第四十九話 夜の訪問者
サーレラ伯爵はニクライネン侯爵家の来客室で一人、頭を悩ませていた。行方不明になって倒れそうな程に心配していた娘は久しぶりに会えば前よりもふっくらとして、攫われる前の絶望を忘れる程に明るい表情で再会した。
それは非常に喜ばしい事で涙を流して久しぶりの娘を労わったのだが。それとは別に、機嫌を窺わなければならないのがニクライネン侯爵家だった。
攫われる前でさえ随分と頭を下げ、大量の贈り物と共に機嫌を窺って漸く保護を取り付けたのに。
サーレラ伯爵家の騎士達がカルペラ公爵家の刺客に襲われ、しかも更に正体不明の第三者にエステルを攫われてしまうなど面目を完全に潰されたのである。
「はぁー……」
暗い気分を溜息と共に吐き出したが、重石を背負うような心境はまるで変わらなかった。
扉を叩く音がして顔を上げれば、この家の使用人が畏まった仕草で入室する。
「お待たせ致しました。お嬢様の元へご案内致します」
席を立ち、感情を消して先導する使用人の後を静かに付いて行く。案内された先は広大な屋敷の端にある、主だった経路とは遠く離れた部屋だった。
声をかけて扉を開けば内装は心を尽くしてくれたようで、貴族の娘に相応しい調度品が置かれていた。
エステルは久しぶりの父親の姿に、明るい表情で歓迎した。
「お父様、来て下さってありがとうございます」
もう自由に外出する事も出来ない娘が不憫でならない。暗い内心を隠し、気丈に振舞う娘を抱きしめる。
「ああ。エステル。何か足りない物はないか?」
「何もありません。本当に良くしてもらっています」
そんな筈はない。若い娘が部屋に閉じ込められて、色々思う所もあるだろうに。
それから幾度目かの溜息を吐いて、攫われている間の事を探る質問をした。
「エステル、今日も何があったのか教えてくれないのかい?」
「……はい」
何故だか娘は頑なに何が起きたのか話そうとしない。それは恐らく、その人物に恩義を感じているからなのだろう。
赤子と共にいる事の出来た貴重な期間。それがどれだけ娘の人生において支えとなってくれる事か。
サーレラ伯爵は直接娘に聞くのは諦めて、それからはただ娘との時間を和やかに過ごす事に決めた。
エステルから知らせを受けた直後に放った追跡者は、今も淡々と仕事に専念している事だろう。
金銭を厭わず知りえる中で、一番の手練れを雇った。そう長くない間に成果を報告してくれる筈である。
エステルが犯人を慕っているのを知ってからも、彼等を止める命令を出すつもりは一切なかった。
娘がどう思っていようが、その人物を追跡しなければならない。
我がサーレラ伯爵家の面目を取り戻す為に。そしてニクライネン侯爵家への詫びとして。
誰かの首が、必要だった。
◆
油断をした訳ではなかった。目立つカシュパルと離れた後、念の為に改めて別の宿を取り直した。
その際には偽名を名乗り、髪の隠れるフードを被って、部屋から殆ど出ないように過ごしたのだ。
私のした事が誰かに追われる十分な理由になる事は、重々承知していたからだ。それでも何事もなく平穏に国境付近まで辿り着けたので、緊張感が薄れていたのは事実である。
そうなる時を待っていたのだろう。息を殺し、長い間私を追跡してきた者の殺意が遂に牙を剥いた。
暗い夜、皆が寝静まって虫の音ばかりが騒がしく聞こえる中、私は小さな金属音で跳び起きる。
どれだけ熟睡していても瞬間的に意識が戻るのは魔物狩人としての性で、不審な音を聞き分けるのは特殊な訓練を受けた騎士として身に付いた技だった。
鍵を開けられている……!
すぐさま剣を取り、足に礫のホルダーを取り付けた。室内にいては爆発物でも投げ込まれれば一発で死んでしまう。
窓から外に出るしか選択肢はなく、その先に敵が多数待ち構えていない事を祈るしかなかった。
窓枠に手をかけて外に出れば、遠くから矢が放たれて頬を掠めた。流れる血を拭う暇さえなく只管に足を動かす。
視界の広い街中よりは、鬱蒼とした森へ逃げた方が生き延びられる可能性が高いように思えた。
私を追って来る足音が聞こえる。四……五……いや、弓の者を入れて六人か。囲まれれば終わりだろう。
明かりのある町並みを抜け、木々が生い茂る森の中へと走る。その間にも矢が私を狙って背後から飛んできて、顔の近くの木の幹に突き刺さった。
飛び越えられない幅の川があったので、足を水に浸しながらも渡り切る。その後ろで追手も川に踏み入ったので、雷撃の文様魔術を刻んだ礫を飛ばして感電させた。
「ぐぁっ‼」
二人が気絶したようだが、残りが倒れた味方に目を向けず私を追って来る。
背後から飛んで来た礫を剣に刻んだ風の文様魔術で地面に叩き落すと、地表で小さく爆発した。
威力のある礫も作れるだろうにあえて制御しているのだとしたら、私の首が必要なのだろう。誰かの顔も分からなければ、指示した者に成果の報告も出来ないから。
明らかに戦闘に慣れた者の追跡である。まともに戦えば、私は勝てる自信が全くなかった。どれだけ真面目に訓練をしても、人並み以上の戦闘力は得られなかった。
だからいつも戦う前の準備を入念にして、罠を多用して来たのに。
「ぅぐ……っ」
不意に地面が揺れた気がした。立ち止まる事は出来なくて、どうにか足に力を込めて倒れるのを防ぐ。急激に気分が悪くなり、体から力が抜けていく。
間違いなく、毒だった。
最初の矢に既に塗られていたのかもしれない。回復を待つだけの時間はなかった。このままでは殺されてしまう。
歯噛みしながら背後に礫を飛ばせば、爆発がして周囲が揺れる。その後に追って来る者は一人減っていた。
唾を飲み込み、最後の手段である時渡りの腕輪に視線を向ける。
これを使えば時間を超える事が出来る。そう。これで、カシュパルが戻って来るだろう少し先に跳べばいいのだ。
しかし意識を集中しようとした矢先、追手の姿が直ぐ近くにある事に気がついてしまった。
ふらついた私に追いつく事は簡単だっただろう。三人が剣を構えて私を取り囲む。
毒の影響で霞がかかった頭で、腕輪に祈りを込めた。けれど体調が万全でないからか、直ぐには反応しない。なけなしの時間を稼ぐ為に剣を構えて覚悟を決めた。
カシュパルとヴィルヘルムスの運命を変える任務は終えた。けれどこんな場所で死ぬ訳にはいかない。
カシュパルの帰る場所になると言ったから!
私が死ねば彼は絶望するだろう。泥濘のような深く、重く、抜け出せない私への依存。一人で生きるには、寂しがり過ぎる可愛い恋人。私はもうカシュパルの事を正しく理解している。
嘆き悲しんで、全てを放棄してしまうかもしれない。
この命には、既に二人分の重みがあった。
向かい来る剣が肩を切り裂いた。その痛みを堪えて一人の懐に入り込み、鋭く首筋を狙う。切り裂かれた喉からは鮮血が噴き出して、慌てて押さえて止血する男を全力で蹴飛ばした。
男は木に頭を強く打ち付けて、そのまま地面にずり落ちて動かなくなる。
酷い吐き気がして、酷くなる一方なのを噛み締めて堪える。どうやら毒は強力で、時を追う毎に体を蝕んでいく。
死ねない。私は死ねない。
そうしている間に背後から背中を斬られ、もう一人も向かって来る。毒が回って視界が霞んだ。煌めく刃の光だけを頼りに、打ち払った。金属音が絶望の森に鳴り響く。
絶対に、生きる。
もう目が見えなくなってきたので、いっそ煙幕弾を転がして煙だらけにしてしまった。周囲に立ち込めた煙に動揺している間に、どうにか一人に剣を突き刺す事に成功する。何処に刺したかも分からないままに、ただ深く穿つように剣に力を込めた。
けれど最後の一人が私の脇腹を深く突き刺して、血がそこから噴き出していく。
距離を取ろうとしたけれど、力が入らない。
感覚が失われていって、激しい戦闘で留め金が壊れたチャームが何処かに飛んで行ったのも気がつかない。
腕輪の水晶が最後の奇跡を起こそうと明滅する。
毒と出血により握力が失われ、剣が私の手の中を滑り落ちて地面に転がった。死が間近にあった。もう逃げる力もない。
カシュパル。……カシュパル。
胸で呼びかける恋人が都合よく現れる筈もない。
けれど腕輪の奇跡は、命を刈り取る剣が迫るその直前に、私を時の流れの中へ連れさってくれた。
ほんの少しだけ先に跳ぶつもりだった。半月先か、一か月先か。間違いなく私を探すだろうカシュパルが見つけられるように。
光に包まれる。過去の二度の経験と違い、強く何処かへ引き寄せられてしまう感覚があるのは意識が朦朧としているからだろうか。
お前の元に、必ず帰るから。
けれど願いも空しく意識は失われて。私は時を超えた森の中で一人、致死の毒に侵されながら倒れ伏したのだった。




