63.ルキア編:『光に伸びる影』 その1
花火を見たあの夜ぶりに、二人で訪れた屋上。
夕陽に染まり始めたそこは、まるで舞台のように整った美しさを帯びていた。
まさに、ゲームでのルキアの最後の場面にふさわしい場所――同時に、光が転落するのに最適な場所。
風が静かに髪を揺らし、鉄柵が淡く光を返す。
中央に立つルキアが優雅に振り返ると、髪が光を溶かしたように輝く。
その姿は、乙女の憧れる物語の王子そのものだった。
「ねえ、グレイス。あの時の返事を聞かせてくれるかな」
ルキアはそう言うと、白く清廉なバラを差し出す。
学園の温室で育てられた特別な、ゲームの告白アイテム。
冬なのに咲いた、一輪の純白――それはルキアが思う、グレイスの姿そのものだ。
拒絶すら許さないほどの、完璧な純白。
バラの香りが、強く甘く、グレイスの鼻先をくすぐる。
グレイスは、ヒロインと同じく、息を吞む仕草をしてみせる。
そして胸元で両手を重ね、戸惑いながらバラに視線を落とす。
「……これを私に、ですか?」
「君にだよ。誰よりも君に」
彼の声は、王宮の演奏会で奏でられる弦楽器のように柔らかく、それでいてどこか逃げ道を塞ぐ圧がある。
その声のまま、ルキアは美しく言葉を紡ぐ。
「僕は君の光でいたいし、君にも僕の光でいてほしい。未来には王妃という肩書を背負うことになるだろう。だけど前にも君には言ったように、それはただの形にすぎない。君には僕の理想を、僕の未来を、これから美しく照らしてほしい。僕が正しく理想を追求するために、君が必要だ。――君を、愛しているから」
そしてルキアは、金の瞳を細め、絶対的な王太子としての笑顔で微笑んだ。
しかしグレイスは彼の愛の告白の真の意味を知っている。
ルキアはこう言っているのだ。
『僕を輝かせるために、君は一生側にいなければならない。そして人生全てを賭けて、生涯壊れない僕だけの光であれ。輝きを曇らせることは許さない。逃げることも許さない。その代わり愛という名の甘美な拘束を、君が光であり続ける限りは与えよう』
つまり、白いバラを受け取ることは、牢獄に入る鍵を自ら掴むことを意味する。
ルキアの顔には浮かぶのは、揺るぎない権力と、盲目の信仰を孕んだ甘さ。
ルキアは完璧な王子の微笑の裏で確信していることだろう。
グレイスが断るはずがないと。
だからこそ――崩れる準備など、まるでしていない。
ここで、グレイスはようやく息を吸った。
彼に気づかれぬよう、僅かに笑みを深める。
「ルキア様……そのお気持ち、とても嬉しく思います」
乙女ゲームであれば、受け入れるという選択肢を選びそうな声色で、まずはグレイスはルキアルートのヒロインらしく、そう言って微かに頬を染める。
【光の学園と救済の乙女】では、最後の告白イベント内で選択肢は存在しない。
ここに来るまでにバッドエンドへの分岐は全て潰しているからこそ、このイベントが起こる。
今の時点でルキアとのハッピーエンドは確定している。
だからこそ、これからがゲームとは全く違った展開になる。
後戻りできない現実。
それでも、後悔はない。
グレイスが口にするのは、ゲームには用意されなかった、復讐者としての答え。
「ですが――すみません、ルキア様」
まるで、告白に震える乙女の声で。
グレイスは戸惑うそぶりを見せながらも、はっきりと言葉にした。
「私、ルキア様の理想を支え続ける存在には……なれません」
たったそれだけで、確かにそこにある世界がひずんだ。
ルキアの呼吸が止まる。
「……今、なんと、言ったのかな?」
ルキアの微笑む唇がわずかに硬直し、瞳の光が揺らいだ。
理解していない。
理解できない。
拒絶という現象自体が、彼の人生に存在したことがないのだろう。
なぜなら彼は生まれながらにして絶対的な強者。
美貌にも才能にも恵まれた王子。
しかしグレイスは、その姿を目にしながらも、ほのかに赤く耳を染めるような仕草で、ゆっくり言葉を紡いだ。
「ルキア様にとって、私は光だと……あなたはいつもそう言ってくれました」
甘やかされて戸惑う、純情な少女の演技。
その姿勢を崩さず、薄紫の瞳を揺らしてグレイスは弱々しく微笑む。
「ですが、私では、ルキア様の未来を輝かせ続けることなんて……できません。臣下としては、もう少し時間を頂ければ照らす光にはなれると……なりたいと思っています。けれど王妃として、なんて、私なんかでは荷が重すぎます。きっと、ルキア様にご迷惑をおかけしてしまうんじゃないかって……」
涙ぐむような声で、純真な自己卑下の台詞をこぼす。
どこまでも、ルキアの理想の清らかな光のまま。
ここでルキアは、ようやく息を吸った。
「……君は、誤解している。荷が重いとか、不安を感じているのなら、それは心配いらないよ。君は僕が選んだ光だ。誰にも文句を言わせないし、君の成果を知れば誰も文句は言わない。だから、胸を張っていいんだよ。僕が信じている未来で、君は僕の側にいるべきなんだ。それが僕達の理想の幸せの形だ」
権力者ならではなのか。
声は甘いのに、彼の言葉はどこか傲慢に聞こえる。
それがグレイスの幸せになるのだと、信じて疑わない。
ここでグレイスはふっと表情を陰らせる。
「ですが私、気付いてしまったことがあるんです」
「何かな。君の不安が拭えるのなら、いくらでも話を聞くよ」
「ではお尋ねします。ルキア様は私を愛していると言いました。けれど、あなたが見ているのは私という人間ではなく――」
一拍置いて。
「ルキア様自身の正しさを証明するための道具としての光、なのではありませんか?」
夕陽の光が、彼の横顔を切り裂くように照らす。
金の瞳が揺れ、瞬きすら忘れる。
「ルキア様は、いつも正しさを示そうとしていました。学園のことも、人のことも、私を導く時も……まるで、全てをあなたの理想へ近づかせようとするように」
ルキアは息を吸ったが、言葉が出なかった。
それは怒りではなく、理解出来ないことへの戸惑いのようで。
きっとグレイスの言葉は、彼の世界にこれまで存在すらしたことのなかった反論だったことだろう。
唇を薄く開き、ルキアは固まる。
「初めは、ルキア様は私達民のために理想の世界を作ろうとしてくれていると思っていました。けれど一緒にいるうちに、あなたは理想の世界を作るために皆を利用しているんじゃないかって思えてきて」
「グ、レイス……?」
「そして私がルキア様の光であればあるほど、あなたの正しさが証明されていく……。ルキア様にとって、所詮私は自分の理想を手に入れるための、光という名前の道具でしかないんじゃないかって」
その瞬間、ルキアの視線が僅かに揺れた。
「それ、は……違う……」
否定しようとした声には、初めて焦りが混じった。
「違うよ……グレイス、そんな見方はしないでいい。僕は君を導こうとしただけだ。皆が僕を求め、僕は応えるべき立場にある。君は……その中で最も光っていたから選んだだけで、君を理想を作るための道具として見てるつもりは――」
「あなたは気付けていないんです! 私は……ルキア様の理想を叶えるためだけの存在じゃありません!」
グレイスは、震えるような声で遮った。
拒絶ではなく、傷ついたような自己防衛に聞こえるように。
ここまできてまだ、グレイスはヒロインとしての姿を崩してはいない。
だからこそ、ルキアは何も言うことができない。
「私は、本当の私を……あなたに認めてもらいたかった……ただ、それだけです。それなのに……」
その台詞だけで、ルキアは息を止めた。
「グレイス……」
グレイスは指先をきつく握りしめる。
そして、彼女は言った。
「それでも、そうだとしても、きっとルキア様の光であることを望まれるのは、嬉しいことだったんです、『彼にとっては』」
「……彼? それはその……誰のことなんだい? 君は一体何を言って……」
しかしグレイスは答えず、わずかにヒロインの顔の表情を崩し、じっと彼を見る。
その瞬間、ルキアの金の瞳が、まるで得体のしれないものと対峙したかのように、訝し気にグレイスを見返す。
彼女はそれを気にする様子もなく、夕闇よりも深い闇を纏った色の瞳のままルキアに尋ねる。
「……ルキア様。覚えていますよね? この学園にいた、かつてあなたが求めた理想に応えられず、消えてしまった光を」
「あ、ああ。覚えて、いるとも。だが彼は――」
「あなたの期待に応えらえないほどに弱かったから。そう言いたいんですよね」
「そうだよ」
迷いなく言い切った言葉。
分かっていたことなのに、グレイスの胸が切り裂かれるように痛む。
それでもグレイスは淡々と語り続ける。
「彼は努力しました。全てを捧げて、あなたの期待に応えようと。なのにあなたは限界を超えていると知って尚、己の信じた光はこの程度では潰えないと、負荷をかけ続け――あなたが壊した」
「ち、がう、僕は」
「もう一度聞きます。彼が壊れたのは、彼が弱かったから。ルキア様は何も悪くない。……本当にそうですか?」
「も、もちろん、僕は壊してなんか――」
わずかに震えた声でルキアが否定しようとしたその時。
ここでグレイスは、全ての擬態をゆっくりと解き、微笑んだ。
それは、ゲーム通り演じてきた優しいヒロインの笑顔でも、孤児院に置いてきた本来の明るいグレイスでも、大事な人を傷つけられ涙に濡れた少女の顔でもなく。
――そこにいたのは、ただの冷酷な復讐者、グレイスだった。
恐怖からか、戸惑いからか、息を呑むルキア。
姿も形も声も、ルキアの知る光の象徴グレイスであるはずなのに、まるで中身だけごそっと別の何かに入れ替わったような、そんな気持ちなのだろう。
けれどグレイスは追撃を緩めない。
「分かっています、あなたは故意に壊そうと思っていたわけではありませんよね。理想の光としてふさわしい体現者が現れ、あなたに都合のいい強い光に育てようとして、結果的に壊れた。あなたの感覚で言えば、彼はその程度の道具だった」
ルキアの瞳から色が抜け、思わず彼は後ずさる。
ルキアの手からバラが零れ落ちる。
グレイスはそれを気に留めることなく、ルキアが離れた分だけ近付く。
やがてルキアの背が屋上の鉄柵にぶつかる。
グレイスはルキアのすぐ目の前まで距離を詰めると、静かな声で続ける。
「ねえ、ルキア様。負荷をかけられ続けた人間がどうなるか、ご存知ですか? ああ、いえ、知っている訳がありませんね。あなたは弱く地上に落ちて光を失った道具に興味はないでしょうから」
「……っ!」
「だけど、彼は人間だったんです。ただあなたに憧れ、認めてほしくて頑張った、誠実で善良な人間。けれど――彼の未来は潰えてしまった。それなのにあなたは光の中心で笑っている。そして再び私を使って、同じ過ちを繰り返そうとしている。そんなの」
グレイスの顔から全ての表情が抜け落ちる。
その顔のまま、冷たい声で言い放つ。
「――そんなの、許せるわけがないですよね」
敵意に満ちたグレイスの視線と声に、ルキアは初めて人間の悪意を見せられた幼子のように、恐怖で染まった目を向けた。
彼は王子としての優雅さも威厳も忘れ、喉の奥から絞り出したような声で叫んだ。
「き、君は、誰なんだ!? 僕の知るグレイスじゃ……」
それに対し、グレイスはゆっくりと整えると、まるでこれまでのやり取りが嘘だったかのように優雅に微笑む。
その笑顔のまま、彼女はこの学園で叩き込んだカーテシーを披露しながら答えた。
「改めましてルキア王太子殿下。私は、あなた達に復讐するためにやってきた、アレク兄さんと同じエルミナ孤児院所属のグレイスです。以後お見知りおきを」




