7.転院と別れ
ルノワール孤児院へ向かう話は、グレイスの決意を院長に伝えた翌週には形としてすぐに動き出した。
形式上は半年だけの手伝い。
しかしそれは、グレイスが学園へ向かうための準備であり、アレクの痕跡から自分を切り離すための、静かな偽装でもあった。
「半年だけ、だよね……?」
「けど王立学園受けるんだよね?」
「それってうかったら、またなんねんも、あえないってこと……?」
出発の前日、エルミナ孤児院の食堂には、子どもたちの不安げな顔が並んでいた。
その場にアレクはいない。
グレイスはかがみ込み、一人ひとりと視線を合わせる。
「うん。だけど半年経って、試験を受けたら一度戻ってはくるよ。ちゃんと皆の顔も見に来るから」
「でも……ぐすっ、グレイス姉、っ、とおくにいっちゃうんだよね」
「アレク兄みたいに、倒れたりしないよな……?」
その言葉に周りの子どもたちが息を呑む。
グレイスは微笑みながら首を振り、両手で子どもたちの頭を優しく包んだ。
「大丈夫だから、心配しないで。……私、皆に誇ってもらえるようなグレイスになって帰ってくるから」
子どもたちは唇を噛みしめ――しかし次第に誇らしげな表情へ変わっていった。
「うん、分かった! じゃあ僕らはグレイス姉を応援しなきゃ!」
「そうだぞ、そうと決まったらちび共、もう泣くな! 笑顔でグレイス姉を見送らないとな!」
「そうだよね……わたしもうなかない! グレイスお姉ちゃん、ぜったい、とくたいせいっていうのになってよ!」
「戻ってきたら、すっごいご馳走作ってあげる!」
「ぼくもね、姉ちゃんがうかるようにって、まいにちかみさまに、いっしょうけんめいおいのりするから!」
その声が嬉しくて、胸が痛むほどに愛しくて。
グレイスは涙の滲む笑顔で、一人ひとりを抱きしめた。
◆
アレクが目を覚ましたと聞いて、その日の夕方、グレイスは彼の部屋を訪れる。
ここに来たばかりの頃は、体を横にする時間がほとんどだったが、今では起き上がれる時間も少しずつ増えてきている。
とはいえ、完全回復には程遠いアレクを残していくことに不安はあった。
だが、
「あのね、アレク兄さん、子どもたちのお世話係が足りないみたいで、半年だけルノワール孤児院に手伝いに行こうと思うの。アレク兄さんがみんなにしてくれたみたいに、私も誰かの力になりたいんだ。それに、王立学園も受けようって思ってて。……私もアレク兄さんみたいに頑張ってみたいって思ったから」
グレイスがそう言うと、アレクは笑った顔を作ろうとわずかに頬を動かし、グレイスの頭をそっと撫でてくれた。
「グレイスは優しいね。……うん、行っておいで。僕のことは気にしなくても大丈夫だから。だけど手伝いも勉強も、無理だけはしないように」
その声音が昔と同じ優しさを帯びていて、グレイスは思わず泣きそうになったが、すぐに笑顔になると大きく頷いて見せた。
◆
「あなたの話は聞いているわ。お手伝いもお願いすることになるけど、勉強をするための時間も少しは取れると思うから。部屋は一番上の一人部屋を使ってちょうだい」
「はい、ありがとうございます!」
ルノワール院長の言葉に、グレイスはペコリと頭を下げる。
ルノワール孤児院は噂に聞いていた通り、人手不足で、日々の仕事もぎりぎりで回している状態だった。
だがグレイスは、状況を見て素早く動いた。
「まずはここを整理しましょう! 記録のまとめは私がしますから、皆さんは子どもたちの食事をお願いできますか?」
的確な指示を出し、効率化し、迷う職員を導き、必要な場所に必要な人を配置していく。
そのやり方はアレクから学んだものと、前世の知識を混ぜ合わせたものだ。
気づけば孤児院は見違えるほど回り始め、グレイスは夜、ゆっくり机に向かって勉強をする余裕さえ生まれた。
加えて会いたかった人物の元へ向かい、復讐に必要な鍵となる情報も手に入れる。
そして半年後――。
学園の特待生試験に合格した知らせを受け取ったのは、アレクが手紙を握って帰ってきたあの日のように、風の強い午後だった。
「……受かったんだ」
グレイスが独り呟く声は、喜びと決意で揺れていた。
◆
グレイスは約束通り、一度エルミナ孤児院へ戻った。
子どもたちがすぐに出迎えてくれたが、その中にはアレクの姿もあった。
まだふらつくのか、アレクは彼よりも幼い男の子に手を引かれてやってきた。
グレイスがここを旅立った時と比べると、痩せた肩も落ちた頬も、随分とマシになっていた。
回復にはまだ時間はかかりそうだが、それでもグレイスに優しく笑いかける彼の姿に、昔の面影が見えた。
戻ってきたグレイスを、歓迎の声と、寂しさと、誇りと、不安が入り混じる複雑な空気が包み込む。
「さんねんもあえないんだね……」
「寂しいけど、でも……グレイス姉が特待生なんて、すごいよ!」
「アレク兄さんも、そう思うよね!?」
子どもたちの声に、アレクは目を細めて微笑む。
「勿論。グレイスは僕らの誇りだよ」
――本当はアレクこそが、誇りだったはずなのに。
そんな言葉を飲み込み、アレクの台詞に恥じないよう、グレイスは力強い笑顔を浮かべ、宣言した。
「帰ってくるよ。絶対に。皆に胸を張ってまたここに立てるように、頑張るから」
その言葉に、子どもたちは泣き笑いの顔で彼女を抱きしめた。
◆
その夜。
荷物をまとめ終えたばかりのグレイスの部屋に、静かにノックの音が響いた。
「……入っていいかな?」
「うん、どうぞ」
ドアが開き、アレクが入ってくる。
「……本当に行くんだね」
「うん」
グレイスは素直に頷いた。
アレクはその言葉に、安心するような、寂しいような、複雑な表情をする。
「あまり気を張らずに楽しんでおいで。あの場所は……僕みたいな不器用で弱い人間には、向いてなかったけど」
卑下でも悲観でもなく、事実として自分を弱いと受け入れてしまっている声音に、グレイスの胸がぎゅっと締めつけられた。
「アレク兄さんは、不器用でも弱くもないよ」
「ははっ。……優しいね、グレイスは」
虚ろな笑みで、アレクは続ける。
「僕は……力不足だった。王都も、学園も、ルキア様たちも悪くない。全部、僕が未熟だっただけだ」
その言葉が、グレイスの心の奥の黒い泥を、さらに深く濃く染めていく。
――どうして、そんなに優しいの。
――どうして、自分を責めるの。
――どうして、あの三人を庇うの。
「でもね、グレイス」
アレクは少し身を寄せ、真剣な声で言った。
「グレイスは違う。僕よりずっと上手くやれる。だそれでも……怖い時や辛い時は、ちゃんと言ってね。嫌なら、逃げて帰ってきてもいい。グレイスには……いつだって帰ってくる場所があるんだから」
その眼差しには、兄が妹を気遣うような優しさと、同時に淡い恋情の色も帯びていた。
それが、グレイスには痛いほど分かってしまう。
「アレク兄さん……」
胸がじんと熱くなりながらも、グレイスはゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう。でも私は大丈夫」
「だね。……大丈夫じゃなかったのは僕の方だったか」
アレクは苦笑する。
「ただ、グレイスには、僕みたいになってほしくないから」
その言葉が、決定的だった。
グレイスは目を伏せ、トランクの留め金をぱちんと閉める。
「アレク兄さん」
顔を上げると、グレイスは真っ直ぐアレクの瞳を見つめた。
「私、アレク兄さんのこと、置いていくんじゃないからね」
「え……?」
「一緒に連れて行くから」
アレクの表情に困惑が走る。
「……どういう、意味?」
グレイスは静かに笑った。
温かく、優しく、妹らしく、そしてアレクのことを異性として慕う笑顔。
だがその奥にある感情は、まったく別物だった。
「大丈夫。私は兄さんのこと、ちゃんと知ってる。だから、きっと取り返すから」
「取り返す……?」
「うん。――アレク兄さんの全部を」
アレクはその意味を理解できず、ただ目を見開いていた。
けれどグレイスはそれ以上は何も言わず、アレクにそっと微笑みかけただけだった。




