39.セヴラン編:【感情への理解】
【感情への理解】。
こちらも同じく、セヴランルートへ入っていれば強制的に発生するイベントだ。
それが起こったのはルキアイベントと同日の放課後の、ひときわ静かな生徒会室内だった。
中に残っているのはセヴランとグレイスの二人のみ。
机には、文化祭での追加の文化部展示の申請書、来賓予定者表、イベント修正案の確認書類などが雪のように積み上がっていた。
机に広げられた紙の束を前に、グレイスはセヴランの隣で、黙々と作業をこなしていた。
と、セヴランは、いつものように細部まで数字を照合しながらふいに手を止めた。
「展示参加希望者が想定より増加している。搬入資材は規定数を超えるだろう」
「追加の備品は、倉庫のB区画に余剰があります。昨日まとめたリストに記載を追加してあります」
グレイスが淡々と差し出した資料に、セヴランの手が一瞬止まる。
彼は指先で紙を撫で、目を細めた。
「……君はいつも、私が次に必要とする情報をあらかじめ予測し、先に準備している」
それは事実の確認にすぎない。
けれどその声音には、ごく小さな安堵が滲んでいる。
グレイスは控えめに微笑む。
「セヴラン様のお仕事の流れを学びました。効率化のために」
「効率か。そうだな。私の仕事を参考にする君の判断は正しい」
正しい。
……また、その言葉。
セヴランの世界を支配する、たった一つの尺度。
セヴランが発する称賛に好意はない。
それは正解に対する肯定、ただそれだけ。
だがグレイスに対してだけは違う。
段階が一つ上がったセヴランは、自身の奥底に沈ませていた感情という物を、グレイスに対して向け始める。
なぜなら彼は、自分の正しさを常に証明してくれる存在を求めているから。
ルキアがグレイスに求めるのが、己の未来を照らしてくれる『光』だとしたら、セヴランが求めているのは己の正しさを証明してくれる『正確な物差し』といったところか。
ゲームでは、それを軸にヒロインが立ち回ることで彼らの好感度を上げていく。
だからグレイスは、その正しさを肯定し続ける選択肢を口にする。
【「セヴラン様は、誰よりも正しく判断されています。私はそう信じています」】
その瞬間だった。
セヴランの視線が、確かに感情の色を帯びて揺れた。
「……信じる、か。それは……どの程度の強度の言葉だ?」
セヴランは書類を置くと、グレイスのぶれない静かな薄紫の瞳をじっと見つめる。
「感情とは曖昧なものだ。信頼という言葉も曖昧だ。だから私はその『信じる』という言葉すら不要だと考えている」
ここで彼の心をもう少しグレイスに向けさせる選択肢が、ゲーム画面には出てくる。
そしてグレイスは、迷わずそれを選び取る。
「【感情も数値化できればいいのですが】。そうしたらセヴラン様にこの信頼度を数字としてお見せできるのに」
「……感情を、数値化する、か」
彼は低く呟き、指先で机を一度叩く。
「それは無理なことだ。感情というものは、数値化できないからこそ厄介だ。曖昧で、予測できず、合理的判断を阻害する要因となる。故に本来は排除されるべきものだ。実際私はこれまでそれらを全て排除してきたからこそ、正しくあれたと言える」
そこまでは淡々とした口調だった。
だが、そこで言葉が途切れる。
セヴランの眉間に、ごくわずかな皺が刻まれた。
「……にもかかわらず、君と話すと、排除すべき雑音であるはずの感情を切り捨てられない」
視線がグレイスへ向けられ、その色はほんのわずかに熱を帯びていた。
「それが非常に……厄介だ」
グレイスは彼の心を読み解く手伝いをするかのように、尋ねる。
「セヴラン様、その変化は私に対してだけですか?」
静かな問いかけに、セヴランの目がわずかに揺れた。
「そうだ。……なぜ君に対してだけ生じるのか。そして数値化できないものを切り捨てられないのか。他の誰の前でも現れなかった現象だ」
セヴランは小さく息を吐く。
「ではセヴラン様は、その感情を消したいとお考えで?」
グレイスは尋ねる。
これまでの彼であれば、即座に切り捨てるべきだと答えただろう。
だが。
「……頭では分かっている。合理的で正しい判断を迷わせる感情は消すべきだと。しかし……」
「消したくない、と?」
「……」
答えに詰まる。
この無言こそが、全てを物語っている。
理性は排除すべきだと告げている。
だがその感情だけはどうしても切り捨てられない。
それは彼がグレイスに対して、単なる道具以上の価値を見出したことの証拠でもある。
その混乱をグレイスは見逃がさない。
「でしたらまず、その感情は何なのか。そして本当に不要なものなのかどうか、確かめるのが先ではありませんか?」
「……確かめる?」
「はい。正しいかどうか判断するためには、材料が必要です。今のセヴラン様にはその材料が不足しているのではと」
セヴランは息を呑んだ。
正体も分からず、判断材料も足りない。
だからこそ、彼はそれを切り捨てるべきかどうか判断すらできずにいる。
――ならばまずは材料を集め、その正体を突き止めるしかない。
「なるほど。確かに、データを揃えた上で判断するという行為は、正しい」
グレイスの提案は、やはりセヴランのようなタイプには、最適な提案のように聞こえたようだ。
これが、第二段階に上がったセヴランの攻略の軸となる。
ゲームではこの先、どういった時に感情が動くのか、それが何なのかをグレイスと共に検証する、という目的で様々な接触を繰り返す。そのうちに恋が芽生えるというのがお約束の展開。
もちろん、その恋がこの世界で成就することはない。
胸の内でグレイスの冷たい声が漏れる中、イベントは着実に進行していく。
「ならばグレイス嬢。一つ試したいことがある」
「なんでしょう」
グレイスは、セヴランの方へ体ごと向ける。
「……脈で感情の動きを判断する、という方法があると、文献にあった。試しに、君といる時の私の脈を測ってくれないか」
「構いません。ちなみに普段はどの程度の速さですか?」
「一分間に六十前後だ」
セヴランが袖を少し上げる。
グレイスは、露になった彼の手首へ指を添える。
触れた瞬間、セヴランの肩が僅かに跳ねた。
「……っ」
けれどグレイスはそのまま一分ほど待ってから、口を開いた。
「今で約七十五です。普段よりも速いですね。何か理由は考えられますか?」
「……君の指が、想定よりも冷たかったからだろうか」
「失礼しました。それはつまり驚いたから、ということでしょうか」
「おそらく」
だが、触れ続けているグレイスの体温が上がってもセヴランの脈が遅くなることはない。
むしろどんどんとその速度を増している。
グレイスはからかうのではなく、淡々と真面目に告げる。
「セヴラン様、脈が早くなっています。指はもう冷たくないはずですが」
「ああ」
「ではなぜ?」
「……分からない。が、胸に、妙な圧のようなものも感じる。これは一体……」
「脈拍の速さと胸の圧迫感……例えば不快だから、でしょうか?」
「それは違う」
「では、嫌悪ですか?」
「それも違う」
「怒り、でしょうか?」
「違うな」
それなら、とグレイスは指先を少し強く押し当てた。
「では、何の感情ですか?」
セヴランは答えられない。
灰色の瞳がわずかに揺れ、息を吸う。
「……判別不能だ。ただ……嫌な気持ちではないことは、確かだ」
「でしたら私への好意、でしょうか」
その瞬間、セヴランの頬がわずかに赤く染まる。
更に速くなる脈拍。
そして。
「私にはよく分からないが……君が言うのなら、そうなのかもしれない。だが……まだ、そう判別するには材料が少なすぎるように思うのだが……どうだろうか」
そう小さく口にした。
その言葉を聞き、グレイスは心の中で冷笑する。
これまで他者の一切を排除し、自身の物差しだけで物事を判断してきた男が今、無意識のうちにグレイスの判断を求めている。
――それは、彼の判断基準が、静かに他者へ傾き始めた瞬間だった。
けれどグレイスはヒロインの顔を崩さず、けれど少しだけ熱をこめてセヴランを見つめ、言った。
「ではこれから、【私と一緒に確かめていきましょう】。それが本当に好意なのかを」
最後にグレイスは、彼の前では意図して見せてこなかったセヴランだけに向けた微笑みを、初めてしてみせた。
途端に目が離せないと言わんばかりに彼の灰色の瞳に光が差し、セヴランの頬がさらに赤く染まる。
それを眺めながら、グレイスは冷静に分析する。
今のセヴランは、まるで人間のようだと。
これでいい。
もっと深く、グレイスを求めればいい。感情のままに。
そして人は、『感情』と『心』を自覚してから壊す方が、より深く落ちるのだ。




