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43.信頼という名の鎖



 学園祭の日が迫り、生徒達もどこか落ち着かない様子で浮き足立っている。 

 

 そんな喧騒がようやく落ち着く夜。 

 寮の自習室では、一つだけ灯りが残っていた。


 机に広げられたのは、持ち帰っても問題のない書類――文化部の予算修正案、体育館ステージの調整資料、そして生徒会と補佐役員の分担表。

 グレイスは色分けされた付箋を静かに貼り替え、整理し、項目を確定していく。


 誰もいない夜の部屋に、紙をめくる乾いた音だけが続いた。


「……ここは明日ルキア様に確認。これはセヴラン様に渡して……これはロアン様の、作業調整分……」


 いつもと変わらぬ手際。

 だが、普通なら複数人で当たる量だ。

 そんな彼女の姿を、寮生達が廊下からそっと覗き込んでいるのを背中越しに感じる。

 

 けれどグレイスは構わず、目の前の仕事に集中する。


「……またグレイスさん、夜遅くまで残ってる」

「すごいなあ……あれ、全部学園祭の仕事?」


 昨日も、一昨日も、その前も。

 気づけば夜になっても自習室に灯る最後の灯は、いつもグレイスだけだった。


 本来、ゲームでは『あの人たちに信頼されるグレイスさん、すごい!』で終わるはずの場面。


 だが現実では、もっと先があった。


「……でも、あれ、仕事多すぎじゃない?」

「うん……生徒会ってそういうものなの?」

「いや、でも……なんか……大変すぎる気が……」


 それは、ごく小さな疑問。


 ここまで波及したのは、ゲーム以上にグレイスが『理想の特待生』を完璧に演じた結果だろう。


 静かな廊下に漏れ聞こえる声を背に、グレイスはただ、柔らかく微笑む。


 すると、彼女達が控えめにグレイスに声をかけてくる。


「あ、あの、グレイスさん、私で良かったら、手伝うよ?」

「うん、私も」


 彼女達の瞳には善意からくる心配だけが滲んでいる。

 けれどグレイスはお礼を伝えた後、わずかに目線を下に向ける。


「ですが、ルキア様達が私を信頼して任せてくれたものですので。……他の人の手を、借りるわけには」


 その声に、表情に、誰かに助けを求めたら評価を下げると暗に彼らから言われていると、そんなニュアンスを漂わせる。


 だがすぐにぱっと顔を上げると、グレイスは明るい笑顔を浮かべた。


「あ、えっと、大丈夫です! なので皆さんは気になさらず先におやすみになってください」

「っ、分かった。……でも、もしも何かあったら、すぐに言ってね」

「はい!」


 こう言われてしまえば、彼女達は何も言えない。


 けれどグレイスの元を去る彼女達の中に、ルキア達への何かが芽生えかけているのを感じながら、グレイスは再び作業に戻った。



 夜の寮でのやりとりから二日後。

 夜もかなり深くなった頃。


 普段ならば生徒会役員でなければ学園内に泊まっての作業は許されていないが、この時期は特別だ。

 申請さえすれば、補佐役員に限り、学園内に泊まって作業することも可能になる。


 そして重たそうな書類を束ねながら、グレイスは生徒会室で一人、テーブルに積まれた三種類の紙束を見つめていた。


 ルキアからの『学園運営に関する要望取りまとめメモ』。

 セヴランからの『予算案の追加の分析資料』

 ロアンからの『報告書の作成依頼と“丸投げする!がんばれ!”と書かれたメモ』


 そのどれもが、生徒会の正式業務として提出されるもの。

 本来なら、彼らがそれぞれ処理すべき内容だ。

 だが――。


「『グレイスならできる』……か」


 淡々と苦笑する。

 彼らを責める声音ではない。ただの確認だ。

 

 覚悟はしていたが、やはり膨大な量だ。

 ペンを持つ指先がわずかに震え、目も少しだけ霞む。


 それでもグレイスはほんの一呼吸でそれらを抑えると、目の前の書類に手を伸ばす。


 ちょうどその時、生徒会室の扉が控えめに叩かれた。


「あ、あの……失礼します、補佐の者です。模擬店出店リストの最終確認を……」


 顔を覗かせた補佐役の生徒は、室内の光景に目を丸くした。


 机を覆いつくす資料の山。

 グレイスが一人で処理し続ける姿。

 そして、どこか疲れの滲む微かな笑み。


「グ、グレイスちゃん……えっと、それって通常業務の資料だよね?」

「はい。学園祭の業務に時間を割きすぎてしまって、こちらがまだ終わらなくて……でも、他の三人の期待に応えたいので!」


 その『期待』の一言で、補佐生徒はほんの一瞬だけ息を呑んだ。


「グレイスちゃん、まさかずっと一人で……?」

「皆さんもお忙しいですから。私ができる範囲で」


 グレイスはいつもの笑顔で誤魔化した。

 補佐生徒の視線が、机の押し付けの山へ落ちていく。

 そして――。


「な、何かあったら……すぐ言ってね! 手伝うから。も、勿論、通常業務のお手伝いは勝手に手を出すことは難しいのは分かってるけど、学園祭関係のことならなんでも。……そのための私達なんだから」

「ありがとうございます! でも……ここに私が残っていること、ルキア様達には内緒でお願いします。心配を……かけたくないので」

「……うん、分かった」


 補佐生徒は複雑な表情のまま扉を閉めた。


 ――これが、一度では終わらない。


 機材の搬入の時間の相談で訪れる者、舞台を使う部の順番について確認にくる者、当日の警備体制について提案しにくる者……。

 それぞれが、同じ光景を目撃することになった。


 そして、噂にならない程度に囁かれ始める。


「……グレイスさん、頑張りすぎじゃない?」

「泊まり込みって……私たちもしてるけど、さすがに量おかしくない?」

「もしかして……あの三人って……」

「あの人達でも気づかないのかな……?」

「ねえ、前にもこんな風に抱え込んで人がいたって先輩達、言ってなかった?」

「あれは噂だと……」

「……でもその噂って本当は……?」

「こら! 変なこと言わないの!」

「……だけど、もしグレイスちゃんもその特待生の人みたいに……」


 やがて、生徒たちの小さなざわめきは影へと変わる。

 まだ幼い、か細い影。

 しかし確実に、三人の足元の地盤を揺らし始めている。



 ――学園祭直前に起こる、【悪夢の再来】という名のイベントがある。


 これは確実にそれぞれのルートで起こるイベントで、彼らの過去の傷に触れるきっかけとなる。


 その前段階にあたるのが、グレイスが寮で一人、遅くまで持ち帰りの仕事をこなす小イベント【寄せられる信頼】。

 

 ここにルキア達は登場せず、グレイスの頑張りを寮の生徒達が陰から見つめ、彼女へのルキア達からの信頼度の高さを改めて認識する、というもの。


 だが、ゲーム以上に努力するグレイスをずっと周囲に見せ続けてきたことで、彼らの思考に変化が訪れる。


 ――そしてゲームとは関係なく、グレイスは初めて意図して生徒達に夜の生徒会室の光景を見せた。

 

 これを見せるためにグレイスはあえて仕事が滞っているように見せ、しかもセヴランやルキアには気づかれないよう細心の調整をしていた。


 けれど少しでも彼らに、グレイスの力になるという気持ちがあればこれは成立しなかった。


 つまり三人は、恋愛段階が進んでも、グレイスに負荷を課すという基本構成はまったく変わっていない。


 彼らは、アレクの時と同じ状況を作り出す。

 意図的にではなく、無意識に。

 これこそ、彼らが罪の意識を持っていないという証。


 けれどそれでいい。

 そのままの彼らで最後までいるからこそ、グレイスの存在が、他の生徒達の間で増していくのだから。



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