22.セヴラン編:『歯車』の崩壊
書類がばさりと落ち、続いて、ドサッ と鈍い音が、室内に響いた。
不快な音に思わず顔を上げたセヴランだったが、目の前に広がる光景に一瞬息を呑む。
先程までいつもと変わらず――普段よりも明らかに効率は落ちているもののまだ許容範囲だったアレクが、床に倒れていたからだ。
「アレク!?」
真っ先に叫んだのはロアンだった。椅子を倒しながら倒れたアレクに駆け寄る。
ルキアも書類を落とし、呆然と立ち尽くしている。
セヴランもアレクへ歩み寄り、様子を確認する。
意識はある。
だが目は焦点が合わず、呼吸もひどく浅かった。
セヴランが一瞬で状況を判断し、冷静な声を出す。
「倒れて頭を打った可能性がある。ロアン、頭を支えろ。アレク、聞こえるか?」
呼びかけに、アレクの唇がかすかに動く。
「……す、みません……」
しぼり出すような声だった。
「なんで謝るんだよ!? お前、倒れたんだぞ!」
ロアンは半泣きになりながら声をあげたが、アレクは申し訳なさそうに、苦しげな呼吸を続けるだけだった。
「アレク。返答しろ。何が起きた」
セヴランはさらに詳しく状況を確認しようとアレクに声をかける。
だがその声は冷たく、アレクの体調を慮る様子は微塵も感じられない。
アレクは掠れた息を漏らしながら、震える指を床につく。
「……す、みません……っ、だいじょうぶ……で……す……」
「大丈夫に見えないからっ!」
「質問に答えろ。何が起きた」
淡々としたその問いは、まるで機械が壊れた原因を確認するようだった。
アレクの瞳が揺れ、倒れたまま必死に息をつぎながら、か細い声で答えた。
「……み、認めて……もらえたの……が……嬉しく、て……だから、無理して……こんなことに、なってしまって」
その言葉を聞きながら、セヴランの脳裏では、原因・結果・損失の三点だけが冷静に並べられていく。
そこに情緒は一滴もなかった。
そしてセヴランは現状で最もふさわしいことは何かをすぐに判断する。
未だ呆然と立ち尽くすルキアの意識を呼び戻すように、セヴランは声を上げた。
「ルキア! 保健医を!」
「……え……あ、ああ……!」
その声でルキアはようやく我に返り、廊下に走り出した。
保健医が来るまでも、ロアンはアレクにずっと声をかけ続けていた。
対してセヴランが見ているのは――アレクの蒼白な顔でも、乱れた呼吸でもなかった。
適切な量を判断して与えていたつもりだった。だが、まさかこの程度で壊れるとは。
それだけ己の見る目がなかったのか、もしくは想定より脆弱だった。
そう判断する以外に、セヴランの感情は動かなかった。
これでまた生徒会の仕事が滞ることになる。
あの様子では復帰はおそらく難しい。壊れた以上、次の代替手段を考えねばならない。
セヴランはその現実に静かに息を吐いた。
◆
セヴランの考えた通り、アレクの復帰は絶望的で、彼はそのまま学園を退学することとなった。
そんな、アレクの退学を聞いた翌日。
間もなく夜が近づこうとする生徒会室。
窓の外では風が木々を揺らし、部屋には紙をめくる音だけが淡々と響いていた。
セヴランはひとり、机に積まれた資料を束ねていた。
残されたのは、整然とした静寂と、以前のように山になった未記入の書類だけ。
ふと、アレクが最後に触れていた書類の束が視界に入った。
半分まで記入され、途中でインクが薄れている。そこで作業の手が止まる。
セヴランはその紙を持ち上げ、しばらく無言のまま見つめ続けた。
「……どこで、計算を誤った」
それはアレクを責める言葉ではない。自分自身に向けられた硬い呟きだった。
机の端に静かに置いたはずの書類が、わずかに震えて端が折れた。セヴランの眉間に深い皺が寄る。
「あの男に……せめて負荷に耐えるだけの強度があれば、計画に狂いは生じなかったものを」
言葉の先は霧散した。
代わりに拳が机を叩く乾いた音だけが、静寂の中で不自然に響く。
それは、普段なら感情を表に出すことなど滅多にないセヴランにとって、あまりにもらしくない仕草だった。
だからこそ、その怒りは小さくても異様に重く、彼の内側で何かが確かに軋んでいるのが分かった。
だがそれは、アレクへの怒りでも後悔でもなかった。
自分の完璧な計算に、傷がついたことへの反応。
計算外の崩壊。
想定していなかった脆さ。
完璧主義のセヴランには、それが何より許せなかった。
……だが、本当に自分は間違っていたのだろうか。
「いや、違う」
セヴランは一人言葉を吐く。
セヴランが間違えるはずがない。
セヴランはいつだって正しい。
彼が判断を誤ったことなど、ただの一度もない。
しかし現実問題、アレクは倒れた。
状況から判断するなら、原因はアレク自身でさばききれなかった業務の多さ。
そしてその量を与えていたのは、セヴラン自身。
――認めるわけにはいかない。
セヴランは間違ってはいけない。
ならば今回の結果は……。
セヴランは息を吸い、紙を指先でなぞり、一拍置いてから呟いた。
「例外だな」
アレクの能力を見極め仕事を与えるのが、セヴランだけならば問題はなかった。
そこに、ルキアとロアンも加わったこと――この外的要因こそが、アレクが故障した原因。
つまりセヴランは何も間違っていない。
ルキアの過度な期待と、ロアンの丸投げ体質。
あの二人が感情に流されず、もっと適切に、合理的にアレクの状況を判断できていればこのようなことにはならなかったものを。
それにアレクのあの言葉。
『認めてもらえるのが、嬉しくて』
アレクが抱いたその感情もまた、彼が壊れた一因だ。そんなあやふやなものを持つこと自体が非合理的としか言えない。
やはり感情は不要だ。
都合のいい道具が壊れたことは戦力の大幅低下であり、頭が痛いことだ。
しかし己の考えが正しかったことが証明されたという点では、アレクが壊れたことも無駄にはならない。
次こそはアレクよりも優秀で、彼よりも壊れない頑丈さを持つ道具で。
そして、セヴランの正しさを証明できる、彼の考えを補強できるほどの歯車が現れてくれればいいと、そう静かに願うセヴランだった。




