31.ルキア編:【ほどけていく黄金の視線】
あの、【嫉妬と陰口】イベントの直後から、学園では、十一月の末に三日間かけて行われる学園祭の準備が、徐々に本格化し始めていた。
祭典は王族や他国の来賓も訪れる大行事であり、生徒会はその中心で膨大な仕事を抱えている。
学園祭まで残り三カ月。
校内の空気は少しずつ、祭が始まる前の特有の熱を帯びていく。
講義の合間にも飾り付けの話が聞こえ、部ごとの準備作業も徐々に活気を増していく。
――そしてこれから学園祭までの期間とその本番は、乙女ゲームにおいても攻略の最大イベントが集中して起こる。
つまり、この時期は彼らに最も近づき、最も心を揺らせる期間。
グレイスはその事実を誰よりもよく知っていた。
彼女は静かに笑う。
学園祭の準備が進むほど、彼ら三人の心は少しずつほどけていくのだから。
◆
そんな、華やかな空気を含み始めたある日の放課後。
セヴランとロアンは、学園祭の準備に向けて各々の仕事をするため、生徒会室の外へと向かう。
だがルキアとの小イベント【ほどけていく黄金の視線】の予兆を感じたグレイスは、ここで【生徒会室にルキアと残る】を選択した。
二人きりになった生徒会室では、次から次へと各部署から届いた資料であっという間にいくつもの山が出来上がり、室内はわずかな緊張が漂っていた。
その中でルキアは、一枚の表を前にしてわずかに眉を寄せていた。
王族である彼がそんな表情を見せることは珍しい。
「……開会式の来賓の席次、か」
小さく呟いた彼の机の上には、招待予定の貴族や他国の使節、学園理事会の名簿が並んでいる。
席の配置によっては外交問題にも繋がりかねない――そんな責任の重い調整。
ルキアは本来、こうした宮廷作法に精通しているはずだ。
だが今回は各国の思惑や独特の学園ルールが絡み合い、一筋縄ではいかないようだった。
「王族、第一席……その隣は国外からの使節……いや、だが今回は……」
ルキアが小さく息を吐いた、その時。
「ルキア様、あの、もしよろしければ私も一緒に確認してもいいでしょうか?」
ゲームと同じ最高のタイミングで、グレイスは小さく控えめな声と共に、彼の思考に割って入る。
「あ、うん。……そうだね。君にも見てもらおうかな」
グレイスは、書類の束を抱えたままそっと彼の側へ近づく。
その時、わずかに【ルキアの肩にグレイスの腕が当たる】。
「わ、す、すみません……!」
「いいんだよ、気にしないで」
ほんの僅かな接触。
たったそれだけのことなのに、ほんの一瞬だけ、なぜかルキアは戸惑ったような、けれど不快ではない表情を浮かべた。
けれどすぐにそれは霧散し、いつも通りの柔和な笑顔を浮かべたルキア。
そのまま彼は、グレイスにも見えるように書類を彼女の方へ寄せた。
「……見えるかな?」
「はい。大丈夫です」
グレイスは席次表を覗き込む。
これは選択肢を一つでも間違えれば、ルキアを失望させ、大幅に好感度を下げることになる。後半からの巻き返しはほぼ不可能だ。
けれど、このゲームでの選択肢は全てグレイスの頭に入っている。
グレイスは一つ小さく呼吸をすると、静かに指先を走らせた。
「今回の学園祭は【学術交流会の意味合いが強い】とのことでしたので……【外交プロトコルではなく、寄付金の順位と学園への関与度が優先される】はずです。なので、この順序が最も摩擦がないかと」
さらに、理事会の意向、他国からの視線、学園の既定方針。
それらを全て押さえた上で、グレイスは誰も不満を言えない配置を即座に提示した。
グレイスがさらりと示された案は、既存の問題点をすべて回避している。
ルキアの黄金の瞳が、驚きからかわずかに揺れる。
「……君は、どうしてそれを?」
「仕事を効率的に行うために、必要な範囲の勉強をしただけです。……えっと、いつか、ルキア様のお役に立てるかもしれない、という気持ちもありましたが」
グレイスははにかみつつも、にっこりと微笑んだ。
優しく柔らかな笑顔。
最近、グレイスのこの顔を見ると、ルキアはわずかに耳を赤らめることが増えてきた。
そして今。
全て正解の選択肢を選んだことで、また彼の好感度が上がったようだ。
グレイスから目を離さない、いや、離せないでいるのがその証拠だ。
ルキアはそれからも、しばらく食い入るようにグレイスを見つめていたが、静かに息をついた。
「……本当に驚いたよ。僕はこれでも、小さい頃からこうした席次に触れてきたつもりだったんだけど……」
その声音には、わずかだが柔らかい笑みが滲む。
「君と話すと、そしてその笑顔を見ると、不思議と視界が開ける気がする。……心が軽くなる、というか」
ルキアの呼吸が、ふっと浅くなる。
その目に宿る温度が、彼自身まだ名前を知らない感情を示していた。
表情が緩む――抑えようとして抑えきれない温度。
……ああ、気づき始めたのだ。自分の中に芽生えた感情に。
同時にグレイスの心は冷たくなっていく。
グレイスの笑みがほんの一瞬だけ止まった。
だがもちろん、この時思った感情を表に出すことはない。
「私なんかがお役に立てたのなら、その、嬉しいです。あっ! 今回の席次は重要ですから、もう一度念入りに確認しますね」
「なんか、なんて言うものじゃない。君は十分頼りになるよ、グレイス嬢」
ルキアが微笑む。
その笑顔はあまりに純粋で、優しくて、まっすぐで――。
かつてアレクを追い詰めた善意の象徴でもあり、少し違うのは、そこにルキア自身もはっきりと自覚していない熱が灯り始めていることだろう。
グレイスはぺこりと会釈し、作業に戻る。
そうしてまた一つ、ルキアの信頼と特別が積み上げられていくのだった。




