第五十九話 選んだ未来の答え合わせ
一切話さない静かな朝食を終えた後に、上役の神官が今日の注意事項を皆に伝えた。
「今日は聖堂には入らないように。首長に近い方の儀式に使われる事になっています。礼拝の時間は各自、礼拝堂か自室にて行って下さい」
カシュパルの事だ。間違いない。
静かに耳を傾けるだけの周囲に溶け込めるように、顔に浮かんでしまった喜びを消して食器を黙々と片付けた。
けれど胸は高鳴る。もう、そこまでカシュパルが来ているのだから。
今すぐにでも駆け出してしまいたい気持ちを抑え、毎日の行事をこなしながら礼拝の時間を只管待つ。掃除をし、洗濯をし、歴史を学ぶ。
そして遂に礼拝の時間を迎え、自室で祈る振りをして皆から離れた。
足音を立てないように一人でこっそりと廊下を歩くが、普段人が行き交う場所にも関わらず誰にも遭遇しない。
カシュパルが引き連れて来た人達の接待に、皆出払ってしまっているのだろうか。
聖堂の正面からは入れないだろう。馬の嘶きの騒がしさから、かなりの人数が来ているに違いない。
ならば司式者が入る裏手側の扉を使おうと思い、聖堂の裏に移動する。
おかしな事に、誰もその場所に居なかった。儀式をするならば補佐役が待機している筈なのに。
皆、聖堂の中に入っているのだろうか。
けれど扉に耳をつけて音を探ってみても、異様に静かである。誰も居ないかのようだった。
まさか此処まで来て、カルペラ公爵の情報が間違えだったらどうしよう。
余りの静けさに罠かもしれないとさえ思えた。けれど最早、引き返す事は出来ない。
入ってみよう。それで違う人に遭遇してしまったら、道を間違えたと言い張るしかなかった。
意を決して扉を開く。聖堂に置かれた大きな竜の石像が目の前にあった。その石像は正面からステンドグラスの光を神々しく鮮やかに浴びている。
石像のすぐ脇にある扉から中に入った私も必然的にその光の中に包まれて、少しだけ目が眩んだ。
目を細めて聖堂内を見渡す。儀式をすると言っていたのに、この場所には誰かを待つように俯いて佇む一人の男だけしか存在しなかった。
体格のある体に礼服を身に纏い、外套を肩から垂らす様は息を呑む程に美しい。
長い艶やかな黒髪の上には竜人の誇りである捻じれた角が生え、誂えた装飾品の様に見える。
端麗な顔立ち。けれどそれ以上に他者に侮らせない威圧感。立つだけでも人を自然に平伏させる威風があった。
一目見れば言わずとも目の前の男が何者であるか分かるだろう。彼の上に人はいない。
生まれ持っての覇気は熟成され、年月を経て積み重ねられ、そして遂に完成されていた。
バルターク・カシュパル王。
稀代の獣人の王の姿が、目の前にあった。
知っている人だが、知らない人の様だった。
顔立ちは確かによく知るカシュパルである。二十八年という歳月が過ぎても、竜人の血を引く彼は全く年老いていない。
けれど醸し出す雰囲気は、まるで抜き身の剣の様に冷ややかだった。
もしも温情を期待して彼に何かを上申する者がいれば、愚かとしか思わないだろう。
二十八年前にあった人らしい温かな感情が、何処にも見受けられない。
別人のようなカシュパルに声をかける事が躊躇われて、私は念願の再会にも関わらず狼狽えてしまう。
昔よりもやつれただろうか。細くなった顎が鋭い印象を見る者に与える。目の下には薄っすらと隈が見えて、彼がよく眠れていない事を示していた。
もしかしたら、私の言葉さえ聞いてくれないかもしれない。
カシュパルを見るまで抱いていた、彼への信頼が少し揺らぐ。それ程に空気が変わってしまっていた。
けれどいつまでも隣の石像の様に立ち尽くす訳にはいかない。勇気を振り絞って、声を出した。
「カシュパル……?」
声をかけられてカシュパルは緩々と顔を上げた。紫の目が私を認識し、大きく開いていく。
この地で初めて竜を見た獣人はこういう顔をしたのだろうか。
驚き、言葉を失い、目を逸らす事も出来ない。
カシュパルは無言のまま、一歩ずつを踏みしめて少しずつ私に近づいた。目を逸らせば消えてしまう幻を見るかの様に、瞬き一つせず。
久しぶりに見たカシュパルは相変わらず大きくて、目の前に立たれると見上げるしかなかった。
随分と立派な恰好をしていて、本当に王になったのだと実感する。野宿しながら移動していた魔物狩人の姿は今や全くない。
けれど私の居場所がカシュパルの心にまだある事を、彼の動揺の大きさが教えてくれる。
カシュパルは唇を少し噛み締めて、脆い砂像に触れるかのように恐る恐る震える手を私に延ばした。
冷たくなった指先が私の頬にそっと触れられる。温かさに怯える様に指が一回離れたので、私は大きなカシュパルの手に自分の手で添えて頬を擦り寄らせた。
「会いたかった。……ずっと、会いたかったよ。カシュパル」
ほんの少し離れるだけのつもりで、呆れる程長い時間を一人で過ごさせてしまった。
彼の温もりを感じた瞬間、自分がどれだけ彼に会いたかったのかを思い知った。自分の未来の全部をあげると言った筈なのに。
どれだけ恐ろしい思いをしただろう。どれだけ寂しい思いをしただろう。
見れば、カシュパルは目から涙を溢れさせていた。けれど自分が泣いている事に気がついていないかの様に、私を見続けている。
言葉にするまでもなくカシュパルの愛が伝わって来る。彼はまだ私を愛していた。強く、頑なに、微塵も薄れさせず。
「セレナ」
戦慄く唇が私の名前を呼んだ。だから笑みを浮かべて私も彼の名前を呼ぶ。
「カシュパル」
膝の裏に片腕を回されたかと思うと、そっと抱え上げられた。地面にさえ嫉妬するかのようだった。
それからもう片方の手で私のベールを外す。露わになった赤い髪を撫でて、カシュパルは泣きながら笑った。
「……おかえり、セレナ」
そう言ってカシュパルは優しく私に口づけした。柔らかな感触が唇に落ち、濡れた頬の涙が私に移る。
口づけしながら、何度も何度も労わるように頭を撫でられる。
カシュパルの腕の中で、漸く私も自分の居場所に帰る事が出来たような気がした。安堵が胸に広がり、カシュパルの頭を両手で抱えた。
もう二度と離れたくない。
ヴィルヘルムスが隣に居ても、孤児院に帰っても、決して埋められない場所が心の中にあった。
そんな私を理解するように、カシュパルも私を抱いたまま離さない。口づけは次第に深くなって、神聖な場所で不謹慎極まりなかったが、見ているのは動かない石の竜だけだ。
共にいられなかった時間を埋めるように、唯々舌を絡ませ、見つめ合い、抱きしめ合う。その触れ合いを、乾いた喉を潤そうとするかのように必要としていた。
私の唇が赤く腫れて、漸くカシュパルが顔を離す。もう彼の涙は止まっている。
いつも見ていた優しい顔がそこにはあって、全てが解決したかのような安堵が胸に広がっていく。
ああ、もう大丈夫だ。カシュパルは私の言葉を聞いてくれるに違いない。
戦争は始まる前に、ヨナーシュ国から矛を収めるだろう。
そんな明るい未来を夢に見ながら、私はカシュパルに言った。
「カシュパル、戦争を止めてくれないか。それが大変な事だとは分かっている。けれど、どちらの国も私にとって大事なんだ」
カシュパルは眉を八の字にし、心底同情する表情で私にこう言った。
「……可哀想に」
一瞬、言われた意味が分からなかった。
私の中で、カシュパルが頷く以外の答えが返ってくるとは予想もしていなかった。
驚いてしまって、何か間違えた事を言ったかと自分の発言を思い返してみる。
けれどカシュパルは私に優しく笑い、頬を慰める様に撫で続けながら静かに問いかけた。
「道中、何の苦もなく此処まで来ただろう。俺がこの神殿に密かに来る事も、この場所に一人で立っている事も、おかしいとは思わなかったか?」
確かに、違和感はあった。けれどそれがどんな意味を持つのか、深く考えていなかった。
それはつまり私がこの場所に来るように仕向けられた、誰かの企みだったのだ。
満ちていた希望が何処かに消えて、代わりに底知れない冷たい空気が私を取り巻きだす。
けれど身動きも出来なかった。冷えた指先の恋人が私を強く抱きしめたままだったから。
「戦争はヴィルヘルムスの望みだ。セレナ」
穏やかに私を送り出したあの男が、戦争を望んでいただって?
「嘘だ」
恐ろしいカシュパルの言葉に心臓が縮み上がる。眩暈がして視界が歪んだ。
この場所に来てカシュパルと会いさえすれば、全てが解決すると思い込んでいた。
急にそれらが遠ざかってしまって、受け入れられなくて首を横に振る。
愕然とする私を場違いに唯々優しく手で愛でながら、カシュパルは言葉を続けた。
「貴女を俺の元へ送る事と引き換えに、俺はヴィルヘルムスに誓言した。獣人の王として戦争を引き起こし、神族の末裔の流血を以て全てを終結させると」
ならば、私が、私こそが戦争の原因なのか。
恐怖に喉が引きつって、カシュパルを拒絶するように上半身を逸らした。けれど両腕を伸ばして体を離そうとしても、カシュパルの腕がそれを許さない。
「貴女はかつて、愛があれば世界だって救えると俺に言ったな」
カシュパルは笑っていた。けれどその笑みの内側で何かが決定的に壊れてしまっている事に、鈍い私は漸く気がつく。
彼の紫の目には私が映っていた。私だけが映っていた。
「けれど俺は、愛の為ならば世界さえ壊せると思った」
信じて生かした二人の男が、私の希望を打ち砕いていく。
ヴィルヘルムスは世界を憎み、カシュパルは私の為ならどんな犠牲をも厭わない。
どうしてこうなったのだろう。一時は確かに救えたと思った運命が覆されていく。
悪夢だった。カシュパルを生かしてから、ずっとずっと私を苛んできた悪夢が現実になっていた。私は目の前の愛に怯えて震え、掠れた声で懇願するしかない。
「カシュパル……止めてくれ。頼むから。そんな事、望んでない……」
「ヴィルヘルムスの誓いは果たされた。貴女は死より蘇り、俺の元に帰って来た。ならば今度は俺が誓いを守らねば」
カシュパルの中で、私は死んでいた。
それ程の長い時間だった。昔と変わらない姿の私を見て、蘇ったと信じ込むのも無理はない。
けれどそれは酷い誤解で、どうにかして事実を伝えれば踏み止まってくれるかもしれないと思い声を張り上げる。
「違う! 私は時を越えていたんだ! 過去を渡る神、ヘレイスの遺した時渡りの腕輪を使って! 死んでなんか居なかった。カシュパル、お前は騙されている!」
ヴィルヘルムスは何という嘘を吐いたのだろう。この哀れな私の為に何だってしてしまえる男を、その嘘一つで残虐に変えようとしている。
こんなにも他人の心を踏みにじれる男に成長した事が、悲しくて心が砕けそうだった。正に悪の化身で、私はそんな存在を過去に救ってしまった後悔に堕ちて行く。
カシュパルは私の精一杯の弁明に対し、憎々しそうに言い放った。
「だったら変えてみろ! 貴女の不在で擦り切れた日々など、偽りだったと!」
私は口籠ってしまった。質素な腕輪に最早いくら祈っても、時は私の思い通りにはならなかった。
奇跡は全て使い果たしてしまって、私は只の無力な人間でしかない。カシュパルの苦しみを消す事はもう叶わない。
何も起こせない私にカシュパルは徐々に顔を緩ませ、口調荒く責めてしまった事を謝罪するかのように優しく言った。
「……もう、真実など構わない。セレナが生き返ったのだろうが、時を渡ったのだろうが」
私の最大の秘密の告白にも、カシュパルは微動だにしない。
「セレナの消えた場所には毒矢があり、血痕が大量に残されていた。その怪我は誰が治した。ヴィルヘルムスの奇跡ではないのか。そうならば、彼の意志一つで貴女が死なないと誰が言える」
だからヴィルヘルムスの誓いを守るのだと、カシュパルは言った。人の手では打ち崩せない絶壁の様だった。
弁明に耳を貸しもせず、青ざめた私を恐怖に陥れた本人が哀れみながら慰めるべく背中を撫でる。
「カシュパル……止めてくれ」
「貴女が此処に居る事が全てだ。その他の事象は考慮にも値しない」
優しい声だった。けれど内容は絶望する程冷え切っている。
「カシュパル……カシュパル……!」
どうして、どうして、どうして。
人間の私を愛してくれたじゃないか。憎しみなんて抱いていないのに、どうして剣を向ける事が出来る。
その答えを告げる様にカシュパルは甘い声で私に囁いた。
「世界は、貴女以外に価値はない」
目の前には、たった一人の為にどれだけの血を流す事も厭わない、無情で冷酷で残虐な王がいた。
私がそう、仕立て上げたのだった。
「カシュパァァル!」
絶叫し、がむしゃらにカルペラ公爵に貰った短剣を服の下から取り出した。
腕を振り上げ、降ろせば直ぐ命を絶てる距離に毒剣が掲げられる。最早カシュパルを止めるならば、殺すしか止める方法はなかった。
カシュパルはそれをただ見ていた。抵抗もせず、薄ら笑いさえ浮かべながら。
泣きながら殺そうとする私を、愛おしそうにじっと見つめていた。
は、は、と自分の呼吸する音だけが聖堂に響く。
ステンドグラスの光に照らされて煌めく短剣は、いつまで経っても振り下ろす事が出来ない。
殺せ。腕を振り下ろせ。この男は私にしか殺せないのだから!
言い聞かせる言葉も微動だにしない腕の前には唯々空しい。絶望の涙が勝手にせり上がって、頬を伝い落ちる。
だってこれは、カシュパルだ。
幾夜も共に寝て、抱きしめて、あやし、慰め。
いつからか守られて、愛されて、全てを分かち合おうとした人で。
長い年月が過ぎても、喪失さえ経験しても、私を諦められない、不器用で可愛い……私のカシュパルだった。
殺せない。……殺せる筈がない。私が、お前を。
やがて短剣は震える手から零れ落ちて、白けた金属音と共に床に転がってしまう。
私はゆっくりと手を降ろし、虚脱しながらカシュパルに全身を預けた。選んでしまったのだ。故国よりも、目の前の男を。
そんな自分に失望して、活力が全身から急速に失われる。指先一つ動かない。呼吸すら億劫に感じてくる。
「……疲れた」
頑張る事も、信じる事も、生きる事さえ。
そんな私に頬ずりしながら、カシュパルは笑いながら言った。
「長い旅だっただろう。貴方に相応しい家を用意した。そこで寛ぐと良い」
カシュパルの外套に包み込まれて、外の景色さえ碌に見えない。閉ざされた世界の中で優しい言葉が降って来る。
愛に満ちていた。愛以外は何もなかった。
「セレナの帰る場所は、俺の隣なのだから」




