28.そして黒い炎はさらに強く
このゲームでは恋愛段階が三つに分かれている。
第一段階――生徒会での有用性を示し、信頼を得る。
第二段階――その信頼が、恋の芽として膨らむ。
第三段階――恋人未満のまま想いを深め、卒業パーティー前の告白へと至る。
学園に入って四カ月。
グレイスは予定通り、この時期に起こるとされている、三人それぞれのキーポイントイベントをすべて消化し終えている。
ルキアの【理想に滲む微熱】。
セヴランの【理性の静かな揺らぎ】。
ロアンの【胸に宿る小さな灯火】。
これらは第一段階半ばに起こるイベントで、攻略が順調だという証になっている。
もうまもなく、第二段階へと上がるためのイベントが起こるだろう。
その後は、小さなイベントを消化しつつ、学園祭の日に用意されている三人の【過去の後悔】イベントへと繋げる。
そこでもう一段階深く彼らの内側に踏み込み好感度を最大限上げれば、最後に卒業前の告白イベントに進むことができる。
流れはやはりゲーム通りで、大筋は変わらない。
違うのは、ヒロインが、純粋な恋をする少女グレイスはなく、復讐を誓ったグレイスだということだけ。
だからグレイスは今日も、与えられた仕事を完璧にこなしながら、三人に都合よく愛され、生徒達から嫌われない努力家の特待生としての仮面を被り続けている。
けれど、どれだけ順調に物語を進めていても時々、耳に届いてしまうのだ。
――アレクの話が。
◆
「ねえ、前にいた特待生の人の話、知ってる?」
昼休みの食堂。
トレイを抱えた一般生徒たちのざわめきの中で、何気ない噂話として、ふとその言葉が聞こえた。
グレイスは一瞬、クラスメイトの言葉に手を止める。
だがすぐに、聞いていません、という顔で、隣の席の子に首を傾げた。
「前の特待生ですか……?」
「うんうん。ほら、グレイスちゃんと同じでさ、孤児院出身の特待生で、生徒会にも入ってたっていう……」
「ああ、そういえば……少しだけ聞いたことがあります。半年で、退学してしまった方、ですよね?」
できるだけ穏やかに。
興味を持っただけの、一年生らしい声音で。
「そうそう。その人さ、めちゃくちゃ生徒会の仕事抱え込んで、それで体壊したんだって。自分で全部やろうとしてさ」
「自分で……?」
「うん。なんか、自分の能力を認めてもらうためにって、どんどん仕事引き取ってたって噂で」
そこまで言うと、今度は向かいの席に座るクラスメイトが肩をすくめる。
「私たちが直接そのアレクさんを見たわけじゃないけどさ。正直自業自得ってやつじゃない? 無理して倒れるとか、迷惑かけてるし」
「確かルキア様達は、最後まで心配してたって聞いたよ? 『あの時、もっと気を付けていればよかった』って、すごく反省してたって」
「あー、らしいね。さすが王子様方って感じ。優しいよね」
「ね。だからさ、グレイスちゃんもあんまり無理しないでね? 前の人みたいになったら大変だし」
にこ、と心配そうに向けられる笑顔。
その善意に満ちた瞳を見て――グレイスは静かに息を吸い込んだ。
違う、全然、違う――!
喉の奥まで込み上げた言葉を、けれど口から出る寸前で飲み込む。
アレクが仕事を抱え込んだのは、確かに認められたい、という想いもあっただろう。
誰かに頼まれたから。期待されたから。
そして、君ならできると言ってくれた人たちの期待に応えたかったからだ。
だから、限界を超えていることも、寝不足が続いていたことも分かっていたのに、それでも手を放さなかった。
けれどそこまでアレクを追い込んだのは、他ならぬあの三人なのだ。
彼らに頼られて、普通の人間が断れるはずがない。
そして不幸なことに、アレクにはそれに応えられるだけの能力があった。
――アレクが倒れたのは、彼らの期待と依存が原因なのだ。
けれど、アレク自身を、そして生徒会室でどんなやりとりが行われていたか知らない生徒たちにとっては、そんな背景など関係がない。
見えているのは結果だけ。
前の特待生は、無理をして倒れた。
だから退学した。
ルキアたちはそれを心配し、今も悔やんでいる。
――それが、この学園の『真実』として、優しい色に塗り替えられている。
「ふふっ、ありがとうございます皆さん。私も気をつけますね!」
グレイスは、完璧な笑顔でそう返した。
心配されて嬉しい。
努力する特待生は尊敬する――そう周りから思わせる笑み。
けれど、体の奥では、胸を焼き焦がすほどの熱いものが込みあげそうになっていた。
◆
放課後、廊下を歩いていると、ふと掲示板の前で足が止まった。
進級時に更新された特待生一覧と、退学・転校者リスト。
整った文字で並ぶ名前の中に、グレイスは見慣れた名前を見つける。
『アレク・エルミナ孤児院――自主退学』
その横には小さく、赤いスタンプで『退学処理済』とだけ押されていた。
胸の痛みが、再びじくりと疼く。
自主退学。表向きはそうだ。
けれど、違う。
彼は逃げたんじゃない。
それなのに紙の上では、『自主退学』の一言で葬られている。
そして、今年の特待生一覧にあるグレイスの名前の横にある孤児院の名前は、ルノワール孤児院。名前も地域も全く別物だ。
本当は事実を叫びたい。
もしこの場で、
「前の特待生は自業自得なんかじゃない」
と声を上げたらどうなるだろう。
けれどグレイスとアレクは、書類上ではまったく関係のない他人になっている。
それなのにどうしてそんなことを知っているのか、と問われるだろう。そうしたら、偶然が重なりすぎていると気づかれてしまうかもしれない。
同じ孤児院出身。
同じ特待生。
同じように生徒会へ。
ルキアたちは鋭い。特にセヴランは、些細な矛盾も見逃さない。
ほんの少し口を滑らせただけで、全てが水の泡になるおそれがある。
だから、何も言えない。
教室でも。
食堂でも。
廊下でも。
アレクの話が出るたびに、グレイスは何も知らない特待生として笑う。
「そうだったんですね……」
「私も、気をつけないと」
「前の方は、きっと頑張りすぎちゃったんですね」
同じ孤児院で育ったアレクの痛みを知っている人間の顔ではなく。
この学園が望む、都合のいい特待生の顔で。
◆
ある日の帰り道。
夕方の光が傾き、石畳の影が長く伸びる。
寮へと続く道の途中で、グレイスは立ち止まった。
何気なく視線を向けた先――中庭に面した廊下の窓辺には、今もアレクが考案した書式のままの申請用紙が積まれている。
余白の取り方、欄の配置、記入側の負担を減らした書き方。
誰も、それが誰が作ったのかを意識していない。
ただ便利だから、そのまま使っている。
他にもアレクの痕跡はまだあちこちに残ってるのに、本人だけが、いない。
アレクが残したものを、みんなが平然と使いながら、彼の本当の姿は誰も知らない。
それが一番、グレイスには悔しかった。
グレイスは堪らず息を吐く。
冷たい空気が肺に入り、熱くなりかけた頭を、少しだけ落ち着かせるように一度目を瞑るとゆっくりと深呼吸する。
そうして再び目を開けたグレイスは、いつもの特待生グレイスだった。
明日もきっと、アレクの噂話はどこかで耳にするだろう。
グレイスはまた、何も知らないふりをして笑う。
そうしてその度に、ゆっくりと、言葉にならない感情が確実に育っていく。
――アレクの痛みが、彼女の中で消えることはない。
持って行き場のない想いは声にならないまま黒い炎となって、明日もまた、グレイスの胸の奥で静かに燃え続けるのだ。




