66.セヴラン編:『正しさの喪失』 その1
卒業パーティー三日前の放課後。
学園の喧噪が遠くに薄まっていく時間帯、グレイスは生徒会室に入る。
窓際のカーテンは半分だけ開いていて、沈みかけた陽が斜めに差し込んでいる。
その光の中に、セヴランが立っている。
いつもと同じ、整った制服。
乱れひとつない身なり。
ただ一つだけ違うのは――胸元に挿された、一輪の紫のアイリスだった。
アイリス。
理性。知恵。誇り。
そんな花言葉を、グレイスは知っている。
まるでセヴランそのもののような花。
そして同時に、彼がグレイスに求めている役割そのもの。
「何のお話でしょうか、セヴラン様」
グレイスが静かに問いかけると、セヴランはゆっくりとこちらを振り向いた。
灰色の瞳が、まっすぐにグレイスを捉える。
以前より、わずかに温度を帯びた、けれどまだ硬質な光。
「……来てくれて、ありがとう」
らしくない前置きの後、彼は迷いのない足取りでグレイスの前まで歩み寄る。
セヴランは部屋を見渡しながら言った。
「君とはこの部屋で過ごす時間が多かったが。もうその時間も終わりだと思うと……この気持ちは、なんと表現すべきか」
「不快、ですか?」
グレイスの質問に、セヴランは考えるように目を細めたが、すぐに首を横に振る。
「いや違うな。胸が……少し、締め付けられる。心が、空虚になるとでも言うのか」
「それは寂しいという感情なのでは?」
グレイスの言葉に、セヴランはハッと息を呑む。
彼は腑に落ちたと言わんばかりに頷く。
「そうか、これが寂しい、という感情なのか」
「初めてですか? その感情を抱くのは」
「……ああ、そうだ」
そう言うと、セヴランはかすかに笑った。
「君といると、君に対してだけは、不要だと捨てたはずの感情が湧き上がる」
「嫌ではないのですか?」
「ああ、むしろ、心地良いくらいだ」
この部屋で、感情の話をした日のことが、グレイスの胸にふと蘇る。
感情を知りたいと言った彼に、グレイスは「一緒に確かめていきましょう」と言った。
――あの瞬間から、彼の中に感情というものが、本格的に息をし始めた。
しかし、セヴランに心を教えたのは、決して甘やかすためではない。
セヴラン自身の手で、自分の間違いの痛みを理解してもらうため。
感情も心もないままのセヴランは、アレクを壊した罪を感じない。
壊したら 次を探すだけ。
相手がグレイスに変わったところで、それは変わらない。
罪悪感どころか 苦しみもしない。
無感情なままでは、そもそも壊せる心がないのだ。
だからこそ、グレイスは壊すために、彼に感情を教えた――。
胸の奥でひそやかに浮かぶ本音を押し隠し、グレイスはいつもの穏やかな微笑みを浮かべる。
セヴランはその顔を見て笑みを深めたものの、すぐに顔を戻す。
セヴランは一度短く息を吐くと、言葉を選ぶように、唇をゆっくりと動かした。
「返事は急がない、とは言ったが、卒業前に君の意思を確認したい。私が君に告げた、あの日の答えを」
ゲームであれば心が躍る場面。
けれど現実のグレイスは、ああ、と胸のどこかが冷たくなる。
セヴランは胸元のアイリスにそっと触れると、それを丁寧に抜き取り、指先で茎を整えながら口を開いた。
「感情というものは、私にとって長らくノイズでしかなかった。合理的判断を乱す、不確定要素だと。それは今でも変わらない」
彼の声には、いつものような冷たさに、微かな揺らぎが混ざっていた。
「だが、君と共に検証した結果、感情はどれだけ数値化しても扱い切れないと理解しても……。君に対して感じるその不確定要素だけは、私にとっては不要でないことが分かった。むしろ私の心を幸福へと導くものだと」
セヴランは視線を逸らさない。
グレイスの薄紫の瞳を、真っ直ぐに見つめたまま続ける。
「同時に、君の存在は、私をより正しい選択へ導いてくれる。君が傍にいれば迷わない。判断が乱れない。これほどまでに私の正しさを完璧に理解し、認め、補完してくれたのは、君が初めてだ」
――恋の告白としては、どこまでもセヴランらしい。
甘い言葉はない。
ただ、グレイスがいれば自分は正しくいられるという事実だけ。
それが彼にとっての愛なのだろう。
そこまで言ったところで、セヴランはアイリスをそっと持ち上げた。
「君がいれば私は正しい選択に近付ける。そして君がいれば、私は幸福を知ることができる。理性でも、感情でも、私は君を必要としている」
紫の花弁が、夕陽を受けて深く光る。
「だから、君に頼みたい」
セヴランの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「これから先、宰相として――あるいは、その先にどんな立場が待っていようと。私は無数の決断を強いられる。君の信頼に応えるために、私は常に正解を選び続ける。君がいれば私は安心して前に進める。だから――」
紫のアイリスが、グレイスの前に差し出される。
「これを君に。私の理性と誇りを、君の隣に置かせてほしい。グレイス――私の未来の秤に、そして、私が幸福でいられる唯一の場所になってくれないか」
真剣な声音。
そこに嘘は一つもない。
彼は本気で、グレイスという存在を必要としている。
己の正当性を保証する、理性の象徴として。
己の幸福を保証する、感情の象徴として。
胸の奥で、グレイスは静かに笑う。
所詮グレイスは、彼にとって都合のいい秤。
壊れないことを前提とした、高精度の道具にすぎない。
彼は感情を覚え、人間に近づいた。
けれど――核心だけは変わらない。
アレクは生産性で測られ、グレイスは正しさの精度で測られている。
評価軸が違うだけで、扱いは同じだ。
だから――ここまで育てた感情ごと、彼を折る。
薄く笑みを浮かべたまま、グレイスはそっと視線を落とした。
差し出された紫のアイリスが、揺れる。
その揺らぎは、花のせいか。
それとも、セヴランの指先の微かな震えか。
グレイスは静かに花を受け取った。
その指先は、ひどく穏やかに見えたかもしれない。
「……ありがとうございます。セヴラン様」
薄紫の瞳は、柔らかに微笑む。
この一瞬だけが、ゲームと現実が重なっている時間。
だがその奥底にある色は、氷のままだ。
――まずは肯定。
――そして、破壊する。
その重なりは、これから完全に断ち切られる。
グレイスはゲームとは違う言葉を述べた。
「……一つ、質問をしてもよろしいですか?」
「質問?」
「セヴラン様が以前おっしゃった、生徒会で壊れた方のことです。もしその原因がセヴラン様にあるのだとしたら、あなたはその可能性を考えますか?」
灰色の瞳がわずかに揺れる。
「……彼は、弱かっただけだ。適切な業務量をこなせなかった。あれは例外だった」
「間違いはなかったと言えますか?」
「ああ。私は間違えてはいない。私の見解だと彼はあんなに早く折れる存在ではなかった。……もしも原因があるとすれば、私以外の人間が、私の計算を崩すほどに彼に負荷をかけたことだろう」
「つまりセヴラン様には非はないと」
セヴランは迷いない瞳で答えた。
「彼に与えた負荷と、彼の処理速度。双方の比較から見ても、私の判断は最適だったはずだ」
――アレクは道具ではない。人間なのだ。
それでもセヴランの目にはそうは映らない。
セヴランはこのままいけば、生涯壊した自覚もなく、アレクのことなど、思い出すことすらなくなるのだろう。
怒り、悔しさ、悲しみ……様々な感情が一瞬でグレイスの中を駆け巡り、けれどグレイスはそれらを全て腹の底に沈めた。
ここで感情のまま問い詰めたところで、アレクに何も抱いていないセヴランには何一つ響かない。
そんな彼を壊す方法を、グレイスは知っている。
そのためにグレイスはセヴランの好む正しい物差しとしてのグレイスを演じ、彼に執着させたのだ。
そう、セヴランにとってグレイスは、アレクをはじめとした他の道具とは違う。
同じ道具でも、替えのきかない、絶対無二の存在。
グレイスは花を胸の前にそっと掲げたまま、問いを落とす。
「セヴラン様。お尋ねします」
セヴランの呼吸が僅かに揺れる。
「私が、その生徒が『あなたによって壊された』と結論づけたとしたら……それを受け入れてくださいますか?」
セヴランの眉が寄る。
否定の言葉は浮かぶが、彼が選んだ物差しが今、そう言っているのだ。
「……判断材料が不足している。彼は弱かった。任務に耐えられなかっただけだ」
セヴランはわけがわからないという顔でグレイスに尋ねる。
「……グレイス、なぜ今その話をするんだ。私の気持ちに応えることと、そのことに何の関係が」
グレイスは、その質問はもっともだと言わんばかりに頷く。
「以前にセヴラン様に言われたことを、私はずっと考えておりました。……そして私も、セヴラン様を支える存在になりたいと、そう思っておりました」
「そうか」
「はい、ですが」
グレイスは言葉を切ると、戸惑いを見せるセヴランの瞳をまっすぐに見つめる。
「私はセヴラン様のことを、常に正解を選び取ることのできる方だと考えています。しかしそれは私のあくまで主観です。セヴラン様が正しいと――私が傍にいるのに適したお方なのか、感情としてではなく数値として実証したいと考えました」
「それで君はあの生徒のことを調べたと」
「はい。セヴラン様の言葉では、生徒が壊れたのは彼が弱かったからと。しかしそれがセヴラン様の主観である可能性がありました。ですので、あの生徒について、私なりに独自に調べた次第です」
「……」
グレイスの言葉は、非常に理にかなっているはずだ。
そう言われれば、セヴランが次に言う言葉は決まっている。
「では、君の見解を聞かせてくれ」
グレイスは何の表情も浮かばない顔で、鞄から何冊かのノートを出す。
これこそがセヴランを破壊するため、グレイスが探し、かき集め、手に入れた証拠の数々だった。




