第五十三話 療養
カズラの町の宿屋から王都に移動するという話はどうやら本当らしく、私は馬車に乗せられては別の宿で休息するという事を繰り返した。
私の調子が酷く悪い時には、それに合わせ休息を伸ばしたりなどして調整してくれる。
色々と優先してくれる事が申し訳なくて幾度となく謝ったが、その度に羊は丁寧に謝罪は必要ないと私に言った。
そうして辿り着いた彼の屋敷は、どうにも相当な広さの様である。
移動の時の連れ歩く人数の多さ。出される食事。宿屋の高級感。住居の途方もない広さ。目が見えなくても分かる物は分かる。
羊という男は間違いなく大金持ちだった。
私を助けたのは富豪の気まぐれなのだろうか。しかも不思議な事に、従う者は多いのに羊は私の世話を自ら買って出ているらしい。
今日もいつもと同じく、彼はまるで自らの親にするような甲斐甲斐しさで私を看護していた。
「……羊、私は一体どうやって恩を返せばいいだろうか」
何か裏の意図でもあると言ってくれた方が納得出来るような親切だ。
けれど私はしがない一介の神殿騎士で、所属する神殿もない現在は魔物狩人の立場しかない。裏の意図などないだろう。
羊は私が食べた後の食器を片付けながら、いつもの様に受け流す。今も一口ずつ口に食事を運ぶ面倒な介助をしたばかりである。
「恩に思う必要はありませんよ」
「しかし」
「貴女はこうされるに、十分相応しい人です。何かしたいと思うならば、体調を戻してからにして下さい」
まるで私の事を知っているかのような言い方である。しかしいくら首を捻っても、彼の声に聞き覚えはなかった。
この目の布が外れれば、羊の正体が分かるのだろうか。
現状私が出来る事は何もなく、今日も偽物のような穏やかな日々が過ぎて行く。
カシュパルは、今何をしているだろう。思いつめて最悪の選択をしていなければいいが。
胸を占めるのは離れた恋人の事ばかりで、連絡も許してくれない羊をこればかりは恨んだ。
羊は一体何の仕事をしている男なのか、四六時中私の傍にいる。それで文句を誰かに言われている様子もないのが不思議だ。
ふと、彼が私に良くしてくれている原因としてとある理由が思いつく。本を読みながら隣に居るらしき羊に、思わず聞いてしまった。
「もしかして、私の事が好きなのか?」
一瞬の沈黙。その後に聞こえたのは折り目正しい彼らしからぬ、堪えきれない笑い声だった。
「……く、ふふ」
カシュパルという恋人がいるのだから、もしそうならば早い内に断らなければと思ったのだが、どうやら盛大に間違えたようだった。恥ずかしさで顔が熱くなってくる。
「失礼しました。ええ、人として好きですよ」
それ以上の意味はないという事だ。
「謎解きも良いですが、今はこの休息をただ受け入れて下さい。そんな風に怪我を負って、毒まで受けて。これまでも大変な日々だったのでしょう? 貴女の忙しない人生、少しぐらいこうした時間があっても良い筈です」
羊と話していると、神官に諭されているような気になってしまう。導く者の優しさを彼は持っていた。
幼少期から神殿仕えをしていた私は子供の頃が思い出され、反論出来なくなってしまった。
「……散歩でもしますか?」
羊の提案に勢いよく首を縦に振る。寝てばかりでは、体は衰えるだけだ。
この屋敷に来てから体調はみるみる内に回復しており、剣を受けた傷口は痛むものの出来る事は増えていた。
意識が戻った時の体調から、もっと長い間ベッドから出られないと考えていたのに。羊の看護が的確なのだろう。
「では手を」
羊が目の見えない私を導く為に手を取った。少し体が軽くなった気がするのは、散歩に気分が浮上しているからか。
彼に連れられて廊下を歩けば誰かとすれ違う気配がしたが、立ち止まり頭をこちらに下げるような音がしただけだった。まるで私と彼以外存在しないかのような静けさが続く。
使用人達は必要以上に羊に話しかけようとはしなかった。友人の様に接する主人もいれば、距離を置く事を望む主人もいるから羊は後者なのだろう。
口数少ないお陰で、彼等から羊の正体について情報を得る事は出来なかった。
土を踏む感触。木々がそよぐ音が聞こえて、庭に出た事を知る。それから暫く心地よい風を楽しみながら歩くと、疲れただろうとベンチに座らせられた。
聞こえるのは鳥の声ばかりで、本当にこの場所が王都の中なのか疑問に思うぐらいに人の気配がない。
「此処には羊の他には住んでいないのか? 使用人は多そうだが、貴方の家族がいるような雰囲気でもないし」
「そうです。今は私一人になってしまって。だから少し、寂しいですね」
彼が私を助けた理由には、その寂しさも関係しているのかもしれない。
「……もう暫くすれば、その目の布も外せるでしょう。セレナさんの疑問にはそれからお答えします」
その言葉がこの穏やかな時間が終わる宣言の様に聞こえた。望んでいた筈なのに、少し怖気づいてしまう。
羊は謎の多い男だったが、私への看護は常に丁寧で気遣いに満ちていた。嫌うのが難しい程である。
目が見えるようになった時、何かが変わってしまうのかもしれない。そうなる前に、確かめておきたい事があった。
「羊。貴方と私は友人だろうか?」
「セレナさんがそう望んで下さるならば」
「そうか。なら、友人だ」
悩まずそう答えれば、羊が小さく笑った声がした。
「貴女は本当に……」
ああ、まただ。どことなく以前から私を知っている気配。
もう追求はせず、新たに出来た友人との和やかな時間を享受する事にした。
左腕を擦ると、時渡りの腕輪がまだ私の腕についていた。三回時間を渡ってしまったから、もう使えなくなっているかもしれない。
けれどずっと旅してきた仲間のような気がして、これだけでも傍にあって良かったと思う。
意識が戻った時には既にカシュパルから贈られた剣も、チャームもなくなっていた。
まだあの森の中にあるのかもしれないが、態々羊に取りに行かせる訳にもいかず諦めてしまった。
持ち歩いていた数少ない愛着ある物が失われて寂しいが、仕方のない事だろう。
「そろそろ行きますか」
「ああ」
また羊の手が私を誘導する。彼の手は不思議だった。触れられる度に心地よい気分にさせてくれる。
「何か私にして欲しい事があれば言ってくれ。恩返しではなく、友人として力になるから」
「……私も。出来る事があるならば友人の為に、力を尽くしますよ」
その言葉が嬉しくて、思わず口を緩める。そんな話をしている内に部屋に着いたらしい。
ベッドの上で再び横になれば、羊の手がそっと私の額の上に乗せられた。
「どうぞお休みになって下さい。体も動かしましたから、よく眠れるでしょう」
うつらうつらしつつ、ふと思い出した事をそのまま口に出してみた。神官の様な羊には、つい何でも言ってしまいたくなる。
「……そう言えば、以前不思議な夢を見た」
「夢?」
「ああ。神族が結界を張った夢だ。私が経験した事でもないのに、やけに鮮明で」
「とても古い時代ですね。今やもう何処からも失われたと思っていましたが……」
まるでただの夢ではないとでもいうような話し方だった。過去を夢として見る事があるのだろうか。
しかし羊は私にそれ以上考えさせないように、静かに言った。
「けれど私達にとってあまり意味はありません。夢は夢ですから」
そうかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。
真偽を確かめる術はなく、例え真実だったとしてもそれ程昔の話が一体現在に何の価値がある。
忘れても構わない事だった。




