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32.ルキア編【凛然たる庇護の手】



 席次表の件を終えた翌日の放課後。

 グレイスは、生徒会で使った参考資料の返却をルキアに任され、図書室へ向かった。


 静寂が支配する書架の間。

 本を戻しながら歩いていると、棚の向こう側からひそやかな声が空気とともに流れてきた。


「……グレイスさん、またルキア様と一緒に歩いていましたわよね?」

「ええ、本当に。ここのところほとんど毎日一緒にいるんじゃありませんこと?」

 

 聞き覚えのある声。

 確か移動教室で、後ろで話していたあの二人組だ。

 ということは、イベントはもう始まっている。


 グレイスは立ち止まると、自分がここにいるとあちら側に悟られないよう、気配を消す。

 そして隙間から彼女たちの様子を覗き見しながら、そっと聞き耳を立てる。


「この間もルキア様、あの子を褒めていましたのよ? 純粋で誠実で努力家で、と」

「やっぱり計算高い人ですのね。ルキア様もルキア様ですわ。あんな偽りの姿に騙されるだなんて」

「孤児院出身の人間が、あのお方の隣に立てるはずありませんのに」

「ルキア様に取り入って、未来の王妃にでもなるおつもりなのかしら?」

「私やあなたの方が、よほどその立場にふさわしいですのに」


 肩越しに聞こえる声音は、嫉妬と劣等感と虚勢が混じっている。

 それでもグレイスは何も言わず、黙って聞くに徹する。

 むしろ、イベントが正しく進んでいることを確認していた。

 そして――次の瞬間。


「――取り入る? 誰のことを言っているのかな」


 凛と澄んだ声が、図書室の静寂を裂いた。

 途端に女子生徒たちの顔から血の気が引いたのが見える。

 声の方へそっと目を向けると、書架の影から現れたルキアが立っていた。


 彼の黄金の瞳は、静かに、しかし冷徹に光っている。


「……ルキア、様っ!」

「君たちの言葉は、根拠に乏しいよね」


 ルキアにしては珍しく抑揚のない声で、空気を一気に支配する王太子としての重みがあった。


「君たちは確か、公爵位を賜るアーデルハイト家とベルレアン家の長女、エレオノーラ・アーデルハイト嬢と、リディアーヌ・ベルレアン嬢、だよね」

「あ、ええ……」

「誰かを貶める前に、自分の行いを省みるべきじゃないかな。努力している者を嘲るのは、誇りある学園の生徒のすることじゃない」


 風が吹いたわけでもないのに、女子生徒たちは一斉に震え、顔を伏せる。

 王太子には誰も逆らえない。

 そんな強者のオーラを前に、二人はなす術もないように縮こまり、小さな声で、


「も、申し訳……ありません……!」


 それだけなんとか口にすると、逃げるように図書室の外消えていった。


 沈黙が戻る。

 するとルキアは小さく息を吐き、コツコツと上品な靴音を響かせグレイスの方へとやってきた。


「聞こえていたよね、グレイス嬢」

「ルキア様! どうしてここに? それに、わ、私がここにいたこと、気づいていたのですか?」

「手が空いたから君の手伝いをしようと思ってね。本棚の影にいても、君の淡い髪色は光を拾うから、すぐに分かったよ。それより……彼女達の物言い、さぞ気分を害しただろう」

「いえ。私は、そんな!」

「彼女達の言葉は、気にしなくていい。君は正しい努力をしている。誤解される必要なんてどこにもないんだから」


 まっすぐな、迷いのない言葉。

 それは、己の理想の体現者への否定の言葉は許さない、という想いが込められていた。

 けれど同時に、アレクの時とは違い、確かにグレイス自身へ向けられた優しさもこもっている。


 気づいた事実に胸にひやりとした感情が沈むが、表情には出さない。


「ありがとうございます、ルキア様。だけど本当に大丈夫です! それに、こうなることはある程度想定内です。……彼女達の気持ちも分かりますから。ですので、あの、ルキア様っ」


 ここでグレイスは意を決したような表情を作ると、思わず【ルキアの手を力いっぱい握る】。

 そして、グレイスのこの行動に驚き固まるルキアに気づかないふりをして、グレイスは必死に訴えかけた。


「あのっ、どうか彼女たちにこれ以上罰を与える、なんてことは考えないでください! あの二人の嫉妬を煽ってしまったのは私の落ち度です。彼女達は悪くありません!」

「グ、グレイス嬢!?」

「私は本当にこのくらいへっちゃらなんです。それに私は……」


 グレイスは握った手に更に力を加えると、ルキアを安心させるように笑った。


【「このくらいで私は壊れませんから。絶対に」】

「っ!」


 ――本当は、アレクは、壊れてなんていない。

 それでもグレイスはゲーム通りの言葉を口にする。

 彼らの攻略のために。


 心臓から血が流れ出そうなほどに、痛む。


 けれどそんな痛みは一切見せず、ここでグレイスは、ヒロインのように己の行動に我に返ったように慌てふためき、急いでルキアから手を離すと頭を下げる。


「わっ、私、なんてことを……! すす、す、すみませんルキア様!」 


 するとルキアから緊張がほどけたかと思うと、彼は声を上げて笑った。


「あはっ、はははっ、やっぱり君は面白いね! 普段は本当に有能でそつがなくて、それなのにこういうところは初めて会った頃と変わらない」

「……穴があったら入りたいくらいです」


 ぷしゅーと音が出そうなほどに、頑張って全身を真っ赤に染め上げたグレイスに、ルキアは緩んだ顔のまま近づく。

 そして今度は彼の方から、グレイスの手を握った。


「やっぱり君はすごいね。それに、強い。僕の目指す理想は、君と共にあるのかもしれない。……どうしてかな。君を見ていると、最近胸の奥が少し温かくなるんだ」

「ルキア様……そんな、恥ずかしいです」


 その言葉にルキアが微笑む。その優しさが眩しくて――グレイスの胸の奥に、冷たい沈殿物のような感情が静かに積もっていく。


「ル、キア様、本当に恥ずかしいので、もう手を離してくださいっ!」


 けれどグレイスはそれを隠し、動揺と緊張、わずかな喜びの混じったヒロインのグレイスとしての声を上げる。

 ルキアは、握ったままのグレイスの手を名残惜しむようにゆっくり離す。


 恥ずかしそうにしながらもルキアを見上げるグレイスを演じながら、彼女は冷静な温度で胸の内で呟く。


 まずは一人――捕らえた。



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