魔法は解けて
三十三話と三十四話を更新させて頂きましたm(__)m
「こんな所でどうしたの?」
近所の子供に苛められ、家の脇に隠れて一人膝を抱えて、こっそりと泣いていた僕の頭上から穏やかな声が聴こえた。そして声の方を仰ぎみるとそこには大好きな母が心配そうな顔をして僕を覗きこんでいた。
「……なんでもないよ、大丈夫」
大好きな母を心配させたくなくて、僕は慌てて涙をぬぐってそう言ったけど……
「こんな所で、一人で泣いていたら、つらい気持ちはきっとなくならないわ。辛い時にはお母さんが傍にいるから、傍にいて話を聴くから、一人で泣かないで」
母はそう言って僕をぎゅっと抱きしめてくれた。
僕が物心着く頃には、すでに母と子二人だけの暮らしだった。
幼子を抱えながら働く母は、それは大変なはずなのに、いつも笑顔を絶やさなかった。
決して裕福とは言えない暮らしぶりだったけれど……
『私はこんな素敵な息子がいて幸せだわ』と母は僕を抱きしめ、沢山の愛情を注いでくれた。
それは穏やかで幸せな日々だった。
父のことは何も知らなかった。その名も、生きているのかどうかも。
そのことで近所の子供に苛められることも何度かあり、まったく気にならないと言ったら嘘だったが……
なんとなく母が父の話をしたがらない雰囲気を、子供ながらに感じており、深く追求することもなかった。
しかし、僕はやがてそのことを後悔することになる。
もし、父のことを知っていれば……何か変えることができたのではないかと。
そして、母と二人で過ごした穏やかで幸せな日々が突然、終わりを迎えた。
それは俺が九歳になる年の春のことだった。
それは、夕暮れ時、母と共に家路へ着こうとしていた時におこった。
突如、僕たちの前に見たことのない大きな男たちが現れたと思うと――
口に布を押し付けられ、その布からは甘い匂いがして……僕の意識は薄れていった。
目を覚ますとそこは薄暗い部屋だった。
日の光は入っていないようで、ランプの明かりだけで照らされた部屋。
明かりで浮き上がる壁にはびっしりと何かの文字が書かれていて、ひどく不気味な部屋だった。
そんな部屋の中には十名近い人々がいるようだった。
僕は部屋の真ん中に横たえられていて、人々はそれを囲むように立っていた。
意識を失う前に僕達の前に立った男たちもいた。
おそらく、彼らによってここに連れてこられたのだろう。
僕は縛られているようで、動こうとしたけれど身動きが取れない。
口にもきつく布がまかれていて、うまく声をだすこともできなかった。
僕の目の前には、全身に真っ黒な服を着た男と、そしてなんだかこの薄暗い部屋には似つかわしくない、煌びやかな真っ赤なドレスをまとい、首にはドレスと同じように真っ赤な宝石を下げた、赤い女が立っている。
「子供が、目をさましたわ。さあ、あの子をここへ」
赤い女がそう言うと、大柄な男が前に歩み出てきた。
その腕には、僕とそう年の変わらない男の子が抱きかかえられていた。
男の子は僕の横に、綺麗な布を敷かれその上に、とてもていねいに寝かされた。
近くで見ると男の子は酷く痩せていて顔色も悪く、苦しそうに肩で息をしていた。
きっと彼はとても具合が悪いのだろう。
しかし、そうした具合の悪そうな所を差し引くと、彼は僕によく似ていた。
赤い髪に灰色の瞳、それに顔立ちも―――
この子は一体、誰なのだろう。
そうして、僕が男の子をじっと観察していると、再び赤い女が口を開いた。
「これで準備は整ったわ。では、初めましょう。生贄をここに」
準備とはなんのことだろう。
この薄暗い部屋で一体、何がはじまるのか?
生贄とはなんだろう?以前、母に読んでもらった本にでてきた気がする……それはどんなものだったのだろうか……
未だに現実感のない状況で僕がそんな風にぼんやりと考えていると。
男の子が連れてこられた反対側から、男がもう一人、人を連れてきた。
それは……僕の大好きな母だった。
まるで引きずられるように、連れてこられた母。
その美しい顔は青く腫れていた。足にも怪我をしているのか、引きずって歩いている。
『かあさん!!』
僕は布に覆われた口で必死に叫んだが、実際にはくぐもった音が少し漏れただけだった。
立ち上がり母の所に行こうともがく。
しかし、そんな僕を、近くにいた男の一人が、ぐっと冷たい床に押さえつける。
「やめて!!」
母が叫び、僕の方へ近寄ろうとしてやはり男に押さえつけられる。
そんな僕らをとても冷たい目で見つめながら、赤い女が言った。
「その子供の身体はあまり雑に扱わないでちょうだい。その身体は私の大切なシリウスのモノになるのだから」
その子供というのはおそらく僕の事なのだろう。
身体がシリウスのモノになる?
シリウスとは誰のことなのだろう?
まったく状況が、わからず僕はただ混乱していた。
「……侯爵夫人、私を憎くお思いならば、どのようにしていただいても構いません……ですから、どうかどうか息子だけは……」
傷ついた母が赤い女に、必死な様子でそう訴えていた。
この赤い女を母は侯爵夫人と呼んだ。母はこの女を知っているのだろうか?
それに……母を憎く思うとはどういうことだろう。
母は僕にも優しかったが、近所の人にも、誰にだって優しくて皆に好かれていた。
そんな母が憎まれるなんて想像もできなかった。
しかし、赤い女の目はひどく冷たく母を見下ろしている。
「……なんと図々しい女なのかしら。私から夫を奪い、子供まで授かった女が、まだ望みを言うなどと」
「…………私は侯爵様の気まぐれで一時のお相手を申し使わされただけにすぎません。ですから、もう侯爵様に近づくつもりもございません。私はただ子供と共に静かに暮らしていきたいだけなのです」
『バシン』と渇いた音が薄暗い部屋の中に響いた。
必死に訴える母の頬を赤い女が打っていた。
『かあさん!!』僕をまた声にならない叫びをあげる。
「……父親であるディーク侯爵によく似た子を同じ時期に産んだのに……どうしてお前と私はこんなにも違う。……美しい容姿に、健康な身体。そして、健康で元気な子供……なぜ、お前ばかりがそんなに恵まれているの。…・・・私には何もない、美しくない容姿、病弱な身体、夫にも愛されず、やっとの思いで産んだ子供も同じように病弱で、しかもこのように不治の病に侵され、もう余命もいくばくもない……」
赤い女が母に掴みかかった。
「……お前だけ……お前たち親子だけが幸せに生きるなんて絶対に許さない!!……はじめなさい!」
赤い女のその一言で、真っ黒な服を着込んだ黒い男が、母の前に立った。
そして、まるで感情のない声で、聞いたことのない言葉を呟き始める。
それは、不思議な言葉だった。
まったく聞いたことのない異国の言葉の様でもあり、聞き覚えのある懐かしい言葉のようでもある。
しかし、黒い男のその言葉が続くうちに僕の全身に、鳥肌が立ち始めた。
空気がひどく淀んできているようで、気持ち悪くなる。
そして―――男の言葉が止まる。
すると薄暗かった部屋は完全に、闇に支配された。
目の前さえ見えない暗闇の中で、僕は母の悲鳴を聴いた。
真っ暗だった部屋に、次第に光が見え始めると、僕はすぐに母の姿を探した。
そして、僕からほんの二、三歩離れた場所にぐったりと横たわる母の姿を見つける。
縛られた身体で必死に母の方へと向かう。
近づくと、母の顔色にまるで生気はなく、息も今にも途切れそうな状態だった。
先ほどまでは怪我こそしていたが、こんなにぐったりしてはいなかった。
なぜ?どうしたのか?
『かあさん!かあさん!』と僕は布越しに必死に母を呼んだ。
そんな僕を、母の瞳が映した。
母は僕の瞳をしっかりと見つめると。
「―――どうか――」
今にも消え入りそうな声でそう言うと、静かに息絶えた。
「どう?成功したの?」
「はい。文献通り、無事に力を手に入れることに成功したようです」
赤い女の問いに黒い男が答える。
「そう。では早速、その力でシリウスの意識を、この子供の身体に移しなさい」
赤の女たちが何か、話しているのは聞こえていたが……頭には何も、入ってこなかった。
僕は今、ここで起こったことをまったく受け止められないでいた。
つい先ほどまで、母とともに夕食の話をしながら、家路に向かっていたのに……
気が付けば、なぜかこんな暗い部屋に連れてこられ……
そして……最愛の母は……もう息をしていなかった…・・・
「はい。では、始めます」
黒の男が隣に寝かされていた男の子の身体に触れながら、僕の頭に手をおいた。
その瞬間、僕の頭の中に、見たことのない映像が溢れてきた。それは音のついた不思議な映像。
知らない場所、知らない人々……それはまるで誰かが今まで体験してきた生活、そのものであるように感じた。
次々に入りこんでくる映像に、頭が割れるように痛くなる。
そして―――ようやくその映像が落ち着いた時……僕はすべてを知ることができた。
僕がなぜ、こんな所に連れてこられたのか、なぜ母はこんな暗い部屋の中で息絶えたのか……
僕の中に入ってきた映像が僕にすべてを教えてくれた。
この赤い女の企みを――
赤い女はディーク侯爵という貴族の夫人であり、僕の隣に横たわっているシリウスという名の少年の母親である。
しかし、夫人は侯爵の愛を得ることができなかった。
侯爵は女好きの遊び人で、結婚後も女遊びが落ち着くことはなかった。
侯爵は結婚後、義務的に夫人の元に通い、後継ぎであるシリウスができると、もう夫人の元に姿を見せなくなる。
そのためか、夫人はただ一人の我が子、シリウスに激しく依存した。
日々、自分の不幸を嘆いて、幼い息子にすがった。
しかし、そんな彼女の唯一の心の拠り所である息子が……不治の病に侵されてしまう。
金と権力を駆使し、沢山の医師を頼り、それでも駄目だとわかると今度は怪しげな魔法にも手を出したが……
息子の病気が治ることはなく、日々、衰弱していく。
息子を失う……そんな現実を彼女はとても受け入れることができなかった。
そんなある日、沢山の怪しげな魔法に手をだしていた彼女は、遂に闇の魔法の存在を知った。
心を操り、記憶をすり替えることができる魔法。
これを知った時、彼女は思いついたのだ。
息子の心を、健康な身体に移し替えれば、息子は助かるのではないかと。
それはあまりに突拍子もなく、とうてい実現できるとも思えない無謀な計画―――
しかし、もう何も息子を助ける方法がなくなった今……どうしても息子を失いたくない彼女はそんな無謀なモノにすら、すがりついた。
そして、彼女は闇の魔力を手に入れる方法と――息子の身体となる器を探した。
息子の器は健康で、そして、できるだけ息子と近い年齢の似た子供が必要だった。
あまりに違う身体では、ディーク侯爵家を継ぐことができないから。
そして、彼女は見つけだしたのだ。
自分の息子にとてもよく似た同じ年頃の子供――まるでシリウスの器となるために産まれてきたかのようなうってつけの子供を――
その子供はかつて、ディーク侯爵のお手付きとなったメイドの一人が産んだ子供だった。
かつて、侯爵家で働き、ディーク侯爵の寵愛を得た、美しいメイドは子を孕むと同時に屋敷から姿を消していた。
そのメイドだった女が、侯爵によく似た健康で元気な子供と共に幸せそうに暮らしていた。
夫人は――その子供を我が子シリウスの器にすることを決めた。
そして闇の魔力を手にする方法を知ることにも成功する。
闇の魔力は命と引き換えに得ることができる。つまり、闇の魔力を得るには生贄が必要だった。
夫人は器である子供の母親、あの幸せそうに暮らしている女を生贄にすることを決めた。
そして今日、遂に彼女はその計画を実行に移した。
器にする子供と、生贄とするその母親を捕え、配下である魔力を持つ者に女の命と引き換えに闇の魔力を手に入れさせ――
そして、息子シリウスの記憶をその子供に移させた。
夫人の計画通りならば、シリウスの記憶を移された器である僕は、僕でなくなり……シリウス・ディークとなるはずだったが……
しかし……シリウスの記憶――彼の今まで見てきたもの、聞いてきたものをすべて頭の中に入れられても……僕は僕のままだった。
頭の中には確かに、シリウスの記憶があった。しかしそれだけだった。
そこには記憶だけがあって――シリウスという少年はいなかった。
ただ、感じたのは『もう疲れた。はやく楽になりたい』という切ない気持ちだけ。
物心つく前から、母親にすがられ続け、病の淵に落ちてからもなお、ベッドの脇で泣き言を語られ続けた少年は……
ただ、楽になることだけを強く望んでいた。彼はその幼さにしてもう生きることに疲れていた。
入れられた記憶にシリウス自身の思いはまったくなかった。
そうして、僕はシリウスにはならず、彼の気持ちのない記憶、知識だけを得たのだ。
夫人の計画は失敗に終わったのだ。
……しかし、その事実が夫人に知れれば、僕はこの場で殺されてしまうだろうと、頭に入ったシリウスの記憶が告げる。
こんな所で死ねない……
それは今まで、感じたこともないほどの強い思い。
僕はまだ死ねない……だって母さんの最後の願いを叶えなければならないから……
気が付けば、口にきつくまかれていた布は外されていた。
僕は、感情を押し殺し、この世で一番憎く思う女を――
「……おかあさま……」
そう呼んだ。シリウス・ディークがいつも呼んでいたように。
すると夫人はその顔に満面の笑みを浮かべた。
「ああ、シリウス!あなたなのね!闇の魔法は成功したのね!」
そう言ってディーク侯爵夫人は僕を抱きしめた。
ひどい嫌悪感に身体が震えそうになるのを僕はじっと耐えた。
僕はまだ、ここで死ぬわけにはいかなかったから。
生きて、母の最期の望みを叶えるために。
「……では、奥様。私の役目は終わりましたので。もう、家族とともに故郷に帰らせていただいてもよろしいでしょうか?」
黒の男がオドオドした様子で、夫人に尋ねる。
「そうね、あなたはとてもよくやってくれたわ。あなたのお蔭で、私のシリウスはこうして健康な身体を手に入れることができたわ」
「……では、あの家族の元に帰していただいてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんよ。すぐに帰してあげるわ。お前たち」
夫人が部屋の隅に控えていた屈強な男達を呼び寄せる。
黒の男は安堵の表情を浮かべ、男たちに近づいていく。
すると―――男たちは持っていた剣で黒の男を貫いた。
「………なぜ……」
身体を貫かれ、血を流しながらも、男が夫人へと手を伸ばす。
「だから家族の元に帰してあげると言ったじゃない。あなたの家族はもうすでに死後の世界であなたを待っているのよ」
夫人がにこりと優雅にほほ笑んだ。
「……家族を無事に帰してほしければ働けと言われ……ここまでやってきたのに……俺を……だましていたのか……」
「仕方ないわ、禁忌とされる魔力を得てくれるような者がいなかったんですもの。でも、こうして事が無事に終わった以上、このまま闇の魔力を手にしたあなたを生かしておくのは、とても危険でしょう」
当たり前だと言うように微笑んでいる夫人を黒の男は、すさまじい形相で睨みつける。
「……おのれ、おのれ、………決して許しはしない……お前たちの地位も権力も奪いつくし……必ず地獄に落としてやる……」
男の伸ばした手がわずかに僕の足先に触れた。
「これから死にゆく人間が何を言っているの。お前たちとどめを」
そうして黒の男にさらに深く剣が付きたてられ……男は息絶えた。
また、時を同じくして本物のシリウス・ディークも冷たい床の上でその命を散らした。
そして、僕はシリウス・ディークとして生きることとなった。
シリウス・ディークとして生き、そして母の命を奪い、僕を道具にしたディーク家の人々に復讐することを誓った。
僕がその不思議な力に気が付いたのは、シリウス・ディークとして暮らし始めてしばらくの時がたってからだった。
人の心が読める、そしてそれを操ることができる。それは闇の魔力だった。
正直、なぜ僕にこの力が宿ったのかよくわからなかったが、それはとても使えるものだったのだ。僕はこの力を歓迎した。
そして、復讐のためにだけに生きて、時が流れ、僕は彼女に出会ってしまったのだ。
大好きだった母と同じことを言い、母とよく似た優しい笑顔を浮かべる少女、カタリナ・クラエス。
彼女に出会い、僕の心は大きくかき乱された。
だから、僕はカタリナを始末することにしたのだ。
闇の魔法で永遠の眠りに誘い、その命を奪うつもりだった。
……だが、決して解けないはずの呪いは解けてしまった。
マリアの様子を見に隠し部屋へきていた時、僕がかけた闇の魔法が解かれたことがわかった。
本来なら、焦らなければならない状況の中、僕はなぜか深く安堵した。
カタリナにかけた魔法は解けた、これで彼女は助かった。
よかったと、そう思ってしまった。
そして、カタリナが寝覚めたならば、僕のことが公になるだろう……そうすれば僕は捕まる。
『こんな所で捕まるわけにはいかない!復讐を果たすためには逃げなくては!』
もう一人の僕は強くそう主張したけれど……
僕はもうここで、捕まってすべてが終わってしまってもそれでいいと思えていた。
『母親の最後の言葉を忘れたのか』 もう一人の僕のその言葉に……少しだけ気持ちが揺れた。
『どうか仇をとって……』母の最期の言葉――僕はずっと母のその最期の願いを叶えるためだけに生きてきたのだ。
だけど……もう、僕は疲れてしまった。
もう、誰も傷つけたくなかった。
僕のことが役人に知れれば、ディーク家が隠しているこの部屋も暴かれるだろう。
はじめは息子を生かすための怪しげな魔法研究のため、その後は闇の魔力の研究のため、木を隠すなら森の中がよいとあえて魔法学園内に作られたこの隠し部屋。
母が命を奪われ、僕が人生を奪われた場所。
ここで、すべてが終わるのは……もしかしたら運命なのかもしれない。
だから、僕はこの隠し部屋の中でただ、じっと待ち続けた。
僕の破滅がやってくるのを―――
僕が想像していたよりずっと早くにその時は訪れた。
マリアを閉じ込めていた部屋に何者かが入り込んだ気配を感じた。
僕のいる部屋より地上に近いその部屋は、地下に降りる通路と厚いドアに阻まれているため、部屋の様子をしっかり把握することはできないが、それでも人が入ってきた気配ぐらいはわかった。
遂に、マリアを救出し、僕を捕えるための役人がやってきたのだ。
もう一人の僕は『まだ、逃げられる!全員に闇の魔法を使え!』と喚き続けていたが……
僕は、ただ終わりの時を静かに待った。
そして、階下に降りてくる足音がして、僕のいる部屋の扉が開いた。
おそらく武器を携えた役人が立っていると思っていた僕は、扉から現れた人物を認識した途端、おもわず固まってしまった。
ジオルド・スティアート、キース・クラエスなど生徒会メンバーが現れるかもしれないことは、ある程度予測していた。
彼女を心酔する彼らが、彼女の命を奪おうとした僕を、自分の手で捕えてやりたいと思うのは自然なことだ。
しかし……僕は目の前に立った人物を凝視する。
なぜ、この人物がここにいるのか、わからなかった。
向かい合って暴言をあびせられ、魔法でその命を奪われそうになったというのに……
なぜ、彼女はまた僕の前に現れたのか……
「……どうしてここにお前がいる」
僕の問いに彼女はあっけらかんと答える。
「眠り続ける魔法が解けたので」
まるで以前と変わらぬ態度で、カタリナ・クラエスが僕の目の前にいた。
まさか中庭であったこと、自分がされたことを忘れてしまっているのか……
「そうじゃない!魔法が解けたのはわかっている!……あのような目にあって、なぜまたのこのこと僕の前に姿を現したのだということだ!」
「ああ、そういう意味ね。別に、それほどひどいことされたようには思えないので」
あいかわらず、何でもないようにカタリナは言う。
殺されかけたと言うのに、彼女はどういうつもりなのか。
かなり楽天的なアホなのか、それとも本当に聖女のように広い心を持っているのか。
それとも単純に――
「……お前、自分のされたことを理解していないのか?」
そう尋ねるとカタリナは――
「いえ、ちゃんとわかっていますよ。闇の魔法で眠らされたんでしょう?」
当たり前のようにそう答えた。
「その通りだ!それで僕はお前の命を奪うつもりだったんだ」
いまいち理解しているとは言い難いカタリナに僕は、はっきりそう言ったが……
「う~ん。それは嘘ですね」
「……嘘だと……」
「だって、本当に命を奪おうと思ったなら、ただ眠らせるよりその場で殺してしまう方がずっと楽なはずだもの」
「………」
変わらずに当たり前だという風に言い切るカタリナに……僕は言葉を失った。
……確かにカタリナの言うとおりだ。
あの時、わざわざ闇の魔法で眠らせるよりも、あの場で殺してしまった方がずっと簡単なことだった。
でも……僕はそうしなかった……
いや、できなかったのだ。
僕は、本当は―――
「私が、ここにきたのはもう一度、会長とちゃんと話がしたかったからです」
「……はなし……」
一体、この少女は何を言っているんだ……
「そうです。あの時の会長……すごく苦しそうな顔で……泣いていたから………だから、もう一度、ちゃんと話を聴かせて欲しかったの……」
水色の瞳が真っ直ぐに僕を見つめていた。
胸が苦しくなり、呼吸がうまくできない。心がひどく乱れた。
「……この偽善者が……それで、他の奴らのように僕のことも救ってくれるとでもいうのか?聖女カタリナ・クラエス様」
気がつけば、思わずそんな風に吐き出していた。
僕のことなんて、何もしらないくせに……裕福な公爵家で幸せに育った女に何がわかるというのだ。
ここで、カタリナ・クラエスが『救ってあげる』とでも言ったなら……僕はきっと恵まれて大切に育てられたご令嬢の思い上がりを軽蔑しただろう。
しかし……カタリナはそんな僕の思考とは正反対なことを言い切った。
「それは無理だわ!」
カタリナはまっすぐに僕を見ていた。
「だって私は主人公じゃないもの。私は、ただのライバル役の悪役令嬢なんだから、人を救うなんて出来るわけないわ!」
主人公?ライバル?正直、意味の分からない言葉を並べられたことにも面食らったが……
まさかこんなにはっきり『無理だ』と言いきるなんて……
カタリナ・クラエスの考えていることがまったくわからない。
僕は茫然と目の前に立つ少女を見つめる。
すると――
「……救ってあげることはできないけど……でも、傍にいることはできるから」
カタリナは優しく微笑んでそう言った。
「傍にいて、悲しい時、辛い時には話を聞いて、元気がでるまで一緒にいるわ」
それは、かつて母が言ってくれた言葉と同じものだった。
心配をかけまいと隠れて泣いていた僕を、母はそう言って抱きしめてくれたのだ。
カタリナの言葉で、そのことを思い出した時、僕の頭の中で何かがはじけた。
頭の中にかかっていた靄が晴れていくような感覚。
本当は、ずっと疑問を感じていたのだ。
『どうか仇をとって』という母の最期の言葉……優しくて、いつも自分のことより僕のことばかり心配していたあの母が、本当にこんな言葉を残したのだろうかと。
そして、今はっきりと思い出した。
母はそんな言葉を残していなかったことを――
そうだ。なぜ、こんな風に思い違いをしていたのだろう。
母の本当の言葉は――
「……どうか…生きて、生き残って、幸せになって……愛しているわ……」
そう、母は仇をうつことなんて、望んでいなかった。
母は最期に僕が生きて幸せになることを願ったのだ。
だから、僕は何としても生き残らなければならないと思ったのだ。
気が付けば、カタリナがすぐ近くまできていた。
「だから、一人で泣かないで」
カタリナが優しい笑顔で僕に手を差し出す。
なぜか、視界はひどく歪んでいた。頬が濡れている。
「一緒にいきましょう―――ラファエル」
ラファエル、それは僕の本当の名前だった。
母が名づけてくれた大切な大切な名前。
僕は差し出された手に向かって手を伸ばす……すると……
『おい、何をしている。こんな奴のいうことなんて聞くな!むしろ、油断して近くまできているんだ。このまま、こいつを人質にして逃げれば、まだ逃げ切れる!』頭の中のもう一人の僕が僕を怒鳴りつけた。
僕は、そんなもう一人の僕にかえした。
『そんなことはしたくない。僕はもう復讐なんてしない!』
『……な、なにを』
怯んだ様子のもう一人の僕に、僕は問う。
『それから、お前は誰だ?』と。
復讐ばかりを唱えるもう一人の僕、その意見に従いこれまでやってきた。
母の最期の言葉をことさらに持ち出していたのもこいつだ。
しかし……こいつの口から語られる母の言葉は偽りだった。
こいつは僕を騙して唆していた。
大好きだった母の最期の言葉を捻じ曲げてまで復讐を叫んだ、もう一人の僕。
僕はようやく気が付いた。こいつは僕ではないと。
そう確信すると、ずっと自分だと思っていた姿の、本当の姿が見えてきた。
もう一人の僕……僕だと思っていた……その人物は―――
真っ黒な服を着た男……あの日、母に死をもたらしたあの黒の男だった……
『……気づいたか……』
黒の男が皮肉な笑みを浮かべる。
『……ずっと、僕のふりをして僕をいいように操っていたんだな』
あの日、この男は死の瞬間に僕に触れた。
その時に、僕に闇の魔力と、そして自分の意識を僕の中に入れ、操っていたのだろう。
そして、母の最期の言葉の記憶も捻じ曲げていた。
『お前の望みを叶えるために手をかしてやっていただけだろう』
黒の男が憎々しげに言う。
『……確かに、僕もあいつらをひどく憎んだ。……でも、僕が生き残ったのは復讐のためなんかじゃない!僕は幸せになるために生き残ったんだ!』
そう、母の最期の願い――幸せになるために僕は生き残ったんだ。
……だから、もうこの男の存在を消さなければならない。
闇の魔法はかけたものにしか解けないという常識は、目の前の少女が覆してくれた。
「大丈夫」
カタリナの暖かい手が、僕の手を包み込んでくれていた。
僕は黒の男を見据えて、強く願った『もう復讐は終わりだ。お前の存在はいらない』と。
『くそ……軟弱なお前をここまで導いてやったのは誰だと思っているのだ……この裏切り者が……』
そう吐き捨てながら……黒の男の姿は消えた。
顔をあげるとカタリナが優しい笑みを浮かべて僕を見ていた。




