第五十二話 建国神話
私は奇妙な夢を見ていた。教典の表紙に描かれている建国神話の一部である。
目の前に広がる手つかずの原野は魔物や動物達の物であり、開墾しようとするならばどれだけの労力が必要か分からなかった。
そんな場所に六人の男女が立っている。人の形をしているが、纏う気配は明らかにただの人間ではなかった。
炎と鍛冶の神インカーディル。水と漁の神グレイブス。天候の神アガロ。豊穣の神ディスクス。癒し手のフェフェリロウナ。未来を見るオークバン。
最初の神族は本来七人である。一人足りないのは、過去を渡るヘレイスだろう。
アガロの様に雪の様な白い肌、ディスクスの植物の爪、或いはインカーディルの炎のように揺らめく髪。分かり易く人ならざる者の特徴を持つ者もいれば、オークバンの様に隣に立っていても見た目だけでは区別のつかない者もいた。
彼等は人の目には何も映らない空を見上げ、明るく笑っている。
「遂に成功した! 見て。瘴気が薄れていく」
インカーディルに答える緑色の爪をした男性はディスクスに違いない。
「これで漸く、愛し子等も魔物に怯える事なく過ごせるだろう」
どうやら魔物避けの結界を張った時の状況らしい。彼等が魔物避けの結界を張ってくれた事で、人間達は今ほどに繁栄したのだ。
それまでは魔物に追われながら獣のように生活し、とても文明など築く事が出来なかったという。
しかし何故、こんな夢を見ているのかが分からない。
彼等を敬ってはいるが、明瞭な夢を見てしまう程強く崇拝している訳ではなかった。
直ぐに目が覚める気配もないので仕方なく、ただ珍しい物を見る様な心持ちで目の前の彼等のやり取りを見守る。
人間と変わらない感情表現をする神族達は、無邪気に手を叩いて喜び合っていた。
けれどその中でたった一人、憂鬱な顔をする男がいた。
「……始まりは全て、終わりに繋がるというのに。我らの血で繋ぐこの結界も、いずれ消えてしまう」
金髪に空色の目をした男は空気を読まずに水を差す。未来を見るオークバンだった。いつものやり取りなのか皆が呆れた顔をする。
夢の中で『私』が口を開いた。
「オークバン、相変わらずだな。皆、それを承知でこの有限の次元に来ただろう。終焉があるのは当然だ。こんな時ぐらいは目を瞑れ」
「……変わり者のヘレイス。貴女は些か楽天的すぎる」
オークバンが私の顔を見て肩を落としながら、ヘレイスに苦言を呈する。
漸く、私が一体誰の視点だったのかを知った。過去を渡る神ヘレイスが、今の私の姿なのだ。
私が時渡りの腕輪を使えるのは、彼女の祝福に違いなかった。視界の端に映るヘレイスの腕には、確かに私がしている腕輪と同じものがつけられている。
まるで、自分の血縁者に初めて会えたかの様な奇妙な親近感があった。
夢が終わろうとしているのか、彼等の姿が急速に薄れていく。続く会話の声が遠ざかった。
「……ぁ……が……ろう」
何を言っているのかくぐもって聞こえて全く分からない。けれどオークバンが、心底羨ましいとヘレイスを思っている事だけはその目で伝わってくる。
私は何としてでも続きを聞かなければならない気がして、耳を澄ませたが無意味だった。
夢が終わる。オークバンの物憂げな表情だけが、最後に目に焼き付いた。
◆
意識が浮上した時、まず感じたのは人生で初めて経験する程の酷い体の怠さだった。目を開こうとしたのだが、布が目に巻かれているようで何も見えない。
背中には柔らかな感触があり、どうやらベッドの上に寝かされているらしい事を知る。
森の中ではないという事は、誰かが私を助けてくれたらしい。カシュパルだろうか。
どうにか体を動かそうとして、肩と背中の酷い痛みに呻き声を上げた。
「ぅ……」
傍から聞こえる服の衣擦れの音。私が目覚めた事に気がついた誰かが、透き通った声で私に言った。
「無理に動かないで下さい。貴女は酷い出血と猛毒に侵されていました。死の淵をさ迷いながら一週間、高熱で意識もなかったのですから」
カシュパルとは違う成人した男の声だった。聞き覚えは全くない。
「……貴方は?」
「瀕死の貴女を森で見つけたので、宿屋に連れ帰った者です。そうですね……私の事は『羊』とお呼び下さい」
どうやら私の命の恩人のようだ。しかし羊という呼称は名前にするには不自然で、思わず聞き返してしまった。
「羊?」
動物の羊で間違っていないか。私の怪訝そうな声に微かに笑いながら彼は答える。
「ええ。可愛らしいでしょう?」
本名を教えてもらえないのは何か事情があるのかもしれない。
本音ではとても気になり根掘り葉掘り聞いてしまいたいのだが、私も散々カシュパルに秘密にして手前、詮索は気が引けた。
人には容易く言えない事情があるものだ。仕方なく疑問は口に出さない事にした。
「助けて下さり、感謝致します。私はセレナ。この場所は何処でしょうか?」
「そう畏まる必要はありません。どうぞ気楽に話して下さい」
「けれど羊さんも、敬語ではないですか」
「私はこれが普段の話し方ですから」
本人がそう言うならばと、甘えさせてもらう事にした。
「……分かった。それで、私は今何処にいるのだろうか」
「カズラの町の宿屋です」
それは森から少し離れた大きい町の名前だった。知っている場所に少し安心する。
「手を煩わせて申し訳ないが、連絡を取ってもらえないだろうか。多分、森の近くの何処かに、人間と竜人の混血児であるカシュパルという男がいる筈だ。私の恋人なんだ」
何処に行っても目立つ男だから、名前と特徴を言えば直ぐに分かるだろう。
突然私が居なくなって、どれだけ動揺しているだろう。早くカシュパルを安心させてやらなければ。
けれど羊は柔らかで丁寧な口調で、私の要望を断った。
「セレナさん。今、貴女は漸く意識を回復しただけです。まだ毒は全身に回っていて、油断すれば何時でも命の危険があるでしょう。だから私は、貴女を連れて王都へ戻るつもりです。その男を探すのは、体が治った後にして下さい」
私のような病人を王都へ連れて行くのは、非常に面倒で大変な事だった。
背中に感じる柔らかなベッドから、寝かされている場所は安宿ではなさそうである。彼の発言と状況から羊が貴族か大商人かもしれないと想像した。
しかしカシュパルは今も探しているだろう。無茶な事をするかもしれない。簡単に諦める事が出来ず、再度口に出す。
「連絡をしてくれるだけでいい」
羊はまるで子供の駄々を拒否するかのように、私の提案を冷徹に却下した。
「そのような男は何処にもおりませんでした。今はただ、大人しく私に従っていただきます」
自分の命の拾い主にそう強く主張されては、これ以上無理は言えなかった。弱り切った私の体は、見放されれば簡単に死んでしまいそうだ。
けれどどうしてそこまで拒絶するのだろう。連絡一つ、簡単な事ではないか。疑問に思っているのを分かっているだろうに、羊は説明もしてくれない。
代わりに私の目に巻かれた布の意味を教えてくれた。
「視神経が酷く弱っていて、強い光を見れば失明する危険があります。私が良いと言うまでは、決して外さないで下さい」
「貴方は医者なのか?」
「似たような者です」
全てに曖昧に答えられて、羊が一体何者なのか見当もつかない。不安が胸に湧きおこる。
このまま自分の身を任せても本当に大丈夫なのだろうか。
眉間に皺を寄せて考え込んでいると、彼の手が私を労わるように撫でた。不思議とそこから怠さが抜けていくような気がする。
疑うには十分な言動だったが、その手つきには気遣いしか感じない。
羊の正体を疑問に思っても抜け出せるような体ではない事だけは確かで、身を任せるしか選択肢がなかった。
「セレナさん。今はただ、何も考えずに体調を回復させる事に集中して下さい。私は穏やかな気持ちで休んでいただきたいだけなのです」
涼やかな声が私を案じてくれる。声だけで人となりを判別する能力はないが、本心で心配してくれている様に感じられた。
仕方なく諦めて頭から疑問を追い出してしまえば、休息を必要としていた体はあっという間に眠りへと私を誘う。
微睡みながら、今も苦しんでいるに違いないカシュパルを思った。あの黒髪を撫でて、大丈夫だったと抱きしめて、早く無事だと知らせてやりたい。
きっと狂わんばかりに私を探している事だろう。分かっている。彼の執着と愛の深さを知ってしまったが為に、切ない思いが胸を締め付けて涙が浮かぶ。
頭に浮かぶ事はそればかりだったが、それでも波の様な睡魔が私の意識を連れ去った。
カシュパル、直ぐ……戻るから……。
やがてベッドから穏やかな寝息が聞こえてくる。
それから長い間、隣で羊と名乗る男が温かな眼差しでずっと見守っていた事など、知る由もなかった。




