終幕へ向かう暗がりの中で
八戸四郎は、気が弱く、臆病で、強い者の言いなりになる男だ。だから、五味達の命令でずっと続けていた野球を簡単に辞め、彼等の使い走りになった。
強者に逆らうことなく、流されるように生きている。強い者の顔色を伺い、いつもビクビクと怯えていて、命令に反抗することはない。
洋平を殺す現場にいたときもそうだ。殺人という大きな罪を犯すときでさえ、彼は五味達に一切逆らわず、反対することも拒否することもなかった。
弱い、弱い生き物。
美咲は、以前、八戸を誘い出して殺すことは意外に難しいかも知れないと考えていた。五味や六田、七瀬を殺した今となっては、考え方は真逆になっていた。
2月1日の、午後7時。
七瀬殺害から、4日経っていた。
咲子は、まだ、仕事から帰って来ていなかった。
授業を終えて学校から帰って来た美咲は、自宅の自室で、最後の標的をどのように殺すか考えていた。七瀬殺害の聞き込みが行われた昨日から、ずっと考え続けていた。
八戸を殺すのは、そう難しくない。洋平の仇は彼で最後なのだから、人に見つからないように気を付ける必要もない。洋平の仇を討てれば、後はどうなってもいいのだから。
いっそ、校内で、堂々とナイフで刺し殺してやろうか。そうするとすぐに通報され、自分は捕まるだろう。それでも構わない。
いや。
美咲は、ほんの数瞬前に浮かんだ考えを否定した。もし、その場で八戸を殺せなければ、洋平の仇を全て殺し切れずに捕まることになる。確実に殺しにいくべきだ。
やはり、七瀬と同じように、ひと気のない場所に呼び出して殺した方がいいだろう。
自分には、もう、残された時間は少ない。昨日は上手く刑事を誤魔化せたようだが、すぐに追い詰められるはずだ。できるだけ早く行動し、できるだけ早く殺す必要がある。
締めたカーテンの隙間から、外が見える。チラチラと、雪が降っていた。
窓の下の方で、光が動いていた。家の前を車が通ったのだろうか。光は窓の端まで移動すると、そこで動きを止めた。
美咲は決断した。
これから八戸を呼び出して、殺そう。場所は、どこにしようか。七瀬を殺した建設予定地は、彼の殺害現場として警察が調べているから、使えない。
五味は、生前、自慢気に語っていた。自分の親の会社が請け負っている建設現場のことを。彼が話していた建設現場の中には、洋平が埋められたマンションの建設地も含まれていた。
洋平が眠る場所。
美咲の頭の中に、天啓のように光りが差し込んだ。
そうだ。八戸は、洋平と同じ場所で殺そう。
洋平が眠る場所で仇討ちを完了させ、全てを終わらせよう。
洋平がいなくなってしまった今、美咲にとっては、何もかもがどうでもよかった。
何もかも。
自分の命すら、どうでもいい。
それならば、と思った。洋平の仇を討ったら、自分の命も終わらせよう。洋平と同じ場所で眠りにつこう。
洋平と同じ場所で。
添い寝するように、永遠の眠りにつこう。
同じ言葉を心の中で繰り返して、美咲は苦笑した。笑みは、表情には出ない。心の中での笑み。
人間は──全ての意思を持つ生き物は、死んだら完全な無になる。洋平は以前、そんなことを言っていた。だから、生きているうちは、自分の大切なもののために必死になりたい。生きている時間を大切にして、自分の大事なもののために自分の意思を使いたい。
洋平の言う「大事なもの」が何なのかは、聞くまでもなかった。彼の行動が、彼の意思の全てを物語っていた。
美咲も、洋平と同じ気持ちだった。死んだら、完全な無になってしまう。だから、自分にとって大切なもののために自分の意思を注いで、生きていたい。
けれど、もしも。
もしも、死後の世界なんてものがあるのなら。
自分はきっと、洋平と同じ場所には行けないだろう。たとえ死後の世界があっても、彼に再び会うことはできないだろう。
洋平は優しく、努力家で、真面目だった。五味や六田のように彼を妬みから嫌う奴はいたが、そういった人物以外からは、誰からも慕われるような人だった。
そんな洋平に比べて、自分は人殺しだ。もう3人も殺しているし、これから4人目も殺す。自分は間違いなく、五味や六田と同じところに堕ちるだろう。
寂しい、と思った。それと同じだけ、もう洋平に会えなくてもいいと思えた。
会いたいけど、会えなくていい。
今の自分を、洋平に見せたくない。見てほしくない。洋平の仇を討つために、五味や六田と寝た。人を惨殺した。嘘を嘘で塗り固めて、ここまで来た。
だから、会えなくていい。洋平と同じ場所で眠れるだけでいい。
スマートフォンを手に取り、八戸に電話を架けた。
彼が応答するまで、少し時間がかかった。10コールほどだろうか。
七瀬にしたのと同じような説明を、八戸にもした。刑事が、洋平殺しの件で聞き込みに来た。守ってあげるから洋平を埋めた場所まで来て、と告げた。
気が弱く流されやすい八戸は、あっさりと美咲の言葉を受け入れた。どこか上の空のような印象を受けるほど、機械的に美咲の話に対応していた。
電話を切る。
美咲は、鞄の中にスタンガンとナイフを入れた。七瀬のときのように、返り血を浴びないように絞殺を選択する必要もない。八戸を殺したら、すぐに自分も死ぬのだから。
不思議なほど、心が穏やかだった。もう死ぬと決めたからだろうか。洋平を失った悲しみは消えない。胸の痛みがなくなるはずもない。ズキズキと痛み続けている。それなのに、穏やかだった。
もう、全てが終わる。
五味と寝たとき、彼の子供を妊娠していればいいと思った。妊娠していたら、産んで、惨殺してやろうと思っていた。
あれから、生理はきていない。本当に妊娠できたのだろうか。それとも、悲しみや寂しさのストレスから、生理不順になっているだけだろうか。
仮に妊娠していたとしても、自分が死ねば腹の中の子供も死ぬ。最後の最後に、五味の存在を全て否定して死ねる。
仮に妊娠していなくても、自分が死ねば全てが終わる。どんなに少なくとも、今抱えている痛みや苦しみ、悲しみは、全て終わる。
「じゃあ、行こうか」
誰に告げるでもなく、美咲は呟いた。自分自身に言ったのか、自分以外の誰かに告げたのか、美咲自身にも分からなかった。
ピンポーン
美咲がコートを着たところで、この家のインターホンが鳴った。
終幕への邪魔をされた気分になって、美咲は若干苛立った。
居留守でも使おうかと思ったが、やめた。訪ねて来たのが誰なのかは、分からない。これから急ぎで出掛けるからと言って、追い返そう。そのまま、洋平が眠るマンションの建設地に行こう。
美咲は殺害の道具が入った鞄を持って、1階に降りた。玄関で、ドア越しに聞いた。
「どちら様ですか?」
「警察の者です」
玄関の向こうから、知っている声が聞こえた。学校での聞き込みのときは、ほとんどの質問をさくらがしていた。だから、あまり馴染みのある声ではない。けれど、はっきりと覚えている声。
少しだけ洋平に似ていると思った人の声。
美咲は玄関のドアを開けた。
外にいたのは、知っている人だけではなかった。知っているのは、2人だけ。前原正義と、原さくら。彼等以外に、5人の人がいる。その人数と雰囲気から、ただ事情を聞きに来ただけではないのは、明らかだった。
──ああ、間に合わなかった。
胸中に浮かんだのは、そんな言葉だった。全員、殺し切れなかった。仇を全て討てなかった。
そう悟ったとき、美咲は、自分でも驚くほど落胆しなかった。
目的を果たせなかったのに。
胸は、相変わらず痛い。ずっと痛み続けている。その痛みの強さに、変化はなかった。全員殺せなくても。仇を全て討てなくても。目的を果たせなくても。
「あ……」
7人の刑事を目の前にして、美咲は気付いた。そうか、と。そうだったんだ、と。
五味を殺したとき、洋平の仇を討てたという高揚感に包まれた。異常なほどの高揚感で、彼の死体に対して「バラバラになろうか」なんて、話しかけてしまった。
その反面、六田を殺したときは、淡々としていた。何も言わずに滅多刺しにし、淡々と死体を解体した。
七瀬を殺す直前に、意地悪くスタンガンを当てられる気持ちを聞いてみたが、五味に辛辣な言葉を吐いたときほど興奮しなかった。
今になって、美咲は、その理由を知った。
洋平の仇を全員殺せないと、刑事達を前に悟って。
自分にとっての「復讐」は、五味を殺すことで完結していたのだ。主謀者であり、洋平の死の根源である、彼を殺した時点で。
あとは、ただの八つ当たり。復讐の名を借りた八つ当たり。
洋平を失ったことが、あまりに悲しくて。どうしようもなく寂しくて。胸の奥が、痛くて、痛くて。
あいつらを殺すことでしか、誤魔化せなかった。
「笹森美咲さんですね?」
正義は、知っているはずのことを聞いてきた。逮捕するときには、こんなセリフを言わなければならないという決まりでもあるのだろうか。
美咲は少しだけ笑った。感情を表に出すのは苦手なはずなのに、なぜか、今は笑えた。
「見ての通りです」
当たり前のように、美咲は答えた。
正義は、一枚の書面を提示してきた。逮捕令状。
逮捕するときは、本当に、こんなふうに令状を提示するんだ。ドラマみたいだな──美咲は、まるで他人事のように令状を見つめていた。
「七瀬三春殺害の容疑で、あなたを逮捕します」
令状が出ているのは、七瀬の件だけなんだ。五味や六田の件は、まだ完全に調べ切れてないんだろうな。
そんなことを思いながら、降参の意思を示すように、美咲は両手を肩のあたりまで上げた。抵抗する気はなかった。抵抗しても無駄だと分かってもいた。屈強の刑事を7人も前に、どうにかできるはずがない。
「抵抗も反論もしませんよ。ただ、必要であればお茶でも入れるんで、いくつか聞かせていただいてもいいですか?」
「答えられる範囲であれば」
正義が答えると、彼の後ろにいた刑事の1人が、彼の肩を掴んだ。
「おい、前原」
正義は、見るからに苦しそうな表情になっていた。美咲の逮捕について、心苦しいところがあるのだろう。まるで、心中が透けて見えるようだった。
こんなところは、本当に、洋平にそっくりだな。美咲の頭の中に浮かぶ、大好きな人の顔。
「後ろの刑事さん達が不服そうなんで、なんなら、手錠を架けてからでもいいですよ」
美咲は、正義に対して両手を差し出した。
彼は泣きそうな顔になっていた。
「……何が聞きたいか、言ってくれないか。答えられる範囲であれば、答えるから」
正義は、美咲に手錠を架けなかった。
美咲は軽く息をついた。正義の顔を見て、質問したい内容が変わっていた。本当は、どこで美咲を犯人と断定し、何が決め手だったのかを聞くつもりだった。けれど、それはもう、どうでもよくなった。
「……洋平のこと、分かったんですか?」
簡潔に聞いてみた。美咲が殺人に手を染めた要因が、分かったのか。それで正義は、こんな顔をしているのか。
正義は目を細めた。涙を堪えているような顔。彼の態度が、全てを物語っていた。それでも彼は、律儀に答えてくれた。
「八戸四郎が、全て吐いた」
正義の回答から、美咲は理解した。先ほどの電話のときに八戸が応答するまで時間がかかった理由も、彼の対応が機械的だった理由も。
八戸は、今、自宅にはいない。呼び出したマンションの建設地にも向かっていない。彼は今、警察署にいるのだ。刑事の監視のもとで、美咲の電話を受けたのだ。
「どうして八戸を捕まえたんですか? 洋平を殺した証拠でも出てきたんですか?」
正義は首を横に振った。
「八戸が、自分で出頭して来たんだ。次は自分が殺される、と言って」
「ああ、そっか」
美咲は、4人全員が生きていたときの飲み会を思い出した。
あのとき、美咲は、五味以外の3人を観察していた。殺す優先順位を決めるために。そのときに、八戸に対して、こんな印象を抱いた。
『自分より強い者に逆らえず、抵抗する考えすら持てない小心者。強い者の庇護のもとで、強い者の言いなりになることでしか生きられない臆病者』
八戸は、考えたはずだ。五味が殺され、六田が行方不明になり、七瀬の死体が発見されたときに。3人に共通するのは、洋平の殺害に関与したこと。そう考えれば六田はもう殺されているだろうし、次に殺されるのは自分だ。
だから、強い者に守られる選択をした。警察という国家機関に守ってもらうため、自首した。
先ほど美咲は、八戸を殺すのはそう難しくないだろうと思った。殺害の計画を立てていたときとは違って。けれど、それは間違いだった。当初考えていたことの方が正しかった。
『むしろ、臆病な分だけ警戒心が強いであろう八戸が、1番殺しにくい気がする』
臆病で小心者だからこそ、殺す側の美咲にとっては反則とも言える行動を取った。人殺しに加担したくせに、警察に守ってもらおうなんて。
美咲は小さく溜息をつくと、ナイフとスタンガンが入った鞄を正義に差し出した。
「ここに、ナイフとスタンガンが入ってます。五味や六田、七瀬を殺したときに使った道具です」
令状が出ていない殺人まで美咲があっさりと自白したせいか、刑事達が驚いた顔を見せていた。
「七瀬を殺したロープはもう処分しちゃったんで、ここにはないですけど」
正義は、美咲から鞄を受け取った。手が震えていた。
「まだ色々聞きたいことはありますけど、後ろの刑事さん達が恐い顔をしているんで、とりあえずはもういいです。あとは、警察の方で聞きますから」
正義は、顔をクシャクシャに歪めていた。まるで、小さい子供が泣き出す直前のようだった。
「俺からも、聞いていいかな?」
「ここでですか?」
美咲は、作り笑いを浮かべた。少し皮肉気な笑みを作ったつもりだった。
「私は構いませんけど、他の刑事さん達が睨んでますよ? 原さんは、なんか少し雰囲気が違いますけど」
さくらは、正義ほどではないが、やり切れない表情を見せていた。彼女が自分の感情に動かされないようにしているのは、自分の仕事に対する責任感からだろうか。
正義は、自分に向けられる他の刑事の視線に、気付いているだろう。それでも構わず、彼は口を開いた。
「俺は、村田洋平君じゃない。だから、彼の気持ちは分からない」
「おい! 前原!」
再度、後ろの刑事が正義の肩を掴んだ。彼はその手を振り払った。
正義は、泣かない。健気な子供のように、涙を堪えている。
「俺には、殺されたときの村田洋平君の気持ちは分からない。だから、彼が、笹森さんが自分の仇を討つことなんて望んでないとか、そんなことをしても彼は喜ばないなんて、言えない──」
正義は、ドラマなどで出てきそうなセリフを第一声で否定した。肩が震えている。涙声になっている。それでも、泣かない。きっと、彼は分かってくれているからだ。美咲は、彼の気持ちを好意的に解釈した。
正義は、この件で誰が1番苦しくて、誰が1番悲しいか、分かっている。1番苦しくて1番悲しい人が泣かないから──泣けないから、自分も涙を堪えている。
「──だから、俺は、君自身に聞きたい」
「私に、何を聞きたいんですか?」
正義は天井を見上げた。涙を堪え切れなくなりそうだから、流れ落ちないようにしているのだ。本当に、気持ちが分かりやすい。
上を向いたまま、正義は鼻をすすった。大きく息を吐いて、美咲を見つめた。
「もし、村田洋平君に会えるとしたら、君はどんな顔をして彼に会うんだ? 彼に何て言うんだ?」
洋平がいなくなって、悲しい。苦しい。寂しい。
洋平に会いたい。会って、話したい。触れ合いたい。抱き付きたい。一緒にいたい。
それは、美咲がずっと抱えていた気持ちだった。もしかしたら、無意識のうちに口にしてしまったこともあるかも知れない。
けれど、それは叶わない。
ずっと抱えていた気持ち。
もう過去形の気持ち。
美咲の目頭が熱くなった。涙が流れ落ちそうになった。それでも、涙は流さなかった。
「死んだ人間に会うなんて、死後の世界が本当にあるみたいな話ですね。それなら、天国とか地獄も、本当にあるんでしょうか?」
正義からの返答はない。ただじっと、美咲を見つめている。
美咲は、先ほど考えていたことを、そのまま口にした。
「私は、洋平には会えないですよ。洋平は間違いなく天国に行く。でも、私は地獄行き。会えるはずもないし、会いたくない。今の私を見せたくない」
大好きだから会いたくて、大好きだから、会いたくない。
「どうして、そこまでして……」
「私はただ、許せなかったんです。私から、洋平を奪ったことを。守れなかったことを。洋平は、私にとっての全てでしたから」
目尻が重い。涙が溢れかけている。それでも美咲は、泣かなかった。
洋平の復讐をすることは、自分でした選択。
洋平に2度と会えなくなるようなことをしたのも、彼に見られたくないと思うようなことをしたのも、自分の選択。
だから、絶対に泣かない。
「前原さん、そろそろ行きましょうか。あとは警察の方で話しましょう」
美咲は再び、正義の方へ両手を差し出した。
手錠は、容疑者の両手ではなく、刑事と容疑者に片方ずつ架けるものだと、このとき初めて知った。




