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4.アレクの独白と蘇る記憶



「アレク兄さん、お粥、少しだけでも食べよう?」

 

 木製の椅子に腰掛け、グレイスは匙を揺らす。

 アレクは枕に沈み込むようにして、怯えた獣のように目だけを動かした。


「……あとで」

「あとでは食べないでしょ。ほら、冷めちゃうよ」

「ごめん……」

 

 その言葉を、彼は一日に何度も口にした。

 何に対しての謝罪なのかもわからないまま、ただ、息をするたびに「ごめん」と零す。

 

 そんなアレクにグレイスは笑顔を作り、匙を差し出す。

 アレクはようやく口を開き、少しだけ飲み込む。

 それを何度も繰り返すうち、アレクの瞳から、じわりと涙が零れ落ちた。


「どうして、泣いてるの?」

「……分からない」


 アレクの声は、掠れていた。

 かつて王都行きを誇らしげに語っていた少年の姿は、そこにはない。


「……ねえ、アレク兄さん。何があったの?」

 

 何度目かの夜。窓の外に星が瞬く頃。

 グレイスは椅子をベッドの傍に寄せ、静かな声で問いかけた。


「半年で帰ってくるなんて、おかしいよ。王立学園を退学って……」

「……グレイス」

 

 アレクのまつげが震える。

 暗がりの中、その瞳だけがぼんやりと光って見えた。


「言いたく、ないなら、いい。無理に聞かない。でも」


 グレイスはそっと彼の手に触れた。

 骨ばった、冷たい指。


「一人で抱え込むのは、もっとよくないよ」


 長い沈黙があった。

 夜の静寂と、遠くで鳴く犬の声だけが二人の間を流れていく。

 

 やがて、アレクは諦めたように、ぽつりと口を開いた。


「……僕さ、あの学園で、生徒会に入ってたんだ」

「生徒会?」

「うん。成績優秀者の中から、特に選ばれた生徒だけが入れるっていう、あれだよ。……僕なんかがって、最初は断ろうとしたんだけど」


 アレクの視線が宙を泳ぐ。


「でも、僕には才があるって見出されて。生徒会長のルキア様も『君ほど優秀な人材を逃すわけにはいかない』って。……第一王子の、その笑顔が、すごく眩しくてさ。断れなかった」

 

 その名前はグレイスも知っている。


 このルクシア王国の王太子。

 それはこの国で、最も未来を約束された存在。


「それで、副生徒会長のセヴラン様、宰相の息子さんでね。すごく頭が良くて、理知的で冷静で。……僕のことを『君の仕事は実に合理的で美しい』って褒めてくれて。庶務のロアン様は騎士団長の息子さんで、いつも朗らかでさ。肩を叩いて、『お前、馬鹿の俺とは大違いだ! やっぱすげーな!』って笑ってくれて」

 

 楽しそうに語るような言い方なのに、アレクの表情は微塵も笑っていない。


「最初は、本当に嬉しかった。貴族でもない僕を、対等に扱ってくれてるみたいで」

「みたいで、ってことは」

「……いつからか、僕の机の上に、書類が積み上がるようになったんだ」

 

 アレクの反対の指が、布団の端をぎゅっと掴む。


「ルキア様の分の書類。セヴラン様が仕上げた草案。ロアン様が溜め込んだ報告書。……『君ならできるさ。なにせ僕の見込んだ人間だからね』『君が一番早くて正確だ。向いている者に任せるのがいい。適材適所だ』『俺こういう書類関係苦手で、だからお前に任せる。信頼してるから!』」


 一つひとつ、言葉を噛み締めるように。


「嬉しかった。認めてもらえてるんだって思ったから。だから……断れなかった」

 

 グレイスの胸が、きゅっと締め付けられる。

 アレクは、断れるような性格ではない。優しいアレクは、頼まれたら、嫌でも引き受けてしまう。


「でも、僕にも限界はあって。授業に出て、課題をして、生徒会室に行って、朝まで書類に囲まれて。それを毎日やってたら……だんだん、体が、動かなく……なってきて」

 

 目の焦点が合わなくなっていく。

 グレイスは彼の手を握りしめたまま、息を詰める。


「ある日、倒れた。生徒会室で。……みんな僕のことを、心配、してくれて。でも、もう間に合わなかった。……お医者さんの診断だと、心が、疲れすぎてるんだってさ。休んでも、すぐには戻らないって。普通に学園生活を送るのは、難しいって」


 そこで、アレクはようやくグレイスを見た。

 怯えた子供のような瞳で。


「だから、退学することになった。……ルキア様たちは、本当に、悪気はなかったんだ。信じてくれてただけなんだ、僕のことを」

「……そうなんだ」


 グレイスは感情の見えない声で呟く。


「でも、もう僕は……あそこに戻れない。あの人たちの顔を見ると、息が苦しくなる。手が震える。頭が真っ白になって、何も考えられなくなるんだ」


 アレクは自分の胸元を掴み、爪を立てる。


「僕が、弱かったからだ。それにもっと……もっと賢ければ。そうしたら期待に、応えられたのに」

「……違うよ」


 気づけば、グレイスから声が出ていた。


「アレク兄さんは、弱くない。……弱いのは、王子様たちのほうだよ」


 その言葉に、アレクがびくりと肩を震わせる。

 まるで自分の大切な人が責められ、怯えたように。


 けれどグレイスは続ける。


「『信頼してるから』『優秀だから』って言葉で、全部押し付けて。自分たちで抱えるべきものを、アレク兄さんに渡した。……それを弱いって言うんだよ」

「そんなこと、言うなよ」


 アレクは震える声で言う。


「……あの人たちは、本当に、僕のことを……」


 そこで、不意にグレイスの頭の奥に、鋭い痛みが走った。


「っ――!」

「グレイス? どうした?」


 額を押さえ、グレイスはベッドの端に片手をついて、耐える。

 頭の中で、何かが弾けたようだった。


 ――ルクシア王国の王立学園。

 ――生徒会。

 ――第一王子ルキア。

 ――宰相の息子セヴラン。

 ――騎士団長の息子ロアン。

 

 次々と、言葉と映像が頭の中を駆け巡る。

 

 優雅な校舎。

 きらびやかな制服姿の生徒たち。

 攻略対象として立ち絵が表示される、三人の美麗な男子生徒。

 その中心には、ライトブラウンの髪をさらりとなびかせ、薄紫の瞳で三人を見つめる自分。


 目を閉じると、タイトル画面の音楽が脳裏に蘇る。

 淡いピンクのロゴ。

 薔薇と宝石で飾られた【光の学園と救済の乙女】という文字。

 それはとある乙女ゲームの題名だった。


 ――そしてグレイスは、自分の中に別の人生の記憶があることに気づく。

 

 前の世界では一人の平凡な女の子として生きていた。放課後にゲームを起動して、このゲームを何周もプレイした。


 その中に、確かに【アレク】という名前の少年がいた。


 だが彼は立ち絵もない、名前だけの存在で――ヒロインが入学する半年前に、過労で倒れて退学した、という過去の設定に過ぎなかった。

 

 ゲームの中で、ルキアは言っていた。


『……きっと僕の期待が、重すぎたんだ』


 セヴランは言っていた。


『能力に見合った仕事量を振ったと思っていた。私は……間違っていなかったはずだ』


 ロアンは言っていた。


『あいつ、頼ってもいつだって大丈夫だって笑うからよ。あの笑顔を俺が……守んなきゃいけなかったのに』


 そして始まる、三人のトラウマをヒロインが癒やしてあげる物語。

 彼らは過去と向き合い、罪悪感を乗り越え、ヒロインとのハッピーエンドを手に入れる。


 グレイスとアレクの関係は、一言も出てこなかった。

 ゲーム上で、グレイスとアレクは、もしかしたら何の関係もなかったのかもしれない。


 けれど、現実は――。


 グレイスはぎりっ、と奥歯を噛み締める。

 ベッドの上で、アレクが不安そうに彼女を見ている。


「グレイス、本当に大丈夫か?」

「……うん。ちょっと、思い出しただけ」

「思い出した?」

「ううん、なんでもない」


 アレクに心配をかけるわけにはいかないと、グレイスは微笑みを作った。

 けれど心の底では、冷たい何かが静かに形を成していた。



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