第五十五話 時間
時が止まる。私は目を見開き硬直してしまって、ヴィルヘルムスの顔をただ見返した。
それから酷い冗談を聞いたとどうにか笑おうとして、いつまで経っても変わる様子のない悲し気なヴィルヘルムスの表情に愕然とする。
「嘘だ」
信じられる訳がなかった。カシュパルは人間である私を愛していた。そして私は彼を完全に掌握していた。
私の為ならばどんな魔物でも狩ってくれる男で、どれ程自らが傷つけられようとも人間に手を出さなかった。
首を横に振る。いくら考えてもあり得ない。
「誤解があるんだ。きっと……だって、カシュパルだぞ。私の恋人で」
声が震えた。私の全てを尽くして、この国の運命とカシュパル自身の運命を変えた筈だった。
貴重な時渡りの腕輪の最後の力を使って、それでも彼を生かして全てを幸福な方向へと導いた。
だから、何処かに間違いがあるに違いない。
「ええ。貴女の恋人のカシュパルです。今や名だたる魔物狩人集団紅盾の創設者、アリストラ国でも魔物狩人として名を馳せた人間と竜人の混血児」
それは間違いなく、私のカシュパルの経歴だった。
現実を悪夢が飲み込んだ。私は全身から冷や汗を噴出して、首を横に振りながら後ずさる。
足元から力が抜けてしまって、よろけた私の腕をヴィルヘルムスが慌てて支えた。けれども立っていられずにその場にへたり込む。
七体の彫刻達に冷たく見下ろされたような気がした。
私は、失敗した……?
殺せば良かったのだと、情に流されてとんでもない事をしでかしたのだと。運命が私を嘲笑うかの様に元通りに動いている。
カシュパル。一体この二十八年間、何があった。何がお前を変えてしまった。
震える私の体を、ヴィルヘルムスが両腕で抱きしめて慰めてくる。けれどそれで震えは収まらず、私は両手で顔を覆って俯いた。
権力なんて欲しがらなかったじゃないか。金も名誉も興味なかったじゃないか。私の大事な物は、同じように大事に扱ってくれたじゃないか。
それがどうして、私の故国に剣を向ける男になった。まるで別人の話を聞いているようである。
王になってアリストラ国を攻める。それこそがカシュパルに与えられた絶対の運命だとでも言うのか。
けれど胸を覆いつくそうとする絶望をどうにか押し留めた。体に力を込め、震えを強引に止める。
まだ、私はカシュパルと話をしていなかったから。こんな人づてに聞いただけで、納得出来る筈がなかった。
ヴィルヘルムスの服を強く握り、縋りつく。
「カシュパルと話せば、きっと分かってくれる。私が嫌だと言えば戦争なんて起こさない男だ。だからヴィルヘルムス、頼む。カシュパルと話す機会を作ってくれないか」
そうだ。諦めきれない。私が生きている事をカシュパルが知れば、全てを私の望む通りにしてくれるだろう。
きっと喜んで、抱きしめてくれて。怪我があった事を告げれば存分に甘やかしてくれる筈だ。
それからヴィルヘルムスが命の恩人である事を教えて、アリストラ国を攻めないでくれと頼めばいい。
自分の考えに少しずつ希望が胸に宿る。例えカシュパルが王になる事情があったとしても、私への愛が変わったとは思わない。
それ程、間近で見続けたカシュパルの私への愛は深かった。
「やはり、貴女はその選択をするのですね」
ヴィルヘルムスは一瞬憂いた表情で聞き取れない程小さく何かを呟いた。しかし直ぐに気遣う優しい眼差しに隠し、背中を擦りながら頷いてくれた。
「セレナさんが望むなら。どうにか彼に会う方法を考えましょう」
まだ、変えられる。
私は現時点でこの国に獣人達が攻め入って来ていない事に希望を託す。
本来であれば、既に王都は戦火に包まれている筈だった。ならば、全く同じ道を進んでいる訳ではないのだろう。
私はヴィルヘルムスの言葉に少し自分を取り戻して、足に力を入れて立ち上がった。
こんな所で蹲っている時間も惜しく思え、必死に戦争を回避する方法を探そうとする。
「何故カシュパルはこの国に攻め入ろうと?」
「氷狼の雪山がサラマンダーにより消えてから、獣人と人間の往来が頻繁になりました。その分、良からぬ輩も入り込みやすく……少し前に獣人の子供を闇で売っていた大規模な組織が捕まったのです。内容が酷かったものですから、それで一気に両国の空気が悪くなりました。元々の貿易的不均衡によりヨナーシュ国で溜まっていた不満が、今回の件で噴出した形です」
「謝罪は?」
「勿論しました。けれど国民感情は収まらなかったのでしょう。誠意を見せろとヨナーシュ国が関税の引き下げを要求してきたのです。けれどアリストラ国として貴族達は利益を手放せませんでした。一度下げてしまえば、何処までも要求は酷くなっていくだろうと懸念したのです。そうして折り合いがつかなくなりました」
その内に感情論になってしまえば、落としどころなど見つけられなくなってしまう。
こじれた両国の問題は、私のような剣一つで生きて来た人間が簡単に解決策を見つけられる話ではなかった。
けれどカシュパルが本気で考えてくれるならば、きっと方法を見つけてくれるに違いない。
他力本願としか聞こえないが、カシュパルを知る者ならば誰しも納得するだろう。人の心をあれ程簡単に動かせる男はいない。
「私が生きていると知らせる事は出来ないだろうか。そうすれば迎えに来てくれるかもしれない」
「……セレナさんは彼に、時渡りの事を伝えていましたか?」
伝えていない。力なく首を横に振った。ならば、嘘だと思われてしまう可能性が高かった。
カシュパルに会う。それは最早、戦争前で緊迫した両国の国境を抜け、王への厳重な警備の目を掻い潜らなければ実現出来ない事のようだ。
失敗は死を意味するだろう。けれどずっと命懸けで戦ってきた私にとって、今更な覚悟だった。体調を万全にして、鈍った戦いの勘を取り戻さなければ。
「剣を私にくれないか」
「用意しましょう。それから、あちらへの潜入に関してはカルペラ公爵に準備するように命じておきます」
思わぬ名前に驚いて眉を上げた。それは嘗てエリーの命を狙った人物だった。
「カルペラ公爵?」
「言いたい事は分かります。けれどあの時の公爵から息子に代も変わりましたし、今は私の忠実な家臣の一人です」
どうやら時の流れは思いもよらぬ方向に人を導くようだ。いくら代替わりをしたとはいえ、自分を殺そうとした家の者だろうに。
けれど本人が許している事を蒸し返すつもりはなかった。
「始まるまでは、少しでも体を休めて下さい」
「……分かった」
ヴィルヘルムスが情報を伏せて私に休息しろと言っていた訳を完全に理解した。こんな状況だと知っていたら、休息どころではない。
焦って体を戻そうと無理をするか、抜け出そうとしていたかもしれなかった。
ヴィルヘルムスと共に神族達が飾られていた建物を出る。戦争の気配など全く感じさせない穏やかな庭があった。
芝生の上に置かれた石の道を辿りながら、思いついた事を聞いてみる。
「エリーはどう暮らしていた?」
「母は軟禁されていましたが、全てを受け入れていました。私が口を出せば別の場所に移動する事も出来たでしょうが……望んではいませんでした」
エリーが長生きした分、ヴィルヘルムスも何度も会いに行けたようだった。過去通りであれば、早世して殆ど会えなかっただろう。
しかし望んで同じ場所に留まるとはエリーらしい。自ら赤子を抱いて帰ると言った彼女の姿を思い出す。尊敬する程、強い人だった。
「母と話す時は、いつも貴女の事が会話に上りました。だからセレナさんと出会った時、初めて会った気はしなかったのです」
「私はあの時の赤子がこんなに大きくなって、まだ信じられない」
「それが時渡りの奇跡でしょう。短い時ではありませんでした」
ヴィルヘルムスの顔に憂いが浮かぶ。
私はその言葉に頷いて同意した。元の時間に戻った筈なのに、親しくなった人達が遠くて取り残された気分である。
けれども彼の顔には確かにエリーの面影があって、あの赤子である事は間違いなかった。
「……大きくなったな」
私は背の高い彼の頭に手を伸ばす。そして、子供にするように金髪を優しく撫でた。
どうか健やかにと、願ってエリーと別れた。その未来を実際に目の当たりにして、健全に成長したように見える事が嬉しい。
きっとただ一人の王族として大変な思いをしているだろう。けれど求めるならば、私だけは身内の様に彼に接しようと思う。
ヴィルヘルムスは一瞬泣きそうに目を潤ませたが堪えると、心底嬉しそうな笑みを私に向けた。
それは確かに、家族に向ける様な親愛の感情に他ならなかった。




