第六十二話 罪
ベッドで寝続ける私をカシュパルが心配しているのは分かっていたが、自分自身どうしようもなかった。
まるで現実から逃げるかのように、常に眠気が襲って身動きが取れない。
そんな私をカシュパルは時間の許す限り離そうとせず、王として心配になるぐらい傍に居続けた。
そして人形遊びでもするかのように、私の手入れをする。
以前は一度もした事のないような女らしい綺麗な恰好をさせて、古傷だらけの体に傷薬を塗り込んで、髪を櫛で梳かす。
高い城壁の外に出る事は許されなかった。まるで一歩踏み出しただけで、何者かに襲われるとでも思っているかのようだ。
それは昔、カシュパルが私にそうしたいと願っていた事である。剣を取り上げたい気持ちを隠さず、私を養うと常に言っていた少年を思い出す。規模が大分違うが、遂に彼は実現した。
けれどそこに私の希望はない。女らしい格好をしたいと思った事もなければ、幾ら広いとはいえ閉じ込められるのも好きではない。その事を知らない訳ではないだろうに。
ただ抵抗するのも面倒で、流されているだけの毎日である。
暗い気分は私の胸に居続けて、過ちが声高に自分を糾弾してくる。ヴィルヘルムスが戦争を望み、カシュパルが私の為に応えたという現実は何もない時に涙を流してしまうぐらい自分の心を疲弊させた。
信じ、助けたヴィルヘルムスがそこまで何かを憎悪してしまったという事が何よりも辛かった。
何故、何故、何故。あんなにも私に優しく出来た子が、故国の破滅さえ望むのか。
油断させてカシュパルへ無抵抗に送り込む為だけに、演技していただけだったのか。
私が勝手に希望を抱いただけなのに、裏切られたような気がした。
時折調子が良い時に庭を散策するのだけが、唯一の気分転換である。
今日はカシュパルが何かを見せたいようで、私は抱きかかえられた状態で宮殿の奥へと運ばれた。
微かな風に遊ばれて揺らめいているワンピースドレスの白さと相まって、力なく体を預けている様はまるで幽霊の様な儚さだった。
広い庭のさらにその先。大きな閉ざされた扉があり、何人もの衛兵が並んで厳重に警備されていた。
「……此処は?」
広大な敷地の全てを見回れていなかった私は、こんな場所があった事に驚いて顔を上げた。
「見れば分かる」
カシュパルは扉を開けさせた。目に飛び込んできたのは美しい一本の木である。
緑の芝生の上に生えた白銀の幹に、風にそよぐ黄金の葉。赤い実は熟して今にも落ちてしまいそうだ。
絵本から飛び出したかのようなその木は、この世で一つだけの貴重な存在だった。
「まさか、霊木……?」
ユピテルの霊薬の原料である木である。見ているだけでも力を与えてくれそうな神々しさだった。
吸い込まれるように私はカシュパルの腕から降りて、ゆっくりと霊木に近づいていく。唯々綺麗で魅入ってしまった。
「気に入ったなら、好きなだけ見に来れば良い」
一体何時からこの場所にあるのだろうか。年月を重ねた木肌はまるで竜の鱗の様だ。遥か時の彼方から大事に皆に守られてきたに違いない。
「セレナ」
振り向けばカシュパルは小さな小瓶を手にしていた。香水瓶の様に可愛らしく装飾されたその中に、透明な液体が入っている。
私はその中身が何であるのか分かってしまった。短命種の寿命を延ばすユピテルの霊薬である。人間であれば残りの寿命の時間を、倍は引き延ばしてくれるだろう。
背筋が冷えていく感覚。私は一歩カシュパルから遠ざかった。
けれど長い足のカシュパルは簡単にその距離を詰めてしまって、私の手を取るとその小瓶を無理矢理握りこませる。
「飲んでくれるだろう?」
未来をあげると約束した。彼とずっと共にいるとも言った。しかし手は震えるばかりで動かない。
自分の中に、確かに恐怖が存在した。
向けられた愛の重さが耐えきれなくて目を逸らしたかった。カシュパルを愛している。それは間違いがないのに。
けれど彼が私の国を襲った後も、果たして同じ心で居続けられるだろうか。
笑うカシュパルの表情が豹変した。真顔に代わり、いつまで経っても飲もうとしない手の中の小瓶を奪い返す。
それを自分の口に含ませると、強引に私に口移しで飲ませようと押し込んだ。
「ふ、……!」
指でこじ開けられる口。抵抗するも、幾らかの液体は喉の奥に流し込まれてしまう。
私が飲み込んだ後にカシュパルは顔を離し、勝ち誇ったように言い放った。
「無駄な事をするな。霊薬など、幾らでもあるのだから」
王の権力を使い、貴重な霊薬を全て私に消費させる事さえ今のカシュパルなら出来るだろう。
けれどその攻撃的なまでの押しの強さが悲しくて、私は顔を歪めてしまう。
一体、どうしてこうなったのか分からなかった。
昔のカシュパルは違った。気難しい硬い蕾を花開かせるような、優しい愛し方を知っていた。
けれど今はどうだ。まるで花を摘み取り、枯れる事さえ厭わず頑なに握りしめ続ける様なそんな痛々しさである。
私の哀れむ目を見たカシュパルは奥歯を噛み締め、眉間に皺を寄せて叫んだ。
「貴女が俺に教えたんだ! 死は死でしかないと。永別が予兆もなく、絆も関係なく、無情に唐突に襲うものだと! だから俺の長い生に、命擦り切れるまで付き合ってもらわねば」
カシュパルの激怒を目の当たりにして、私の体は硬直してしまった。威圧感のあるカシュパルに責められて、平常心でいられる者はいない。
けれど私の様子を見たカシュパルは慌てて眉を下げ、情けなく許しを求めた。
「すまない。……すまない、セレナ。貴女を怖がらせるつもりはなかった」
自分でも感情の制御が出来ないでいるようだった。それから消えるのを恐れる様に私を強い力で抱えた。そのままずるずると草の上に腰を下ろし、縋るように私を見る。
カシュパルの手が私の頬に触れる。何度も、何度も。そして虚ろな紫の目を間近で見て、彼の心が粉々に砕けてしまっているのを理解した。
「セレナ」
泣きそうな表情で、カシュパルは言った。
「優しくて懸命な、俺のセレナ。どうして貴女があんなにも傷つく。痛かっただろう、辛かっただろう」
二十八年の歳月などなかったかのような口ぶりである。墓の前で懺悔する者にも似ていた。それは今も彼の心が赤く血を流しているからに違いない。
「助けてやりたかった。傍に居なければならなかった。なのに俺は、馬鹿みたいに気がつきもせず」
カシュパルの手が当時を思い出したのか酷く震えていた。私が自分の手を重ねる事で、漸く僅かに震えがおさまる。
「それでも私は、戻ってきたじゃないか。カシュパル」
「ああ、そうだな、貴女は戻ってきた」
私の言葉が上滑りして、彼の心に届かない。目を合わせているのに、その視線は私を突き抜けて何処か遠くを見ているかの様である。
それからカシュパルは攻撃的な笑みで、その裏の決意が分かる程強く言った。
「もう二度と、誰にも傷つけさせない」
「カシュパル」
「……俺に触れてくれ。貴女が此処に居ると分かるように」
それは深淵のような悲しみと、現実への根強い不審に満ちた言葉だった。
静かに長く息を吐きながら、そっと彼の頬に触れる。哀れだと思った。余りに哀れな現状だった。
彼の中で、私はまだ死者と変わらなかった。生きていると口では言いつつも、心では陽炎の様に儚い物だと思っているのだ。
だから酷く一方的に自分の感情を押し付けてくる。そして私と共に居つつも、カシュパルの心は休まらないに違いない。
ヴィルヘルムスとの誓言を守らねば、私が消えてしまうと本心から思っているのだろう。いくら王族との約束だからといって、そんな力はないのに。
一度砕けてしまった心を、元に戻すにはどうしたらいいのだろう。
その苦しみは誓いをカシュパルが果たした後、本当に解消されるのだろうか。
力なく彼の胸に擦り寄ると、固い感触が頬に当たった。それが何なのか指先で確かめようとすると、カシュパルは内側のポケットから四つの翼を持つ鳥のチャームを取り出した。
それは以前よりも古びていて、けれども大切に扱われていた事がわかる。
「セレナに、返さなくてはな」
カシュパルはそう言うと、私の掌にそれをそっと置いた。まるで私の代わりの様に、常に身に着けてくれていたのだろう。
それは間違いなく愛に違いなく、けれど何故、二人は同じ方向を見る事が出来ないのだろう。
底の見えない大いなる愛。嘗ては確かに祝福だった筈なのに。
「……お前は本当は、恨みに飲まれる筈だったんだ」
私の独白に、カシュパルは静かに耳を傾ける。
「あの、薄汚れた路地裏から私ではない者に助けられて。けれど相手が人間に殺されてしまって。お前は人間を恨み、滅ぼそうとする残虐な王だった。殺す気でお前の過去に会いに行ったが、哀れ過ぎて殺せなくなってしまった。馬鹿な私は、お前が人間を愛するようになれば全て救えると思ったよ。人間も、獣人も、お前も、私も」
これが私の罪だった。勝手な希望を抱き、任務を放棄し、他人の心を信じた。
カシュパルは私の告白に難しい顔をして、彼の髪や頬に触れようと伸ばした私の手を受け入れる。
どうしてこうなってしまったのだろう。失敗したのは明らかだった。私は選択を間違えて、最早事態は手に負えない。
疲れ果て、諦めた心を隠さず、罪人である私は彼に言った。
「……お前はちっとも、幸せそうじゃないな。カシュパル」
誰よりも幸せになって欲しかったのに。
カシュパルは大きく目を開きはっとした表情になると、奥歯を噛み締めて私の頭を胸に寄せた。
見えなくなったカシュパルの表情の代わりに彼の鼓動が耳に届く。歪に早い律動だった。
「貴女を見失ってから、俺はずっと沼の底だ。今となってはそれがどんなものであったのか、それすらも覚束ない」
カシュパルの私を抱く手に力が籠る。
「この温もりだけが唯一の縁。だからセレナ、傍に居てくれ」
かつて私の形こそ幸福だと言ったカシュパルは、こんなにも近くに居る私の姿が見えないかの様だった。
霊木から黄金の葉が視界の端で舞い落ちる。大昔からこの場に佇む偉大なる巨木でさえも、不変ではないと教えるかのように。
あんなにも傍にあった幸福が、今は二人から残り香も消える程遠ざかってしまっていた。




