突き動かされ、殺して、逃げ出して
暗い建設中の建物の中で、美咲は、鞄から取り出したメモを七瀬に渡した。
そこには、洋平が殺された日の美咲の行動が、分単位の時系列で書かれている。暗いので、その文字は非常に見にくいが。
もちろん、メモに書いてある美咲の行動は、授業が終わった後に関しては全て嘘だ。
あの日、美咲は、授業が終わるとすぐに帰宅した。洋平に「一緒に帰ろう」と声を掛けたが、断られた。理由は分からないが先生に呼ばれている、と言われて。
今にして思えば、洋平を呼び出したのは先生ではなく、五味だったのだ。
あの日、洋平は、美咲のことで五味と話をつけるべく彼の呼び出しに応じた。その結果、殺された。
「あんた、あの日、学校には来た?」
「ああ。サボってない。授業が終わった後に五味君が教室に来て、村田を呼び出す話を聞いたんだ」
七瀬は、意外なほど明確に、洋平を殺した日のことを覚えていた。
あの日は、五味にこう指示されていた。午後8時に洋平をマンションの建設現場に呼び出すから、その時間に集合しろ、と。七瀬は一旦帰宅した後、自宅近くのディスカウントショップなどで時間を潰し、午後7時45分くらいに、洋平を呼び出したマンションの建設現場に着いた。
七瀬が現場に来たときには、他の3人はすでに来ていた。
洋平がその場に来たのは、午後8時5分前くらいだったそうだ。
「ということは、下校してから建設現場に行くまでのあんたのアリバイを証明する奴は、誰もいないってことだね」
「何だ? まずいのか?」
怯えた様子で、七瀬が聞いてきた。
こいつは、記憶力は悪くないみたいだが、頭の回転は絶望的に悪い。美咲は胸中で毒突きながらも、顔には、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「全然。むしろ逆。あの日は私と一緒にいたことにするんだから、あんたのアリバイを証明できる人がいない方が、都合がいい」
「そうか」
七瀬は、ホッと息をついた。
「いい? まず、あの日は、私があんたを呼び出したことにするの。放課後に、相談があるから呼んだ、ってことに」
「あ……ああ」
「あんたが私に相談されたのは、五味のことについて。五味は、私を口説いていた。でも私は、五味が他の女とも関係を持っていることを知っているから、いまいち本気とは思えなかった。だから、五味の本気度を探るために、あんたに相談を持ちかけた。そういうことにするの」
「わかった」
「細かい話の内容までははっきりと覚えていない、ってことで通していいと思う。2ヶ月以上も前のことを鮮明に覚えている方が不自然だから」
「そうだな」
七瀬は、美咲の話を肯定しかしない。そのことから、美咲は、自分が彼を完全にコントロールできていると判断した。
美咲の話には、意図的に、若干の矛盾点が設けられている。2ヶ月以上も前のことだから、会話の内容ははっきりと覚えていない。それなのに、行った場所や時間帯は、ほとんど分単位で覚えている。その設定はどう考えても不自然であり、そう指摘すべきところだ。自分の保身を何としても図りたい七瀬であれば、なおさら。
しかし彼は、美咲の話した設定に、何ら反論してこない。
「凄いな、お前。こんなに細かく考えて。天才かよ」
挙げ句の果てには、そんなことまで言い出した。
自分より立場の強い者に媚び、従い、その庇護の下で生きる。そんな七瀬にとって、自分を守ってくれる美咲は、媚びてお世辞を言う対象であっても、互いに意見を言い合う対象ではないのだ。
強い者の意見に無条件に従い、守られて、楽に生きる。そのためなら、他人の命すら簡単に奪える。そんな男。
それなのに、五味を殺したときほどの殺意や高揚感は、今は感じなかった。六田を殺したときもそうだった。
それでも美咲に、躊躇いはなかった。4人全員を殺せば、きっと楽になれるから。この胸の痛みも苦しみも、なくなるはずだから。
──だって、こいつ等への恨みや憎しみのせいで、こんなに苦しいんだから。
七瀬は、美咲に渡されたメモを、暗がりの中でじっくりと見ている。天井から差し込むわずかな光を頼りに。美咲の指示通り、メモを見なくても人に話せるレベルで記憶しようとしているのだろう。
美咲は右手を鞄の中に入れ、スタンガンを握った。
七瀬は、もう、自分の言うことにおとなしく従う。それならば、こんな古典的な手にも引っ掛かるはずだ。そう判断し、美咲は彼に声をかけた。
「あれ? あんた、ちょっと……」
「ん? 何だ?」
「ちょっと、それ……背中見せて」
「?」
七瀬が美咲に背を向けた。美咲に言われた通りに。
その直後、美咲は鞄からスタンガンを取り出し、スイッチを押して七瀬の背中に押し当てた。
バチバチッ
青白い火花と同時に、嫌な音が美咲の耳に届いた。自分の体でも試したから、よく分かる。スタンガンがどれほど痛く、どのように体の自由を奪うのか。
「──!?」
スタンガンを押し当てられた七瀬はビクンッと体を震わせ、その場でうつ伏せに倒れた。
気絶はしていない。
ドラマや漫画と違い、実物のスタンガンは、気絶するほどの電流は流れない。電流を流すことにより体の電解質の動きを阻害し、行動不能にするのみだ。その効果は、美咲自身の体で試した結果、おおよそ数分程度。ある程度自由に動けるようになるまで、10分程度だった。
七瀬は、わずかに動く首で美咲の方を向くと、何か言いたそうに口をかすかに動かした。しかし、言葉にならない。呻き声が喉から漏れるのみだった。
美咲は七瀬を冷たく見下ろしながら、軍手を履き、彼の首にロープを巻いた。
七瀬の顔が目に見えて青ざめてゆくのが、この暗がりでも分かった。
絞殺しているときに動けるようになられたら面倒なので、美咲はもう一度、七瀬にスタンガンを当て、スイッチを押した。
バチバチッ
電気音とともに、七瀬の体がビクンビクンッと跳ねた。口からは涎が漏れ、目には涙が浮かんでいる。
「どう? 自分がやられる感想は」
五味を殺したときのように、辛辣な口調で言ってみた。けれど、あのときほど気分は晴れなかった。
そんな自分の気持ちに違和感を覚えながら、美咲は、うつ伏せに倒れたままの七瀬に跨がり、首に巻いたロープを思い切り引っ張った。
七瀬の反撃も抵抗もなかった。彼は今、動けない状態になっている。このまま締め続ければ、おおよそ1分弱で酸欠により意識を失うだろう。
両手に目一杯力を込めながら、全力でロープを引いた。頭の中で数を数える。
美咲の胸中でのカウントが40に差し掛かったところで、七瀬は白目を剥き、口から泡を吐き出した。意識がなくなったのだろう。60を過ぎたあたりで、白目を剥いた目が、眼球が飛び出しそうなほど突き出てきた。さらに75に達すると、鼻と口から血が流れてきた。85を越えたくらいで、異臭が美咲の鼻を突いた。失禁したのだろう。
胸中のカウントが100を越える頃になると、七瀬の顔色は、生きている人間とは思えないものになった。天井から差し込むわずかな光に照らされた彼の顔は、土のような色になっていた。
美咲は、なかなかロープから手を離せなかった。人は、どれくらい締め続ければ死ぬものなのか──それを詳しく知らなかった。どのタイミングで手を離していいか、分からない。
いつまでこうしている? いつまで締め続ける? いっそ、力が入らなくなるまで締め続けようか。
疲労で震え始めた両手に力を入れ続けながら、美咲は、あとどれくらい締め続けるべきかを考えていた。
胸中でのカウントが、150を越えた。
──ゲホッ、ゲホッ
唐突に、遠くから咳が聞こえた。
驚いた美咲は、ビクッと体を振るわせた。七瀬を締めていた両手から、力を抜いてしまった。
バクバクと早鐘を打つ心臓。慌てて周囲を見回した。
建物内には、誰もいない。
咳は、割と遠くから聞こえた気がした。とはいえ、ここは外気と遮断された空間だ。現場のすぐ近くにいる人の咳でも、遠くに聞こえるかも知れない。
どうする!? 美咲は自問した。もし、咳をしたのが建設現場の作業員で、この場に入ってきたら、言い逃れはできない。明らかな殺人の現場だ。
将来的に逮捕されるのは覚悟している。だが、標的を残しているうちは、捕まりたくない。
美咲は七瀬の首に巻かれているロープを回収し、彼の背中のやや左側に右耳を当てた。心音の確認。鼓動は、まったく聞こえない。10秒ほど耳を当て続けたが、彼の心臓は、動く気配をまったく見せなかった。
大丈夫だ。こいつはもう、間違いなく死んでいる。
確信すると、美咲は、七瀬に渡したメモを回収した。現場に残った自分の足跡を踏み捻るようにして消し、建物の土台部分から出た。
建物の入り口付近まで近付くと、鉄骨に張られた幕に耳を当ててみた。外から、足音や人の声は聞こえてこない。
入り口付近には、今は誰もいないようだ。だが、咳は確かに聞こえてきた。ここに誰かが入ってくる可能性は、決して低くない。七瀬の死体をこのまま放置してでも、今は逃げるべきだと判断した。
美咲は、建物の入り口から少しだけ顔を出して、周囲を見回した。この辺りには誰もいない。
遠くから話し声が聞こえた。話の内容は分からないが、明らかに、人と人が会話をしていた。声の質から、男女の会話だということが分かる。
美咲は素早く建物から出ると、現場の出入り口からではなく、現場を囲む幕の下を這うようにして通り抜け、その場を後にした。
七瀬の死体は間違いなく翌日には発見されるだろうと、覚悟して。
──結局、七瀬の死体は、翌日の朝になるまで発見されることはなかった。
死体の第1発見者は、現場の作業員だった。




