第四十八話 甘やかされる
異変に気がついたのは、アリストラ国とヨナーシュ国を分断する氷山が見える場所まで来た時の事だった。
かつて白い化粧をしていた山々が、今や黒く変色している。原因には過去の記憶から心当たりがあった。
一匹の巨大なサラマンダーが氷狼達を焼き殺し、周辺地域に山火事を引き起こしたのである。巨大な地底洞窟から出現したというその魔物は過去にない程瘴気を貯め込んでおり、有鱗守護団が討伐を成功させるまでの二カ月間に両国に甚大な被害を齎したのだった。
宿場町には足止めされた商人達が溢れかえっていた。仕方なく酒場で時間を潰しながら話す彼等の会話に耳を傾ける。
「参ったよ。もう半年もこの有様だそうだ」
「ああ……どうしよう。品物をあっちに届けなけりゃならねぇのに……」
彼等の話は私達も他人事ではなかった。サラマンダーが討伐されない限り、私達もヨナーシュ国に入れないのだから。
カシュパルは眉間に皺を寄せ、腕を組みながら私に聞いた。
「どうする。海からの道に切り替えるか」
「……そうだな。少し考えてみようか」
幸いな事に宿はとれたが、いつもよりも倍以上の金額を取られた。このような事態では致し方ない事だった。しかも長期間宿泊しても先が見える保証はない。
今後の私達の進路は確かに頭を悩ませる重大な案件である。
しかしそれ以上に胸を占めていた心配事は、何故未だにサラマンダーが討伐されていないのかという事だった。
現れたのは半年前。過去であれば四カ月は前に有鱗守護団に討伐されている筈だった。
「セレナ。どうした」
カシュパルは私が不安と心配を抱えている事を敏感に察知して尋ねた。見慣れた彼の姿を見て、以前と今で違う部分に気がついてしまう。
今の有鱗守護団には……カシュパルがいない。
まさか。そうなのだとしたら。カシュパルが不在の有鱗守護団では、サラマンダーを討伐出来ないのではないだろうか。
そうなればサラマンダーは更に山を焼き尽くすだろう。山火事は舐める様に全てを灰にし、獣も人も暮らしていけなくなるに違いなかった。
ならばどうする。自分の恋人をそんな恐ろしい魔物の元に行かせるのか。
困り果てた商人達が急に私の選択の被害者に思え、堪らなくなって席を立つ。
「部屋に戻ろう」
逃げる様に足早に戻る私に、カシュパルは何も聞かずについて来てくれた。
宿泊しているのは上等な部屋ではなかった。見るからに年季を重ねた壁と、狭いベッドがあるだけである。
それでも人目から避けられた事にほっとして深く息を吐くと、後ろから抱きしめられた。
「……どうした。何を抱えている」
優しい声に返事が出来ない。思わぬ所で変革した運命の影響を知ってしまった。
知らないふりをして、誰かがサラマンダーを討伐するのを待てばいい。その間に起きる多くの被害に目を瞑って。
誰かが出来るはずだ。誰かが。
……一体他の誰が出来るというのだ。稀代の獣人の王となる男以外に。
「セレナ」
泣くのは堪えたのに、カシュパルはまるで私が泣いた時の様に私を慰めようとする。ベッドの端に腰を下ろし、自分の足の上に私を座らせた。
呆れた溜息を吐きながら私の体を両腕で拘束する。
「頭の中を覗きたくなるな。何がそんなに悲しい。時折貴女は世界の全てを背負ったかのような顔をする」
その通りだ。全てを背負っている。アリストラ国もヨナーシュ国もカシュパルも。
逃れられない事実に気づかされ、その手段が愛した彼でなければ解決出来ない事が悲しかった。
けれど無視する事も出来なくて。苦しい心をカシュパルの声だけが救ってくれる。
「俺に言えばいい。大概の事なら叶えてやると言っただろう」
間断なく常に甘やかされる。どうしてこんなに人を愛する事が出来るのか不思議なぐらいに。
その熱に溶かされてしまった自分は、最早彼のいない日々を想像出来なかった。
「危険な目に合わせたくないんだ」
カシュパルが微かに反応するのが背中から伝わった。カシュパルの服の袖を縋るように握りしめる。
「……けれど、多分。カシュパルにしか倒せない」
言ってしまった。カシュパルならば必ず実行するのを知っていながら。
サラマンダーの討伐を願っているのだと、誤解なく伝わってしまう。自分で言ったにも関わらず、後悔が押し寄せる。
私を抱きしめる手に力が籠められ、肩にカシュパルの顎が載った。
「怪我一つなく倒して来る。それがセレナの望みならば」
有鱗守護団でさえ手を焼く魔物を相手にしろと言ったのに、まるで簡単にカシュパルは言った。
本当に余裕だと思っているのか、私の為に演じているのかは彼にしか分からない。
これが本当に、私が運命を変える最後の責任になってくれるのを痛切に願う。
任せてしまう自分が情けなくて、一筋の涙が堪えきれずに手の上に落ちた。こんな簡単に泣く人間ではなかったのに。誰かに甘やかされた結果に違いない。
その原因となる人物は私の体を撫でてあやした。
「泣くな。泣くな、セレナ」
二つ目の涙は落ちる前に、私の顔を振り向かせたカシュパルに口づけと共に吸われてしまう。
「俺の為に泣いているならば、それは見当違いというものだ。漸く貴女が頼ってくれる。それがどれだけ嬉しいか」
その言葉通りにカシュパルは笑っていた。重荷や面倒など思っている様子は全くなさそうに。
だから私は勝手に不幸を背負う事を止めて、ただ頼りがいのある恋人の為に多少無理矢理に笑みを作った。
「ああ。そうやって笑っていてくれ」
カシュパルが自信に満ちた表情で笑うから、本当に感情が落ち着いてきて彼に体重を預けた。
一人では思いつめてしまう私を、こうして救い上げてくれる人がいるのは不思議だった。果たして自分は強くなったのか、弱くなったのか。
「カシュパル」
謝罪したい感情は飲み込んだ。それを求めていないのは分かっていたから。
「……ありがとう」
きっとカシュパルは何事もなく無事に戻って来てくれるだろう。大丈夫。過去でも彼は無事にやり遂げたのだから。
カシュパルの手が私の手に重なり、指を組んだ。それから私に体を押し付けて来て、低い笑いが喉から漏れるのを間近で耳にする。
体格の差だけを考えれば恐怖を抱いても不思議ではない状況だったが、それが心地よく安心感を覚えるのはカシュパルがどれだけ私を守ろうとしてくれているかを知っているからである。
「もっと俺を頼れ。手足の様に俺に慣れてしまえば、最早離れるなど出来ないだろう?」
仄暗い欲望が唇から零れ落ちた。それさえも可愛らしく思うのだから、私もとうに重症だった。
「既にそうしている。カシュパル、十分に頼ってる」
けれどどうやら私の回答は不十分らしい。カシュパルは片眉を上げ、不満を表した後に少し怖い笑みを浮かべて私に迫った。
「知っているか。竜は洞窟の奥に宝物を貯める性質があったらしい。それで唯一の入り口を自分で守るのだと。俺にはその気持ちがよく分かる」
頭に摺り寄せられるカシュパルの頬。私はまるで彼の体に閉じ込められているかのようだった。
「そうしてしまいたい。そうすればセレナは俺がどれだけ貴女に尽くせるか、思い知るだろう。不満を抱く隙さえなく、求める物は口に出す前に贈られる。どうだ。試してみる気はないか?」
うっかり頷けば直ぐにでも実行しそうなぐらい本気の声色だった。
もしもそうなればカシュパルは毎日私の為に食事を作り、惜しみなく贅沢をさせてくれるかもしれないが、その箱庭の外がどんな悲惨な状況になったとしても気付かないまま一生を終えるだろう。
全く厄介な恋人である。兆候は十分にあったのに、この性質を見抜けなかった昔の私は間抜けにも程があった。
宥めるように頬を手で撫で、笑いながら言った。
「魅力的だが、断るよ。私は自分の足で歩きたい」
カシュパルは少し口を尖らせて随分と何か言いたげな顔をする。だから牽制を兼ねて言っておいた。
「私が嫌がる事は出来ないお前が好きだ」
カシュパルは私の言葉に驚いたような顔をした後、反論出来ない自分に気がついたようで少し眉間に皺を寄せる。
私が嫌う事を無理に押し通すカシュパルが想像出来ない。だからカシュパルの欲望は日の目を見る事はないだろう。
諦めた溜息がカシュパルから漏れた後、サラマンダー討伐の事を具体的に考え出したようだった。
「……会う事になりそうだな」
「有鱗守護団か?」
私が居なくなった後、一時期彼等と交流があったらしい。カシュパルは頷いて肯定した。
「散々勧誘されたからな。また会う事になるとは……面倒な」
栄光の有鱗守護団もカシュパルにしてみれば、ただの面倒事である。それが彼らしくて笑った。
「適当にあしらっておいで。お前の帰る場所は此処だ」
「ああ……戻って来る。貴女の隣に」
カシュパルは穏やかに笑い、私に唇を寄せた。
それから数日後、ほんの少し離れるだけのつもりで。私はサラマンダーを狩りに行くカシュパルの背中を、迫り来る何にも気づかないまま見送った。




