第五十七話 孤児院
大家の好意で安く借りている建物は相変わらずの古びた見た目で、近づくだけで楽しそうな子供の笑い声が聞こえてくる。
厚い殻を剥がしていくように、孤児院に近づくにつれて普段の警戒心や緊張感が解けていくのを感じた。
庭で遊んでいた子供が私に気がついて声を上げると、周囲の子供達が全員集まって来て思い思いに話し出すのはいつもの事だった。
「セレねーちゃん! 元気にしてた?」
「またお話聞かせて!」
「俺、すっごい遊び考えたんだ。一緒にしようよ」
彼等の活発な様子を見るに、どうやら大きな問題は発生していないようだ。安心して周りにいる子供達の頭を順番に撫でてやる。
「ああ。元気だったよクレア。後で倒した魔物の話でもしてあげよう、リズ。グヴェン、その前にエイダ先生に挨拶に行こうと思うんだが、何処にいるか知らないか?」
彼等は私の手を引いて、自分こそが案内するのだと張り切って連れて行ってくれる。
笑い声に包まれながら移動した孤児院の一室で、壁紙を張りなおそうと足台に乗りながら小柄な体で一生懸命に背伸びをするエイダ先生の姿があった。
「ただいま、エイダ先生」
エイダ先生は私の声に後ろを振り返り、顔を見た瞬間母親の笑みで嬉しそうに笑って歓迎してくれた。
「おかえりなさい。セレナ。今回は早めに来てくれたのね」
「はい、皆の顔が見たくなって。壁紙、私がします」
「ありがとう」
足台を降りたエイダ先生の代わりに、私が上に乗って壁に糊を塗る。それから中途半端に垂れていた壁紙をピンと張って隅まできっちりと張りなおした。
「助かったわ」
どうやら出来栄えに満足してくれたようで、エイダ先生は手を叩いて喜んだ。
それから何故か子供達にそれぞれ仕事を命じて、ごく自然に私から離れさせる。皆が部屋から出て行った所で、椅子に座るように促された。
「ゆっくりしていきなさい。紅茶を淹れてあげる」
長い間会わなかったにも関わらず老いた様子もなく以前と変わらないエイダ先生の姿が、当然の事でありながら不思議に感じてしまう。
その小さな背中が温かくて嬉しくて、紅茶を淹れる様子をずっと見ていると私の前にカップを置いてエイダ先生も向かいの椅子に腰を下ろした。
「さあ、何か言いたい事があるんでしょう? 顔を見れば分かるもの」
まるで全てを見透かす様に、エイダ先生は笑いながら言った。私はあまりに心を的確に言い当てられて少し驚いたが、同時に嬉しくなる。
兄弟達よりも孤児院にいた期間は短いのに、エイダ先生は他の子供に劣らない程私の事も気にかけてくれていた。
やはりエイダ先生には敵わない。沢山の子供が来ては出て行くのに、どうして一人一人にそこまで向き合えるのだろう。彼女の偉大さは孤児院を経験した誰しもが知る事だった。
エイダ先生は静かに私が口を開くのを待っていた。けれど私はこれから聞こうと思っていた質問の重さに気分が暗くなる。
けれどそれを確認する為に来たようなもので、暫くカップの持ち手を弄っていたが意を決し聞いた。
「ルドルフとテオは元気にしていますか」
過去では獣人に殺された私の兄弟。まだ戦争は起きていないものの、既に各地で緊張感は高まっていて獣人との小規模な争いに兵士が巻き込まれる事もあると聞く。
改変された過去はヴィルヘルムスの凶行を止めた。けれど結局王族達は皆居なくなってしまった。
人生に絶望し、短命に終わる筈だったエリーは前よりも長生きしたものの、私に会う事なく亡くなった。
運命は改変されているようでいて、元と同じ道筋を辿っているようにも見える。
二人はどちらだろうか。私が怒り、憎しみを獣人に対して抱いたのは彼等が亡くなったからで。同じように命を落としているならば、カシュパルに会う時に平然としていられなくなるかもしれなかった。
エイダ先生は私の深刻な悩みを吹き飛ばすかの様にあっけらかんと教えてくれた。
「元気よ? この前も手紙をくれたばっかり」
強張っていた体から力が抜けていく。ほっとして泣きそうだった。
確かに変えられた運命があるのだと、知れたような気がした。私はまた彼等に会える事が嬉しくて胸が熱くなる。
今度は昔よりももっと頻繁に彼等に連絡を取ろう。大事な人が消えてしまうのは一瞬だから。
かつて生活した場所にいるからか、心が時を遡っていく。
『親無し!』
近所の子供の声が蘇った。好奇心から周囲に黙って外に出て行った私に向けられたのは、悪意と敵意の視線だ。
『あんた達なんか、要らない人間なんだから!』
今も鮮明に思い出す程に、私は深く傷ついて泣きながら帰った。自分の居場所は何処にもないと思えた。
けれど泣いて帰った私を咎める事もなく抱きしめてくれたエイダ先生の、慰めの温かさもまた、記憶に刻まれていた。
『要らない人間なんて、一人もいないわ』
それは心に染みて、まるで魔法の様に安心の拠り所になってくれた。
私は彼女の様に成りたかった。カシュパルが幼い時頻繁に抱きしめたのは、同じように喜びと温もりを知って欲しかったからだ。
あの人は、今どういう思いで王座に座っているのだろう。
カシュパルの友人や仲間達が、少しでも傍に居られなかった私の代わりにそれらを与えてくれている事を願う。
会いたくて、慰めてやりたくて堪らない。私の不在で酷く傷ついたのなら、いっそ私の事を忘れてくれても構わなかった。
エイダ先生の穏やかな視線に誘われて、言うつもりのなかった言葉が口から飛び出した。
「……獣人を愛しました。」
アリストラ国では元々獣人差別が存在した上、今は両国の関係が悪化している。そんな中で獣人を恋人にするという事は、人に後ろ指を指されても仕方がなかった。
「でも私はこの国も愛していて。もしも、もしもですが。どちらか一方しか選べないとしたらどうすれば良いのか分からないんです」
絶対に説得するつもりではある。けれどエイダ先生の優しさは心の奥深くにあった不安を露わにさせた。
首を振り、俯く。カシュパルが私の知るカシュパルではなくなっていたら。私を見て冷たい視線しか向けないようになっていたら。
そんな暗い想像が噴出して、私の自信と信頼を崩そうとする。
エイダ先生は獣人を愛した事を非難しなかった。そして私の頭に優しく手を置き母親の笑みでこう言った。
「……沢山の子供達がこの家に来たけれど、貴女はいっとう優しい子供だった。誰かの為に自分が傷ついても平気な顔をして、一人早くこの家にから出なければならなくなった時も、寂しかっただろうにぐずる事もなく素直に受け入れて。……心配していたわ」
彼女の手が慰める様に撫でてくれて、幼い時と変わらない愛がそこにある事を私に教える。
「だから、そんな貴女が決めた事なら決して間違いではないのよ」
私が優しいというなら、その優しさを守ってくれたのはエイダ先生だった。挫かれる事なく人を信じる強さを、この世で最も尊いものを教えてくれた。
私は本当に、この人みたいになりたい。
立ち上がれない程の悲しみを抱えた者の傍に寄り、膝をつき視線を合わせ抱きしめて慰める。
私にも同じ事が出来るだろうか。これから先何があっても、何を見ても、何を決断しても。その根底の優しさが私にも宿るだろうか。
懐かしさと切なさが込み上げて一筋の涙が零れ落ちる。エイダ先生は私の頭を抱き寄せて昔と同じように祝福の言葉を私にくれた。
「我らを庇護する祖の神族よ。どうかその愛がこの子の上にも降り注ぎますように」
「先生、」
彼女はまるで、私が必要としている言葉を予め知っているみたいだ。不安が少しずつ薄れていく。
「……ありがとうございます」
やはり此処に来て良かった。心が随分軽くなって、私はエイダ先生に笑みを浮かべる。
そしてどうかこの人にこそ祝福があるようにと願いながら、私を抱えていた小さな手を一瞬握って放した。
いつまでも此処に留まる事は出来ない。去る前に子供達との約束を果たす事にする。
「あの子達と遊んできます。次の任務は遠くに行く事になって、いつ来られるか分からないので」
「ええ、分かったわ。体には気をつけてね」
部屋から出ると、待ち構えていた子供達と遭遇した。
私は彼等に振り回されながら、楽しくて子供の様に笑う。気にかけるつもりで来ても、本当は元気を貰えるのは私の方だった。
大きな魔物を仲間と協力して倒した話や、雪深い村での暮らしがどのようなものなのかを話せば目を輝かせて聞き入ってくれる。
もしも私が神殿騎士になる以外の道が示されていたならば、エイダ先生の様に子供達に寄り添いたかった。
私はあり得ない自分の夢を切なく笑い飛ばし、今だけは全てを忘れて子供達と遊び尽くしたのだった。




