34.セヴラン編:【冷理の庇護】
セヴランとの小イベントが終わった翌朝。
グレイスは資料の追加を取りに事務棟の奥へ向かっていた。
この時間帯は人が少なく、廊下にはわずかな陽の光だけが満ちている。
静かな空間は、誰かの声をいやに鮮明に響かせた。
「ねえ……最近のグレイスって、やっぱりちょっと調子に乗ってない?」
「生徒会で仕事してるからって、セヴラン様の隣に立ってることが多すぎるのよ」
「孤児院出身でしょ? ああいう子って、ほんとなりふり構ってないっていうか、見ていてむしろ健気よね」
「それに私見ていて思ったのだけど、彼女、意外に無能だったりして。数字もろくに読めないと聞いたわ」
「私は無知だって聞いたわ。なのに生徒会に入れているのは……扱いやすさかしら。ならそのうちセヴラン様の与える仕事量に耐えられなくなるんじゃない?」
「きっとそうよ」
あの声は、噴水の近くで聞いたセヴランのファンの子と同じものだ。
グレイスはそっと壁のでっぱりに体を置き、向こう側から見えないように隠れた後、息を潜めて二人の様子を観察する。
彼女たちはグレイスに気づいていない。
話の内容も質も、ルキア親衛隊と変わらない。
ただ今回は、グレイスがターゲットとして定めた相手が違う。
彼女達が笑い合った、その瞬間だった。
「その分析は誰の判断だ」
「だ、誰っ!?」
低く、静かで、感情の起伏が一切ない声。
まるで凍てつく氷を纏ったような底冷えする声に、その場にいる二人は、声の主が誰か分からないにもかかわらず、その場で止まる。
そして――ゆっくりと影から現れたのは、セヴランだった。
窓から差し込む光の当たる角度が悪かったのか、少女たちはその姿に気づくのが一瞬遅れた。
「セ、セヴラン様……っ!」
完全に青ざめた顔。足も震えている。
だがセヴランは眉一つ動かさず、淡々と続けた。
「まず。君たちの言う無能とは何を指す。具体的には彼女のどこをどう見てそう思ったのか」
問いかけなのに、拷問の始まりのような空気だった。
「え、えっと……その……」
「では無知についてはどうだ」
「あ……」
「私が判断し与えた仕事量をこなせないとも言ったな。つまり彼女は、それに耐えられず壊れるような人間だと?」
「……」
「言葉にできないのなら、初めから口にすべきではない。違うか」
淡白でありながら、一切の逃げ道を与えない声音。
彼の正しさを盾にした、冷徹な刃。
少女たちは今にも泣きそうな顔で首を振る。
「それに、私の仕事において、必要なのは根拠と結果だ。グレイス嬢はそのどちらも満たしていると、この私が判断している。つまり私が間違っていると、そう言いたいのか」
「ち、違、そんなつもりは」
「君達はそう言ったんだ。自覚がないのか」
淡々と、ただ事実だけを述べる。
だがそれが逆に、いっそ残酷だった。
「むしろ君達が今言った言葉のほうが、非効率だ。自分の劣等感を他者に投影するのは、生産性が低い」
まるでゴミの状態評価。
ただ淡々と不要と言っているのと同じ。
けれど普段のセヴランと違うのは、これまではこういうことがあっても、感情を挟むことはなかったはずだ。
しかし今の彼の声には、グレイスにしか分からないほどの、感情の揺らぎが含まれていた。
少女たちは涙ぐみながら、震える声で謝った。
「も、申し訳ありませんでした……っ」
「己の罪悪感を軽くするための謝罪は不要だ。だが、今後同じことを繰り返すのなら――」
一拍置いた。
微笑みすら浮かべないまま、セヴランはいつものように淡々と言い放つ。
「私が直接、学園に報告する。そのつもりでいるように。クラウディア・ラインベルク嬢に、ミレイユ・ヴァスティン嬢」
彼の言葉を最後に、少女たちは名前を呼ばれた喜びよりも恐怖で体を震わせ、ほとんど逃げ出すように廊下から去っていった。
静寂が戻る。
セヴランはゆっくりとグレイスへ視線を向けた。
「聞こえていたな、グレイス嬢」
「ご存知でしたか。私がここにいたことを」
「そこに影ができていた」
「……セヴラン様申し訳ありません。私のことで手間を掛けさせてしまいました」
「謝罪は不要だ。現実と理屈を確認しただけだ」
近づいてくる足音も、一定のリズム。
セヴランは乱れない。
「君の仕事は正確だ。この私が認めている。それを否定する言葉は、合理的ではない。それに君は簡単に壊れるような人間ではないと、私は知っている」
「ですが……せめてお礼だけは言わせてください。ありがとうございます」
「礼も不要だ」
「……セヴラン様の判断が誤りだと言った彼女達に対して、不快に感じて怒ったのは分かっております。それでも、私は嬉しかったのです。セヴラン様が私の能力を誤りではないと言ってくれたことが」
すると、はた、とセヴランの足が止まった。
「怒り、か。……君には、そう見えたのか?」
「はい」
彼は一瞬、受け入れを拒むように眉を寄せる。
だがその灰色の瞳には――わずかに躊躇いの感情が浮かんでいた。
「セヴラン様?」
グレイスが止まってしまった彼に声をかけると、セヴランは、明らかに困惑の表情で口を開く。
「……私には、分からない。ただ……彼女達が私の判断を、誤りだと言ったことには不快を覚えた、のだろう。だがそれだけではない、君をけなされ、さも弱い人間だと言われたこと自体が、私は……」
と、ここで、セヴランは何かに気づいたかのように、大きく目を見開く。
「そうか……これが、怒りか。……やはり私は、怒っていたのか。だがそれだけではない。この感情は一体……」
その言葉に、わずかだが温度が宿る。
以前の彼ならば、己の判断を誤りだと決めつけたその行為にのみ、無意識に不快感を表しただろう。
しかし、今回は違う。
歯車であるグレイスではなく、彼が無意識に心を奪われはじめているグレイスそのものを汚された、そのこと自体に怒りを覚えているのだ。
そして、彼女がアレクのように壊れるかもしれない、と、あの二人がまるでそう匂わせるような言い方をしたことに。
グレイスは優しく微笑む。
その笑みは、彼の感情の揺れをさらに補強する楔になることだろう。
だからダメ押しとばかりに、ここで出てくる、セヴランの心を最も揺さぶる台詞を選択肢として選び取る。
「セヴラン様。【私は大丈夫です。何があっても壊れません。】だから……そんなに怒ったり、心配なさらないでください」
抉れるほどの痛みを押し殺し、グレイスは 微笑む。
その瞬間、確かに彼は大きく感情の揺らいだ顔を見せた。
ほんの一瞬。
だが。
その一瞬がセヴランにとっては大きなものだ。
壊れてしまったアレクとの違いを、明確に知るこの言葉。
畳み掛けるように、グレイスはゲームだと連続して出てくるもう一つの好感度を上げる選択肢を選ぶ。
彼女は腕を伸ばすと、そっと【セヴランの指に触れる】。
セヴランは微かに瞬きをした。
指先の接触を『排除すべき干渉』ではなく『容認すべき要素』だと決定するまでに、わずかな沈黙があった。
そして――時間にしてわずか数秒ほど。
彼は拒否することなく、グレイスの行動に応えるように、指の上に置かれた彼女の手をそっと握った。
「……心配、か。そう、呼ぶのだろうか。判断に迷うが……今は否定できる証拠を持ち合わせていない」
自覚はない。
だが、確かに芽生えつつある。
セヴランは背筋を伸ばし、短く告げた。
「資料を取りに来たんだろう。私も手伝う」
「はい、セヴラン様」
セヴランはグレイスの隣を歩く。けれどその手は資料室に到着するまで、ずっと握られたままだった。
それは、もはや道具への扱いではない。
彼が不必要と切り捨てたはずの感情を向けてしまうほどに、グレイスに情を抱き、心を向け始めている証だった。
そう、セヴランはそのまま正しさに縛られていればいい。そして最後にその正しさごと折る。
そしてグレイスは、静かに胸の中で呟いた。
これで二人目――。
落ちる準備は整いつつある。




