23.ロアン編:『誇り』の崩壊
夕方の生徒会室。
薄いオレンジの光が机の上の書類を照らし、規則的なペンの音だけが響いていた。
ロアンは隣で作業をするアレクに向かって、いつものように笑った。
「アレク、次はこの書類なんだけど――」
そう言おうと口を開いた、その瞬間。
ぱさりと紙が落ちる、小さな音。
続いて、椅子がきしむ嫌な予感の音。
そしてアレクの身体が、ゆっくりと椅子から滑り落ち、冷たく固い床に沈んでいく。
まるで糸が切れたように。
支えを失った人形みたいに。
「アレク!?」
ロアンは椅子を蹴り飛ばすような勢いで駆け寄ると、彼の体を抱える。
いつも以上に細い肩――その体はまるで氷のように冷たく震えている。
息も浅く、喉がひゅう、と鳴る。
ルキアも書類を落とし、呆然と立ち尽くしている。
セヴランもアレクへ歩み寄ると、ロアンに対して冷静な声で指示を飛ばす。
「倒れて頭を打った可能性がある。ロアン、頭を支えろ。アレク、聞こえるか?」
その言葉に従ってロアンがアレクの頭を支えている間、セヴランの台詞にアレクが返したのは、謝罪の言葉だった。
「……す、みません……」
声を出すことすら苦しいはずなのに、それでもアレクは喉の奥からしぼり出すようにそう言った。
「なんで謝るんだよ!? お前、倒れたんだぞ!」
ロアンは半泣きになりながら声をあげたが、アレクは苦しげな呼吸をしながら、申し訳なさそうな顔で、焦点の合わない瞳でロアン達を見つめる。
保健医が来るまでも、ロアンはアレクにずっと声をかけ続けていたが、アレクはずっと、すみませんと消え入りそうな声で謝罪を続けるだけだった。
その後ルキアが連れてきた保健医と共に、ロアンはアレクを抱いて保健室へと向かう。
その体は、乱暴に扱えば折れてしまいそうな程に細くて脆く、出会ったばかりの、細身ながらもしっかりと男性的だったアレクの面影はまるでない。
「すぐに医者を呼んでくるので、ロアン君は彼を見ててあげてください」
そう言って保健医が去った後、ベッドに横たわるアレクを見つめながら、ロアンは泣きそうな顔でアレクに尋ねる。
「おいっ……アレク! なんで、なんでこんなになるまで、言わねぇんだよ……!」
震える声は、怒りというより悲鳴に近かった。
ロアンの問いに、アレクは苦しげに喉を震わせる。
乾いた息を何度も吸おうとして、うまく吸えず、浅い呼吸が喉で途切れる。
「……し、仕事が……多くて……処理……しきれなくて……」
その弱々しい告白は、消え入りそうに細い声だった。
「仕事が、多いって……なんだよそれ……!」
ロアンは勢いよく立ち上がり、怒りを隠しもしない。
「ルキアもセヴランも、アレクに期待しすぎなんだよ! お前がどれだけ頑張ってるか、少しは考えろってんだ! なんで……なんでここまで追い詰めるんだよ……!」
怒声が保健室に響く。
その声は、アレクをこんな風にした彼らへの本気の怒りが滲んでいた。
しかしアレクは苦しい呼吸の合間に、小さく首を横へ振る。
「……ちが……います……ぼくが……勝手に……っ、もっと……できるって……」
「そんなわけねぇだろ!」
ロアンは叫ぶ。
叫びながら、胸が焼けるように痛む。
怒りが、どんどん膨らんでいくはずだった。
――その時。
ロアンの脳裏に、突然いくつかの記憶が鮮やかに蘇る。
放課後の生徒会室。
積まれた書類を前に、笑いながら言った自分の声。
『あー無理無理! 俺、書類仕事とか向いてねぇし! アレクの方が早ぇからさ、頼んだ!』
それに、アレクがロアンに助けを求めるような声で、
『その……実は……抱えている仕事が多すぎて……せめて……せめてロアン様の分だけでも……少し……ロアン様ご自身で……』
そう言った時、ロアンは何と答えたか。
『え、いや無理無理! 俺、書類仕事ほんと向いてねぇんだって! ほら、俺がやるよりアレクがやったほうが早いし、正確だし! あ、仕事が多いってんなら生徒会室に泊まればいいんじゃね? 俺、寝袋とか持ってるから貸してやるよ!』
――自分がアレクに何をしてきたのか。その事実が雷みたいに胸を貫いた。
ロアンの全身が固まる。
さっきまで燃えるようだった顔から、血の気がすっと引いていく。
「……あ……れ……?」
喉が勝手に震える。
言葉がうまく出てこない。
「俺……」
ゆっくりと、ロアンはアレクを見る。
アレクは責めるでも、避けるでもなく――ただ申し訳なさそうに、苦しげな目を伏せていた。
その姿が、ロアンの心を潰した。
「俺……お前に……仕事、押しつけてた……?」
視界が滲む。
涙が溢れそうなのを、ロアンは必死で噛み締めて堪える。
アレクが答えようとしたが、弱い息が喉でつまって声にならない。
代わりに、小さく震えた唇だけがなにかを肯定するようにも見えた。
「アレク……もしかして……俺のせいで……?」
その問いは、自分自身を切り裂くように痛い声だった。
ロアンは堪えきれず、アレクの手を強く握る。
「なぁアレク……頼む……否定してくれよ……! 俺のせいじゃねぇって……言ってくれよ……!」
しかし返ってくるのは、苦しそうな呼吸だけ。
それはもはや、ロアンにとっては肯定に等しかった。
ロアンは、守るための腕で、助けたかった心で。
自分の笑顔で、善意で。
アレクを壊した。
守るはずの腕で、人を傷つけてしまうなら……それはもう、騎士ではない。
それがはっきりと、逃げようのない事実として胸に焼き付いた。
その瞬間、ロアンが騎士として信じてきたすべてが――。
アレクのかすかな息とともに、静かに崩れていった。
◆
アレクが孤児院へ戻された翌日。
その日ロアンは生徒会室に入ることができなかった。
中に入ろうとノブに手をかけるものの、その瞬間、アレクの細い身体を抱きかかえた感覚が蘇る。
震えて謝った声も。
熱のない手の冷たさも。
そして、ロアンもアレクを壊した一端だったという、その事実を。
……俺が……壊した。
他ならない俺が、アレクを。
その言葉が胸の奥で何度も反響していた。
だからロアンは、昼休みも放課後も、生徒会室を避けるように訓練場へ向かった。
誰もいない夕暮れの訓練場。
剣を握った手が、やけに重い。
「……はっ……!」
振り下ろす。
砂が舞う。
「はぁっ……!」
もう一度。
何度も、何度も。
剣の音で、アレクの謝る声を、己の罪悪感をかき消したかった。
けれど、どれだけ振っても心の奥に残った痛みは消えない。
守れなかった……それどころか俺はあいつを壊した。俺は……騎士失格だ……!
アレクを救えなかった悔しさ。
アレクを壊してしまった罪。
どちらも容赦なく胸を締めつける。
けれどその苦しさの中で、ロアンの心は見たくない現実から目を背けるように、アレクへの不満が噴出する。
――そもそもあの程度で壊れるとは想像もしていなかった。
アレクという男は、もっと強いとばかり。
そしてロアンは唐突に気づく。
「そっか、俺は……」
これまで無意識だったが、ロアンが頼っても倒れないほどに強くて優秀だと思ったからこそ、ロアンが守る価値があると考えアレクのそばにいたのだと。
なぜなら、アレクを守ることで騎士としての自身を確立できたような気がしたから。
……ならば、もう二度と同じ過ちは犯さない。
守るべき相手を間違えない。
弱いだけの人間を守っても意味がない。
今度こそ、強くて己が守るのにふさわしい人間を見つけて、守る。
守れなかった自分には、絶対に戻らない。
誰かを壊す自分なんて、認めない。
剣を握りしめる手に、力が入る。
アレクの弱い肩が腕の中で崩れた感触。
あの細い指。震えた声。
全部、胸の奥にこびりついたまま。
だからこそロアンは誓う。
ロアンは騎士だ。
敵から守ることこそが彼の騎士としてのあり方。
そのために、もっと強くなる。
もっと努力する。
ロアンに事務能力はない。そんなものにロアンの力を使う必要はない。
それは、ロアンが守るべき相手がすればいいこと。
代わりにロアンが敵から守るのだから問題はない。
そうして、壊して守れなかった過去を埋めたい。
失った誇りを取り戻したい。
その考えこそが歪んでいると気づかぬまま、ロアンは剣を振り続ける。
胸の奥で、何度も何度も刻みながら。
——次こそは守る。
誰も壊さない。
絶対に……二度と。
この腕は壊すためじゃない、誰かを守るためにあるのだから。
「見ててくれよな、アレク。俺、今度こそ絶対に人を助ける騎士になるから」
強い風が吹き抜け、ロアンの言葉をさらう。
それでもロアンは吹っ切れたような笑顔を浮かべ、汗と涙で濡れた顔を袖で拭い、なおも剣を握り直した。




