第六十一話 ありえない
オレクは側近にさえ居場所を伝えず何処か遠くへ行ってしまったカシュパルに執務室で一人、頭を抱えていた。
豹獣人の寿命は百八十年程なので、オレクの外見は人間で言えば三十代半ばで止まっている。しかし外見とは関係なく、カシュパルの出世と共に責任ある立場になった彼の振舞いには貫禄が出ていた。
若い部下が王の不在に気付き動揺しているのを、仕方なく表に出て宥める日々である。
首都の警備を任された王の側近という立場でさえあるのに、彼に振り回されるのは若い頃と全く変わっていなかった。
二十四年前、突然オレクの前に帰ってきて王を目指すと言ったカシュパルについて只管共に駆け抜けて来たが、最近は胸に不安が生まれていた。
「団長……今回も、宮殿関係でしょうか」
部屋に共にいた部下が眉を八の字にしてオレクに言う。その言葉を否定出来ず、投げやりに答えた。
「だろうな」
カシュパルが王になり権力の全てを手中に収めてから、心血を注いできたのが宮殿の改修である。
惜しみなく金を使い、当代随一の職人に宮殿を飾らせて、手抜きは決して許さなかった。他の作業を優先した職人の腕を切り落としさえした。
宮殿から宝石を盗んだ男は最も酷い拷問にかけられて死体を晒された。カシュパルは宮殿に関しては苛烈極まりなかった
やり過ぎだと諫めた事もあった。けれどその時カシュパルは、オレク達を不出来な者を見るような目で言った。
「最も尊い者の住まいだ。妥協は許されない。宮殿を見た者万人に、一目で存在の価値を理解させなければ」
周囲の者は、カシュパル自身の偉大さを知らしめる為にそうしているのだと認識した。
けれどオレクを含めた、昔から共に過ごしていた数人はカシュパルが誰の事を言ったのか正確に理解した。
カシュパルを救い、心の全てを奪った一人の人間の女。
彼女がどうしているのか、カシュパルに聞いても誤魔化されるばかりで答えてはくれなかった。良くて振られたか、悪くて死んだのだろうと思っていたが。
死んだのだろうな……。
その考えを肯定するように、カシュパルは自分の服の新調に合わせて必ず女性の服も作らせた。
料理も必ず二人分毎日用意させて、手を付けられない一人分に冷めたスープを出しただけで首を飛ばした。
庭は常に完璧を求めて維持をし、放たれた獣達が老いれば入れ替えさせてさえいる。毒草や棘のある植物は決して許さず、間違えて植えられていた時は罰として命の危険さえあるそれを口にさせた。
宮殿で主人の居ない空き部屋に手入れを怠る事を決して許さない。彼が腐心して作り上げた宮殿は、セレナの霊廟と変わりがなかった。
完璧な王だと思っていた男が、実は危うい精神状態であると気がついたがもう止める手段は存在しない。
或いはそもそも王を目指す事さえ、宮殿を作る為の手段でしかなかったのかもしれない。
宮殿で働く者達は皆、王の視線を酷く気にしている。
カシュパルは国民からすれば名君、賢君と呼ぶに相応しい器だった。けれど唯一、この宮殿に関しては、暴君と言っても差し支えなかった。
オレクの胸に、不安が生まれたのはその頃からだった。
自分が仰ぎ見続けてきた男を、本当に王にして良かったのだろうかと。
カシュパルはアリストラ国との戦争の準備を着々と進めている。多くの者の血が流れるだろうこの戦いに、心から同意する事が出来ない。
オレクはセレナを通して人間を知っている。彼女の国に剣を向ける事に気が重くて仕方なかった。
獣人奴隷事件を皮切りに生まれた、一度は獣人の力を見せつけなければ気が収まらないという国民感情に押されて、皆の意を汲む形でカシュパルが戦争を進めているように見られているが、実は全く逆である。
負の感情を抱きやすいように情報統制したのはカシュパルだ。
更に踏み込んで考えるならば、雪山が消えて往来の激しくなった国境付近の警備が手薄なままであるのは両国の間で問題を引き起こす為ではないのだろうか。
全てを手の内で弄び、素知らぬ顔で他人の血を流させる。カシュパルはそれが出来る男だった。
カシュパルについて行けば、最良の結果を出してくれると信じていた。
けれどいつからか、オレクはそれを心から信じる事が出来なくなってきている。
何故なら今は、セレナがいない。
彼女が傍に居るならば、カシュパルは顔色を窺うだろう。全ての行動を人道的な範囲内に収め、善良でさえある筈だ。
その留め金がなくなってしまった今、この戦争はどんな凄惨な結果を生むのだろうか。
執務室で溜息を吐きながらそんな事を考え、今回はカシュパルにどんな諫めの言葉をかけようか考えていると、慌てた部下が執務室に駆け込んで来た。
「陛下が戻られました!」
「……報告ご苦労、すぐ行く」
オレクが急いでカシュパルを迎えに門まで行くと、彼は何かを抱えたまま馬車から降りる所だった。
カシュパルの外套に隠されたそれは、人のように見える。
一体誰を持って帰って来たのかと呆れながら近づくと、オレクに気がついたカシュパルが底抜けに嬉しそうに笑いながら抱えている者の顔を見せた。
「オレク、見ろ。遂にこの人が帰って来てくれた」
移動に疲れたのか瞼を閉じて眠るその人は、確かに彼が愛したセレナそのものだった。
しかも別れた時と、見た目が全く変わっていない。
そんな馬鹿な。
信じられなくて、何度も何度も彼女の顔を確認する。まともに生きていたとすれば、七十近い年齢の筈である。ならば一体、目の前にいる彼女は誰だというのだ。
「この世で最も尊い人だ」
幼い頃は苦笑して聞き流せた言葉が、今は真実味を帯びている。普通の人間ではあり得なかった。
常識外の存在が目の前に居て、部下の前で職務も忘れて呆然と呟くしかなかった。
「生き返った……?」
肯定するかのようにカシュパルは笑う。歩き出した彼の後を、放心しながらついて行くしかなかった。
カシュパルは眠る彼女を愛おしそうに見つめ、時折額に唇を寄せる。それはごく普通の恋人の様子に見えるが、彼が今までしてきた事を思えば空恐ろしい程の深い感情だった。
オレクは必死で考えを巡らせる。神話の中でさえ、人が生き返った事はない。王族の中には癒しの力を持つ者がいると聞くが、蘇生の力まではないだろう。
何もせずにこんな奇跡が起きる筈がない。
カシュパルが推し進める戦争が、オレクの脳裏に思い浮かんだ。
人を生き返らせるには、それなりの犠牲が必要なのではないか。
例えば代わりに大量の死者を捧げなければならないとしたら。
如何にも尤もらしい理由に思え、背筋が凍る。この男ならば彼女の為に、そこまでするだろう。
「カシュパル」
オレクはあえて陛下と呼ばずに、昔の様に友人として名前を呼んだ。カシュパルの足が止まる。
「お前を信じて、良いんだな?」
暫しの無言。不敬な発言にオレクの額から冷や汗が流れ落ちていく。友人である自分でさえ、セレナに関した暴言は許されないだろう。
けれど前を歩くカシュパルの肩が震えているのを見て、いつぶりかも分からない程笑っている事に気がつく。
「はは、おかしな事を言うな。オレク」
振り返るカシュパルの顔は幼少期に見た純粋さで、一瞬昔に戻ったような気がした。
「俺は昔から今まで、寸分違わずこういう男だっただろう」
その通りだった。
昔からオレクはカシュパルの背を追い続けるばかりで、王になるというカシュパルの夢に乗って此処まで連れて来てもらっただけである。
その背の向こう側で、カシュパルがどんな表情をしていたのか。オレクは気にさえしてこなかった。
そもそも、最初から関係性を間違えていたのだ。自分が友人としてやるべき事は、カシュパルの真意を問いただして場合によっては止める事ではなかっただろうか。
何かと口煩くカシュパルを止めようとして、とある任務で犠牲者が出た時は急ぎ過ぎたカシュパルに怒り、遂には遠ざけられたリボルの様に。
けれど最早カシュパルは誰にも止められない絶対権力者にまで上り詰め、オレクの言葉など耳を貸さないに違いない。
冷や汗はいよいよ量を増して、胃がむかついて仕方なかった。
彼女を抱え、オレクに背を向けて歩き出したカシュパルを追う事が出来ない。
死より蘇ったセレナは昔と同じ彼女だろうか。もしも死に属する者として多くの生贄を望んだのならば、この世は地獄と化すだろう。
オレクは漸く気がついた。
自分が憧れて追い続けたのは、善良なセレナという女性が隣に立つカシュパルであった事を。
今更どうする事も出来ない無力な自分を嫌悪して、オレクは神たる竜にそうする様にセレナに祈るしかなかった。




