なくなる筈です」
バルビエはカシュパルに多少の自信を滲ませつつ具申した。カシュパルが皆に話しかける様にゆるりと体勢を変える。それだけで、空気が変わったのが分かった。
胸に宿る緊張感と期待。人は自然とカシュパルに集中してしまう。その美しい外貌さえ目を奪う一つの才能であり、低音の落ち着いた声は心に入り込むかの様である。
「成程、悪くない」
認められたバルビエの表情が一瞬明るくなる。けれど、続いて言われた質問に困惑へと変わった。
「お前は子供に石を投げた事はあるか?」
「いえ……」
部屋の全員がカシュパルの意図を測りかねるが、構わずカシュパルはバルビエに質問を続けた。
「骨が折れる程、蹴飛ばした事は?」
「ありません」
「汚泥に突き落とし、漸く得た黴の生えたパン屑さえ踏み潰し、面白半分に服を切り裂き、あばらの浮いた骨を見て何故まだ死なないのだと嘲笑う。彼等はそれを、獣人に対して実行出来る」
此処で漸く、誰をもひれ伏せさせるこの王が過去にアリストラ国で育った過去を皆が思い出した。語られる非道な行いは彼が実際に受けた事だろう。
これまでの会議は獣人同士で時折発生する領地戦の空気があった。しかし今、カシュパルによって全てが覆された。
「人間にとって、我々は只の獣だ」
その一言で、どれだけこの戦いにヨナーシュ全体が注力せねばならないかを理解する。これまで静かな緊張で会議していた面々が、怒りを宿した表情になった。
それを満足そうに見つめ、カシュパルは皆の脳に刻み込むように力ある声で言葉を続けた。
「いいか。雪山が溶け、今回が初めての対人間との大規模な戦争だ。彼等はこれで初めて我々を、獣人という生き物を知る」
人間が余りに獣人に対して無知であるが故に此処まで見下げられる事が出来たのだ。
獣人にとって如何に重要な戦争であるのか、カシュパルはそれぞれの心に知らしめる。
これは過去の怒りを晴らす為の戦争ではなく、未来の獣人と人間の関係を決める戦争だと。妥協した、平凡な勝利などというものをカシュパルは求めていない。
「見せつけろ、獣人の力というものを!」
ダンッ
カシュパルが机を強く叩きつけて響いた音に、皆がびくりと体を震わせた。自然と惹きつけられる視線と関心。カシュパルは覇王の笑みを浮かべながら傲慢に笑った。
「人間が獣人を見下すなど最早永遠にあり得ない。必要なのは勝利ではなく圧勝だ。初手に全てを賭けよ。故に平原部にて蹂躙し、広がる視界に地獄を見せろ」
大海の渦の様な強烈な求心力。王の言葉に飲み込まれていく。部屋にいる者全てが固唾を飲み食い入るように彼を見た。
「万年の栄華を手繰り寄せ、歴史の礎を築く。それ以外の覚悟は不要だ」
人間はこれから獣人というものが如何に強く恐ろしい存在か知るだろう。我々の方が強いと知らしめる事は、強者を尊重する獣人としての本能的な部分を刺激する。
全てを尽くし、人間を殲滅せよ。
カシュパルの言葉が皆の心を浸食する。
普段は冷静沈着なベンヤミンでさえ僅かに体が武者震いしてしまう程の、強すぎる麻薬の様な言葉だった。
まだ年若い者などは、すっかり心酔した様子でカシュパルを見上げている。
それから語られたカシュパルの作戦は、奇知に溢れ、あらゆる状況変化を想定した重厚なものだった。
皆は感嘆し、話を聞くごとに勝利を確信していく。
やがて軍議が終わり、カシュパルが退室した後には皆が高揚していた。この王について行けば、我々の繁栄は約束されたようなものだった。
そんな彼等を横目に見つつ、ベンヤミンは先に退室したカシュパルの後を追って退室する。
廊下の随分先にいるだろうと想定していた彼は、意外にも扉を開いた直ぐ傍に居た。どうやら使いの者が伝言する為に軍議が終わるのを待っていたらしい。
内容を聞き終わったらしいカシュパルの表情が一変する。自信に満ち溢れた人を追従させる顔から、誰しもを怯えさせるような激怒の顔へと。
「何故直ぐに伝えない……?」
「も、申し訳……ぐっ」
震える使いの者の胸倉を掴み上げ、壁に押しつける。本当に殺してしまうのではないのかと思う程不安定に見え、ベンヤミンは慌てて声を荒げた。
「陛下!」
邪魔をされたカシュパルは煩わしそうな視線を一瞬ベンヤミンに向け、けれど正気に戻ったのか使いの者を荒々しく投げ飛ばすように放す。
それから目もくれずに何処かへ急ぎ足で向かおうとするので、ベンヤミンも大股で背後に付きながら口を開いた。
「どうされたのですか」
「セレナが呼んでいる。直ぐに向かわねば」
カシュパルの怒りに直面した使いの者に内心深く同情した。軍議の方が優先されるのが普通の考えである。しかしこの男にとっては、それは許せない程の順位の逆転だった。
一体どうやってセレナという人間を死の国から呼び戻したのかは分からないが、それについて触れる事はタブーとなっている。
明らかに通常でなない何かが起きている。けれど皆、カシュパルの有能さを盲信し唯々後を追うばかり。
ベンヤミンはそんな周囲から一歩引いた態度でカシュパルを見ていた。昔抱いた不安が今も残っているからだった。
けれどもうベンヤミンは王となった彼に付き従わねばならない立場である。
「本当に敵軍を壊滅させるおつもりですか」
「……そうだ」
カシュパルの作戦には不利状況を作り上げ降伏を促すような視線は全くなかった。これでは全てが上手くいけばどれだけの死者が出る事だろう。
多くの人間を殺す。それはつまり。
「セレナ様に恨まれるのではありませんか」
言わずにはいられなかった。明らかに彼女の事に関しては不安定になるカシュパルが、彼女の最も嫌う事をして心が離れた時にどうなるか。自身の想像する最悪さえ超えるような気がして。
先程の使いの者のような激怒を向けられる事を覚悟して言ったが、不思議な事にそうはならなかった。カシュパルはただ少し顔色を白くして、うわ言のように呟いた。
「仕方のない事だ。この戦いだけは。今回だけは。何としても実行せねば」
それから立ち止まり誰も居ない壁を暫く見つめた。まるでその場所に誰かがいるかのように。
「陛下……?」
様子のおかしいカシュパルに呼びかける。しかしその異常は一瞬で、気付いた時にはベンヤミンの前にはいつも通りのカシュパルが戻っていた。
自信ありげな普段の笑みを見せ、心配するベンヤミンの肩を叩く。
「みだりに口にするな。不吉が寄る」
それは一見、彼の心配を聞き流しただけの様な言葉だった。けれど本能的に悟る。これは警告だと。
その紫の目の向こうに広大な凍てつく氷原を見たような気がして、ベンヤミンは思わず立ち竦んでしまう。長年強大な魔物にも臆さず、凶悪な犯罪者にも怯まず戦い続けて来た竜人さえも動けなくさせる静かな怒り。
けれどカシュパルは硬直したベンヤミンにそれ以上の興味を持たず、背を向けると足早に宮殿へと向かって行ってしまった。
その後ろ姿が角に消え、足音も聞こえなくなった所で漸く動けるようになる。冷や汗が噴出した。
間違いなく、カシュパルは『堕ちて』いた。底知れぬ心の闇を抱え、破壊衝動を内に秘めている。
しかしそれを悟らせない狡猾さ。彼は計算によって王を続けている。
ベンヤミンはそれに気がついたが、今更どうしようもなかった。カシュパルは王だった。稀代の獣人の王だった。
皆、彼以外の王を戴くつもりはない程に心を奪われている。
ならば自分が成すべき事は彼の最も近くに侍り、万が一のその時にカシュパルを止める事だろう。
誰も見ていない廊下で、ベンヤミンは静かに拳を握った。




