51.セヴラン編:【味覚と分析】
学園祭二日目。
前日にも増して華やかな空気が蔓延する中、その日グレイスが選択したのは、【セヴラン】だった。
◆
現在二人は何か不備がないか確認しながら、学園内を回っていた。
そのままセヴランのイベントが起こる校庭に時間通り、足を踏み入れる。
屋台がたくさん並ぶこのエリアは、昨日よりもさらに賑わいを見せていた。
「人が多いですね」
「今回の学園祭の目玉の一つだ。こうなるのは必然といえる」
淡々としたトーンで答えながら、セヴランは人の流れと配置を一瞥する。
分析するその眼差しは、まるで戦場を見渡す指揮官のように冷静だ。
その後、どの屋台から回るか考えていたらしいセヴランの視線が、わずかにグレイスへ向く。
「……君はどう思う?」
セヴランからの問いに、グレイスは、
「ではまずは一番左端から回りましょう。あちらは導線が細いので、人が増える前に確認しておいた方が 全体の巡回効率が上がるかと」
彼女の説明に、セヴランはわずかに目を細め――自分も同じ結論に至っていたと言わんばかりに静かに頷いた。
既に人気の屋台はたくさんの人が並んでおり、その列は昨日よりも伸びているようだ。それ以外の店も人だかりができ、行列になるのも時間の問題だろう。
だが、校庭の一角に屋台を構えるとある店舗の前は、人が少なく閑散としていた。
売っているのは『ハニーロールクランツ』というお菓子で、最近新しくできたスイーツ研究部の出店だったはずだ。
少し離れた場所からでも蜂蜜の甘い香りが鼻をくすぐり、いい匂いなのにとグレイスが考えながら近付いたところで、
「すみません! 生徒会の方ですよね!? 一度試食してご意見いただけませんか!?」
と声を掛けられた。
ここからがセヴランのイベントの始まりだ。
「私でよければ、ぜひ」
「ありがとうございます……! あの、実は味は悪くないはずなんですが、反応が薄くて」
「何度も作り直したんですけど、ずっと味見してるうちに違いが分からなくなってしまって」
まずは差し出された菓子をじっと眺める。
見た目としてはロールケーキのようだ。試しに少し口に含む。
ほのかにシナモンが聞いた生地と蜂蜜の入ったクリーム。甘い香りは心地よく、シンプルながらも素直に美味しいと思える出来だ。
だが、食べていくにつれ単調さが際立つ。
そのうちに蜂蜜と生地自体の甘さのせいで次の一口に進むのに勇気がいった。
「……美味しいのに、もったいないですね」
ようやく食べ終わった後、グレイスはゲーム通りの改善案を手短に提案した。
「例えば【柑橘の皮をほんの少しだけ混ぜるのはどうでしょうか】。後味が軽くなります。後は、【冷たいヨーグルトを添える】……そうすれば、味の対比でぐっと締まると思います」
「な、なるほど……! 材料もありますし、すぐに試せそうです!」
部員達がぱっと明るい顔になる。
その時、隣でいつの間にか完食していたセヴランが静かに口を開いた。
「味に重さが出ている理由は二つある」
淡々と、しかし迷いのない声。
「一つは、生地とクリームがどちらも甘味主体で、変化点が存在しないこと。もう一つは、食感が単調で、咀嚼のリズムが一定になってしまうことだ」
それはまさしく、彼らしい合理的な分析だった。
「今、グレイス嬢が提示した酸味による対比は有効だ。加えて砕いたナッツを少量混ぜれば、食感の差異が生まれ、飽きにくくなるだろう」
だがセヴランはそう述べた後、ふとグレイスへ視線を向けた。
まるで、自身の結論が正しいかどうかを彼女に確認するかのように。
グレイスが静かに頷くと、セヴランの目にわずかな安堵の色が落ちた。
その後部員達は感心しつつ、急いで材料を取りに走っていく。
だが集まった材料は。
「ピスタチオ、ですか」
「これしか用意ができなくて……」
よりにもよって殻付きだ。これを一つ一つ取って細かく砕くのには少し時間がかかるだろう。
その上人手が足りないようで、部員が困ったように眉を寄せていたら。
「手伝う」
迷いもなく、セヴランは屋台にあった手袋を取り、手に嵌めた。
「え、セヴラン様……!? そんな、あなた様みたいな高貴な方にそんな単調作業をさせるわけには」
まさかのセヴランの行動に目を丸くする部員達。
しかし彼はそれには答えず、
「時間の無駄だ。指示を。私は手を動かす」
あのセヴラン様がこんな地味な単調作業を手伝ってくれるなんてと、驚愕、尊敬、戸惑い……様々な感情が屋台の空気に混ざる。
勿論グレイスも【同じように手袋を取る】。
黙々と並んで作業をしながら、グレイスは彼の動きを覗き見る。
やはり無駄がなく、正確で、そして早い。
だが、その顔にはどこか楽しそうな表情が浮かんでいる。
「もしかして、セヴラン様は甘いものがお好きなんですか?」
ゲームでは彼が甘党だという情報があった。
事実グレイスですら完食が難しかったあの甘さのお菓子を、彼は難なく食べ切っていたのだ。
「好きという感情は分からない。ただ頭を使った時の栄養補給として非常に優れているため、口にする頻度は高い」
それが好きということなのだろう。
彼がまだ分かっていないだけで。
◆
グレイスとセヴランは一度生徒会室へ資料を取りに戻り、再度見回りのため部屋を出る。
この辺りのエリアは一般開放されていないからか、まったく人気がない。
そんな中グレイスは、うっかりを装って階段から足を踏み外す。
「きゃっ……!」
階段途中とはいえ、ゲーム通りの行動だと分かってはいても、グレイスはさすがに恐怖から目を瞑る。
しかし痛みはなかった。
「っ、大丈夫かグレイス嬢」
すぐ間近で聞こえてきた声にグレイスがおそるおそる目を開けると、目と鼻の先に冷たさの和らいだ灰色の瞳があった。
「セヴラン様!」
グレイスの体は、セヴランの上にちょうど乗るような形になっていた。
状況から見て、彼が下敷きになってくれたおかげでグレイスに痛みがないようだ。
「申し訳ありませんセヴラン様。お怪我はありませんか?」
「問題はない。それよりも君はどうなんだ」
「私は大丈夫です。セヴラン様が助けてくれたおかげです。ありがとうございます」
「ならいい」
しかしグレイスが体を起こそうと腰を引き上げかけた瞬間、掴まれた。
セヴランの手に、グレイスの腰をぐっと抱え込むように。
「……っ、あの、セヴラン様? これでは、どくことができません」
腰を押さえる手は想像以上に強く、細い腕とは思えないほど確かな力が宿っていた。
けれど彼は気まずそうでもなく、ただ静かに呼吸している。
しばらくして、セヴラン自身がその手に目を落とした。
「……すまない。無意識だった」
「無意識に、人を、こう……掴むものなんですか? 以前私の熱を測った時のように、この接触は必要な検分というわけでもなさそうですが」
グレイスはあくまで冷静に問いかける。
セヴランはグレイスから手を離しもせず、ただ黙って考え込んだ。
「……確かに君の言う通りだ。なぜだか分からない。……が、離れたくないと思ったからなのは事実だ」
セヴランの胸の奥では、明確な矛盾が生まれていることだろう。
離れたくないという衝動は、合理性とは無関係だ。
しかも今回は、以前のような言い訳が使えない。
――彼の中に、グレイスへの心が育ちつつある。
正直すぎるセヴランの答えに内心は満足げに薄く笑い、けれど表向きのグレイスとしてはすぐに、淡々と質問を重ねた。
「どうして、離れたくなかったんですか?」
その問いは、感情への直球。
セヴランの灰色の瞳が揺れる。
「理由を……分析している」
「分析中ですか」
「ああ。だが分類ができない。嫌悪ではない。恐怖でもない。怒りでもない。……グレイス嬢には、どう見える」
「では、これは私への好意からくるものなのでは?」
「好意……」
「例えば最近で、私以外でこの感覚を覚えたことは?」
もう一歩、彼の感情を揺らす質問をする。
セヴランは迷いを含んだ声音だったが、どこか確信めいたように答える。
「……しいて言うのなら今日食べた、ハニーロールクランツを食べている時と、同じ感覚だ」
「では間違いなく、嫌悪や不快の感情ではありませんね」
グレイスがここで【セヴランからわずかに視線を逸らして静かに微笑む】。
その瞬間。
セヴランは、まるで実験結果を確認するように小さく息を吸った。
「……しかし君に視線を外されると、不快になる」
「不快ですか」
「ああ」
淡々と告げられる。
「……この感覚を、もっと確かめたい」
グレイスの腰に触れた彼の手が、強くなる。
所有でも恋でもない。
ただ、自身の感情を測定するのに必要な器具を、手放したくないかのような。
「次は、君から離れる時の気分も知りたい。そうすれば、私が今君から手を離したくないというこの感情が好意なのかどうか、判断するための材料が増える。……協力してくれるか?」
それは告白ですらなく、感情の実験への参加依頼だった。
グレイスは、復讐者として迷わず頷いた。
「ええ、【喜んで】」
その微笑みに、セヴランの瞳が細く揺れた。
感情の知らないセヴランが、少しずつ己の感情を知っていく。
そして今また、彼の中でグレイスへ抱く感情の正体に一歩近づいた。




