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堕ちた先で、幸せな夢を見る。幸せな夢は、憎悪を強くする。


 激しく動いたせいで、息が切れていた。全力で何度もナイフを振り下ろし、人の体を刺し続けたのだから、当然だった。全力で走り抜けたときのような、酸素を求めて必死に呼吸を繰り返す疲労感。


 今の美咲にとって、それは、心地よいとさえ言える疲労感だった。


 五味は、意識があった最後の瞬間、絶望を絵に描いたような顔を見せていた。好きな女を自分に惚れさせ、認めさせ、セックスで悦びを感じさせていると信じていた。それが、美咲の言葉で完全に否定されたのだ。自分は洋平に劣ると、はっきりと告げられたのだ。


 間違いなく、五味は絶望しながら死んでいった。遙かな高みまで上り詰めた後に、一瞬にして地面に叩き付けられたように。幸福の絶頂から、地獄の底に叩き落とされたのだ。


「ざまあみろ」


 ポツリと、美咲は呟いた。死体となった五味を見て。彼の、驚愕と絶望に見開かれた目を見て。


 心の底から、歓喜が溢れていた。大声で笑いたい気分だった。行き所のない自分の怒りと悲しみと絶望を、五味に叩き付けてやった。自分の命よりも大切な洋平を奪った、仇を討てた。


 今までの人生で経験したことがないほどの達成感と満足感を、美咲は感じていた。


 けれど、まだ終わりじゃない。

 洋平の仇は、まだ3人も残っている。彼等を殺すまでは、警察に捕まりたくない。


 自ら立てた計画通りに、美咲は動き始めた。


 まず、部屋の明かりを点け、この部屋のエアコンのリモコンを探した。ベッドのすぐ近くに落ちていたそれを拾うと、冷房を最大にして点けた。


 ベッドの真上にあるエアコンから、夏場でも寒気を感じるほどの冷たい風が吹き出てきた。設定温度は最低の12度にした。それでも、この冷房の強さなら、10度くらいまで室温を下げられるかも知れない。


 それだけではなく、部屋の窓も開けた。氷点下の気温の冷たい風が、部屋に吹き込んできた。あまりの寒さに、全裸の美咲は身震いした。


 五味の上に掛けていた、血まみれの羽毛布団を剥いだ。可能な限り五味の死体を冷やすことで、腐敗を遅らせるのだ。


 これから五味の死体を解体して、彼に買わせたキャリーバックに詰める。その後に、公園の池に沈める。


 この日のために準備をしてきた。公園の池の氷を割って、池の中にキャリーバックごと五味を沈められることも、事前に確認した。


 五味の体を解体するためのノコギリは、ここにはない──まだ用意していない。さすがに、ノコギリは、ナイフのように鞄に隠し持つことはできなかった。


 美咲は時計を見た。午後11時半。


 咲子には、今日は友達の家に泊まると言っている。だから、朝帰りでも問題はない。


 服を着て、美咲は冷房の効いた五味の寝室を出ると、リビングに行った。リビングの暖房を入れて、ソファーに横になった。


 さすがに、五味を何度も刺して疲れた。少し眠って、体力を回復させよう。眠って、午前中にホームセンターでノコギリなどの死体処理に必要な道具を買って、五味を解体するのだ。


 ノコギリなどの購入費用も、五味の財布から出してやろうと思っていた。彼は、自分の死に関わる費用のほとんどを、自分の財布から出すことになる。美咲とのデートの費用も、棺桶となるキャリーバックの費用も、自分の死体の処理をする道具の費用も。


 美咲が払ったのは、ナイフの代金くらいか。


 ソファーに横になって、コートを掛け布団代わりにした。目を閉じる。リビングの明かりは消さなかった。何かあったときに、すぐに起きられるようにしておきたい。


 不快だった五味とのデート。苦痛でしかなかった、彼とのセックス。全力で何度も彼の体を刺した疲労。美咲は、自分が思っていた以上に疲れ果てていた。予想外に、すぐに眠りに落ちた。


 まどろむ意識。夢の世界に引きずり込まれてゆく感覚。


 五味を殺すことができた。絶対に殺さなければならない男。命に替えても殺す必要があった男。


 大きな目的を達成したせいか、体の力が抜けた。今まで意識していなかった下腹部の痛みを、薄れゆく意識の中で感じた。


 そのせいだろう、幸せな夢を見た。


 夢の中で、美咲の初めてのセックスの相手は、五味などではなかった。

 洋平だった。


 もちろん、洋平が、責任も取れないうちに美咲を抱くはずがない。


 夢の中では、美咲も洋平も、もう学生ではなかった。洋平の姿は生前とまったく変わらないのに、なぜか、彼が大人になっていることだけは分かった。


 初めての、裂けるような痛み。

 激しい痛みに襲われながらも、美咲は、やめてほしいとは思わなかった。


 洋平が、どうして大人になるまで──社会人になるまで美咲を抱かなかったのか、分かっている。


 そんな洋平の意思に反して、美咲は、彼に抱かれたいとずっと思っていた。セックスに興味があるとか、性的欲求があるなどという理由からではない。


「一線を越える」


 そんな言葉を現実のものにする相手は、洋平以外は考えられなかった。彼となら、越えたいと思っていた。


 それがようやく叶って、痛いが、嬉しかった。


 洋平は常に美咲を気遣っていた。乱暴に、滅茶苦茶にしてしまいたい欲求は、当然のようにあるはずなのに。


 優しく動き、美咲を抱き締め、何度も何度もキスをした。何度も何度も、好きだと囁き合った。


 こんなときですら、洋平は優しかった。自分の欲求を二の次にして、美咲のことを気遣っていた。


 洋平は優しい。そんな洋平が、誰よりも好きだ。


 洋平は、全然違う。


 ……違う?


 幸せな夢の中で自分の上に乗る洋平と見つめ合いながら、美咲は急激に冷静になっていった。


 ……違う? 誰と?


 自分の上に乗る、優しく見つめてくる洋平の姿が、薄れてゆく。まるで、彼の体が透明になって、彼の体の向こうにある天井が見えるようだった。


 大好きな洋平が、消えてゆく。美咲の前から。この世界から。


 ハッと、美咲は目を覚ました。


 目に映ったのは、見慣れない天井だった。


 美咲の頭の中が、急激に覚醒してゆく。現実を理解し、幸せな夢が消えてゆく。


 洋平はもういない。彼に抱かれることも、絶対にない。

 自分の初めての相手は、大好きな洋平ではなかった。


 下腹部の痛みを感じた。


 窓からは、朝日が差し込んでいた。時計を見ると、午前7時になっていた。

 幸せな夢から無慈悲な現実に引き戻されて、美咲は一気に不機嫌になった。


 シャワーを浴びて、買い物に行く準備をしなければならない。寝ていたソファーから降りると、美咲は、浴室に行く前に五味の寝室に足を運んだ。


 五味の寝室は、ドアを開けた瞬間に冷気が漏れ出てくるほど、冷え込んでいた。真冬に窓を開けたまま冷房まで点けていたのだから、当然だ。


 ブルッと体を震わせて寝室に入ると、美咲は、五味を殺したナイフを手にした。


 五味は当然、ベッドの上で死んでいる。目を見開いたまま、動くことはない。


 美咲はナイフを握り締めると、昨夜と同じように、思い切り五味に振り下ろした。彼の下腹部に。


 現実の世界で洋平を奪われ、幸せな夢ですら、この男に邪魔をされた。


 無残に殺してもなお、飽き足らないという気分だった。できることなら、1度生き返らせて、また殺したかった。


 昨夜は五味を殺して気分が晴れた気がしていたが、幸せな夢を見て、彼に奪われたものの大きさを再確認した。たとえ本当に彼が生き返り、再度殺したとしても、飽き足らないだろう。それを何百何千何万と繰り返しても、足りないだろう。


 五味はそれほど大きなものを、美咲から奪ったのだ。失ってしまったら2度と戻ることのない、大切なものを。


 美咲は拳を握り、五味の顔を殴った。すでに死後硬直が始まっていて、殴った拳の方が痛かった。絶望のまま動かなくなり、完全に硬直した彼の顔。


 美咲は小さく舌打ちをした。


 ナイフを彼の下腹部に突き刺したまま、抜きもせずに、美咲は浴室に向かった。

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