第六十話 竜の巣
何人も寄せ付けない巨大な城壁の一つしかない門扉を潜った先に、その白亜の宮殿は存在した。
それを初めて見た者は計算し尽くされた建築美に立ち竦むに違いない。
川から贅沢に引いて来た澄んだ水が滔々と流れ、宮殿をぐるりと巡っていく。水面から反射される光はまるで宝石の様に煌めき、全ての時間帯で風景を装飾した。
白い壁は汚れ一つなく朝焼けを映し出しては橙色に輝き、夜闇の中では月の様に浮かび上がるだろう。
けれど眩すぎないのは、美しい樹木が寄り添って植えられているからだ。白に映える緑が完璧な調和を生み出している。
浅く緩やかな水のせせらぎに癒されながら橋を渡れば、宮殿の隣に作られた広大な庭園が目に入るかもしれない。
それは中で住まう者にこそ完璧に見える様に計算されていた。
見上げれば鮮やかな鳥達が甘美な声で人を誘い、地面では放されている草食獣が人に慣れた様子で歩きまわり目を楽しませる。
ある場所では果樹がたわわに実を付けて、別の場所では花木が季節を告げる。
一見無造作にごく自然に生えているように見える植物たちは、知識ある者からすれば脱帽する程の徹底的な管理の元にあった。
何処に目を向けても絵画の様で、時を忘れて楽しめるだろう。感受性の豊かな者ならば涙を流すかもしれない。
音楽の一つでも流れてくれば、出来過ぎた夢と変わりがなかった。
けれど行き交う獣人達は顔を強張らせ、堪能する様子もなく黙々と作業に没頭する。
此処が竜の巣の中である事を、働く者達は皆知っていた。
ずっと、戦い続けていた。
希望を持って、未来を信じて、人を愛して。
笑いながらでも、剣を握っていなくても、常に心では立ち向かい続けていた。
けれど突き付けられた現実に芯が折れてしまって、もう何をする力も湧いてこない。
私はこれまでの人生で一度も着た事のない王女のように煌びやかな服を身に纏いながら、昼間から無造作に広いベッドの上で寝転がっていた。
慎みがない事この上なかったが、此処では誰もそれを咎めない。
服が皺になるのを以前ならば気にしていただろうが、クローゼットの中に呆れるぐらい高そうな服がずらりと並べられていてどうでもよくなってしまった。
何も考えずただ天井の絵を眺めている内に、時間は過ぎて行く。
外から聞こえてくる水のせせらぎの音と、鳥の鳴き声に耳をすませて、肌触りの良いシーツに手を滑らす。
外から扉を叩く音がして許可を出せば、兎獣人の若い女性が入室してきた。彼女は私につけられた侍女のテレーゼである。
誰かに仕えられる事など身の丈に合わず断りたかったのだが、カシュパルは頑として譲らなかった。
テレーゼは私が朝と変わらずベッドの上で転がるのを見て眉を寄せた心配気な表情を作ると、深々と腰を折りながら言った。
「セレナ様、昼食のお時間です」
「……分かった」
少し前に朝食だった気がする。時間が経つのがあっという間だった。
面倒な気持ちを堪え、体を起こす。立ち上がってテレーゼの後に続いて部屋の外に出れば、美しい廊下が目に入った。
壁に描かれた絵や、置かれた調度品。どれも精緻で作った者の労力を思わずにはいられない。
ヴィルヘルムスが暮らしていた王宮は、歴史に裏付けられた古今東西の美術の集積所だった。
一方この場所は真新しい物ばかりだが、今の時代の技術と芸術の粋が詰め込まれている。調度品一つ一つに調和があり、周囲と馴染んでいた。この建物全てが一つの作品の様で、ヴィルヘルムスの王宮に勝るとも劣らない。
何故私はこんな場所に住んでいるのだろうという幾度目かの疑問を浮かべ、その度に思い浮かぶ顔に呆れた溜息を零した。
案内された先の部屋では既に準備が整えられており、大きな机いっぱいに皿が所狭しと並べられている。
「こんなに用意しなくていいと、言っているだろう……」
大家族でもなければ完食出来ない量だった。テレーゼが恐縮しつつ頭を下げて言った。
「申し訳ございません。お気に召す物だけお食べ下さい」
原因は分かっている。私が口にする量が少ないからだろう。とはいえ、好みの問題ではないのだから種類で攻められても困るだけである。
しかも昨日とは料理の盛り付け方が変わっているように見え、料理人を変えさえしたのかもしれない。
私は大量の皿の中から鶏肉のスープを選んで引き寄せる。口につければ野菜の酸味の利いたさっぱりとした味付けで、どうにか半分程食べる事が出来た。
「手を付けなかった皿は勿体ないから、好きに食べてくれ。何なら救貧院にでも送ってくれると嬉しいが」
「これ以上は難しいですか?」
「ああ」
そもそも食欲自体が全く湧かないのである。テレーゼは困った表情をしていたが、私がこれ以上手を動かさないのを見て頭を下げた。
「散策はいかがでしょうか。今日は天気もいいですから」
カシュパルに念を押して私の世話をするように言われているのか、テレーゼは本当によくしてくれていた。
気力の湧かない私を気遣って、あれこれと提案してくれる。
私はそれが有難く、そして変わらず寝るばかりの毎日に申し訳ない気持ちだった。だから今回は誘いに乗る事にする。
「そうしてみようか」
広い庭に出れば、私を見た庭師が頭を下げて邪魔しないように何処かに姿を消した。
何処の馬の骨かも分からない私であるのに、この場所でそのような侮蔑の視線を受けた事は一度もない。
遠くには宮殿を囲む高い城壁が見え、この場所が鳥籠である事を私に教える。けれどそれを除けば、住まいとしてこれ以上ない最高の環境だった。
花の咲いた低木樹の傍に腰を下ろし流れの緩やかな水面を覗き込めば、綺麗な恰好をした女の姿が僅かに歪みながら映し出される。
けれど水に伸ばした腕は戦って出来た古傷だらけの無骨さで、どんなに着飾っても覆い隠せない現実が滑稽だった。
指先を水につければ冷えて心地が良く、勘違いした間抜けな魚が近寄って突いてくる。
それをぼんやりと眺めながら、時が過ぎるのを待つ。
何も考えたくなかった。何も。何も。
体が地面に沈んでいく。瞼が見えない手に閉じさせられるかのようで、恐るべき睡魔の力に抗えない。
こんな所で寝てはいけないと思いつつも、立ち上がる気力はなかった。
うと、うと。
微睡んでいただけなのか、眠ってしまっていたのかも分からない。目を閉じて寝転がっていた私の体が、唐突に誰かの腕に抱き上げられた。
浮遊感に目を開くと、私を凝視するカシュパルの顔があった。竜人の血を引く彼にとっては、私など小さな人形を持ち上げる労力とさして変わりがないらしい。
再会してから、カシュパルは良く私をこうして抱えて運ぶようになった。離れた時に起きた悲劇が、どれだけ大きくカシュパルの心に傷跡として残っているのかがよく分かってしまう。
今もその顔が強張っているのは、私の寝姿に死を連想したからだろう。
「……おかえり、カシュパル」
呼びかければ、漸く彼は安心したように微笑んだ。
「セレナ」
身に纏う王の恰好が彼にはよく似合っていた。私が拾った時のみすぼらしい面影は何処にもなかった。
「……準備は何処まで進んだんだ?」
閉じ込められている私には、宮殿の外の情報が何も伝わってこない。テレーゼを始めとした使用人達は口が堅く、必要以上に私に物を言わなかった。
カシュパルは距離を感じさせる笑みを浮かべた。
「外の事は忘れろ。貴女が背負わねばならぬ物ではない」
優しい言葉だったが、酷く心が痛む。顔を俯かせれば、勝手に涙が一滴落ちて行く。感情が上手く制御出来ない。
カシュパルは私の顔を手で強引に上を向かせると、再び浮かんでいた涙の雫を唇で吸い取ってしまった。
「セレナ。俺だけを見ていればいい。俺が貴女にそうであったように。望む物は地の果てからも此処に持って来よう。だからもう、悲しんではならない」
昔と変わらず優しい声色。けれどカシュパルの瞳の暗さが胸を締め上げる。
私が傷つけてしまった事が悲しく、けれどだからと言って彼の言う通りに出来ない事もまた悲しかった。
いつか夢見た通りにカシュパルと共にあるのだから、幸せなんて忘却一つで手に入るだろう。それが可能ならば。
忘れたいと願う程に、胸に浮かび上がってきてどれだけ強く刻まれているかを思い知らされる。
「……頭から離れないんだ。ヨナーシュ国もアリストラ国も。辛い事も多かったがそれだけじゃなくて。可愛いヴィルヘルムスと、愛しいカシュパルがそれらを壊そうとしている」
私の手は恐怖に小刻みに震えていて、彼にもそれは伝わったに違いない。涙が溢れて落ちて行く。それしか出来ない子供と同じ様に。
「私のせいだ。私の……」
誰も知らなくとも、私は大罪人だ。けれど再び時間が巻き戻れたとしても、剣をあの貧相な子供と無垢な娘に突き立てるには余りに愛おしく。
私を抱く男に向けられない剣が、自分の心を切り刻んでいくようだった。
「貴女の過ちではない。ただ世界、或いは運命、その様な何かが貴女が思うよりも遥かに残酷であっただけの事」
カシュパルは悲しげに眉間に皺を寄せると、私の額に唇を落とす。慰めようとしている様で、全く滑稽な事である。
暫くしてどうにか涙が止まると、それを見計らって彼が口を開いた。
「庭は気に入ったか?」
「……ああ。いい場所だ。夢の中みたいで」
「それは良かった」
それから私を抱えたまま歩き出し、宮殿へと移動していく。高い視点で見える景色は少しだけ気分が良かった。
「軽くなった。料理が口に合わないのか?」
「料理はどれも美味しいよ。私には勿体ないぐらいだ。只少し、食欲が最近湧かないだけだ」
カシュパルは眉を寄せて深刻な表情をした。
「勿体ない? 貴女が勿体ないと言う程の物が、この世にあるだろうか」
恐ろしい事に、この男はそれを本気で言っていた。
カシュパルは私を部屋に辿り着き、ソファーの上に漸く降ろした。その隣に隙間なく座ると、後ろに控えていたテレーゼに命を下す。
「宝飾品を此処に持って来い。全て」
「全て……ですか」
「二度言わせるな」
彼の冷たい声に顔を青ざめさせたテレーゼは、勢いよく頭を上げて慌ただしく部屋を後にした。
「彼女を気に入ってるから、そう厳しく当たらないでやってくれ」
「セレナが望むなら。けれど先に言っておく。俺は誰からも貴女を侮らせるつもりはない」
カシュパルは王だった。彼の意向に誰が逆らえるだろう。私の事を尊重してくれているが、譲れない部分で妥協を見せる事はなかった。
それでも腰に回された手や触れるだけのこめかみへの口づけが優しくて、惑わされていく。
やがて沢山の人が大量の小箱を抱えて部屋に運び込んで来た。机の上に乗り切らず、別室から机を持って来ても到底足りない。
置き方に苦労する使用人達に呆れたカシュパルが、布を床に敷かせてその上に積み上げさせた。
そして無造作に大きなイエローダイヤのついたネックレスを手に取ったかと思うと、私の手に乗せる。価値など分からないが、石の見た事もない大きさから途方もない額であるのは間違いなかった。
「これは百二十年前に西部グルーア鉱山で産出された物だ。この石の所有権を巡り、当時二つの大きな商団が競い合ったらしい。最後はどちらも衰退するまでになり、片方の商団主は責任を取って首を吊りさえした」
カシュパルは口の片端を上げて彼等を嘲笑った。それから次は山の中から半冠を指で持ち上げて、私の頭に乗せて遊ぶ。
「山羊族の儀式に使われていた物だ。けれども第三十二代の首長は敵対する部族に奪われた己の妹を取り返す為、これを渡した。妹は無事に返されたが、その後は針の筵だったらしい」
それからカシュパルは、そんな話を宝石毎に幾つも私に聞かせた。話の中では共通して宝石を巡って誰かの命が救われたり、奪われたりする。
「分かるかセレナ。時にこんな石如きが命より尊重される。愚かな事だ。けれども一方で分かりやすくもある。他人に知らしめるには丁度いい」
カシュパルは後悔を滲ませた笑みを浮かべた。
「セレナが森で塵芥の如く殺された時。俺はセレナの価値が他者には分からない事が、理解出来なかった。ならば今度は分かりやすくしてやらねば。二度と愚か者が現れぬように」
そう言いながら、カシュパルは私に別のネックレスをかけた。それから指の一つずつに指輪を嵌め、服には華やかなブローチを留め、耳に大きな耳飾りをつけさせる。
身に着ける毎に体は重くなっていく。確かに宝石は綺麗だったが私には似合わず、ましてやこの量は不便なだけで眉を寄せる。
カシュパルはそんな私を宝石塗れにした所で、満足そうに笑った。
「名のある石は全て貴女の元に。けれどもどれも玩具の様に扱えばいい。飽きたなら庭にでも捨て、目障りならば壊してしまえ。そうしてこそ、貴女の尊さが僅かでも伝わるに違いない」
冗談の様に積み上げられた煌びやかなそれらは、視覚的に私に彼の心を訴える。
カシュパルは私にも警告していた。自分にとって、私の価値がどれだけのものであるのかを。
彼の前では私自身を卑下する事さえ叶わないだろう。ましてやどれだけ自分を嫌悪する事になったとしても、命を捨てる事は明らかに許されない。
今の所実行するつもりはないが、全てを投げだしたくはある。カシュパルはそんな私を理解し、精神的な枷を嵌めたのだった。
楽しそうに笑っていたカシュパルだったが、少し真顔になり一つの石を私の掌に置いた。
「ただ……そうだな。これだけは持っていてくれ」
渡されたのは他の宝石に比べれば輝きのない水晶のような石だ。何処からか外して来たのか、加工の跡がある。
首を傾げれば、カシュパルは事もなげに言った。
「魔水晶だ。守護の魔術が込められていると聞く」
驚いて落としそうになる。魔術そのものを封じ込める鉱石で、念じるだけで子供でも使えるという。大昔は映像を記録させて遊んだと聞くが、産出していた鉱山は当の昔に閉山してしまって市場にはもう出回らない。
「そんなもの、何処から」
「王冠に嵌められていた物を外した」
最早何も言うまい。考えるのも疲れてしまって、私は無言のまま重いだけの宝飾品を一つずつ外していく。
ネックレスを外した時、ふと思いついて彼の角にかけてみた。細い鎖の様に小さなダイヤが連なるそれは、カシュパルの華やかな外貌もあって私よりも余程似合う。
カシュパルは私の戯れに笑った。けれど何かを突き付けられたように徐々に顔を歪めて私の胸に額を押し付ける。
「セレナ」
私の両腕を掴み、王たる男が過ちを犯した子供の様に弱弱しく懇願する。
「……笑ってくれ」
言われて、再会の時以降自分が全く笑みを浮かべていない事に気がついた。
どれほど美しい庭があっても、華やかな宮殿に住んでいても、頬が落ちるような最上の料理を出されても。
私の顔は仮面の様に動かないか、涙を流すばかり。
こんなにも愛してくれる人が傍に居るのに。
気鬱なままにそっと目を閉じて、カシュパルの縋る熱を只受け入れる事しか出来なかった。




