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21.ルキア編:『理想像』の崩壊



 夕刻の生徒会室は、静かな紙の音だけが支配していた。

 

 アレクは、机の横に積まれた書類の山を一つずつ精査し、分類し、まとめ、必要な箇所に赤字を入れていた。

 その動きは、いつもよりあきらかに遅い。

 呼吸の間隔も短く、指先は白くなり、血が引いている。

 それでもアレクは、机にしがみつくようにして作業を続けていた。


 その様子を見ていたルキアは、一瞬声をかけようか躊躇った。

 しかしアレクの仕事ぶりに、彼の作った書類に目を奪われ、アレクを気遣うために開きかけた唇をルキアは閉じ、これまでのように異変に気づかないふりをした。


 ――その瞬間だった。


 紙の束を持ち上げようとしたアレクの指が、ふっと緩む。


 書類がばさりと落ちた。

 続いて、ドサッ と鈍い音が、室内に響いた。


「アレク!?」


 真っ先に動いたのはロアンだった。

 椅子を蹴るように立ち上がり、アレクのもとへ駆け寄る。

 床に倒れたアレクは、目を見開いたまま焦点が合っていない。

 肩が小刻みに震え、呼吸はひどく浅かった。


「お、おいアレク! 大丈夫か!? しっかりしろよ!」


 ロアンの声は裏返り、ほとんど叫びに近い。


 その間セヴランが一瞬で状況を判断し、冷静な声を出す。


「倒れて頭を打った可能性がある。ロアン、頭を支えろ。アレク、聞こえるか?」


 呼びかけに、アレクの唇がかすかに動いた。


「……す、みません……」


 しぼり出すような声だった。


「なんで謝るんだよ!? お前、倒れたんだぞ!」


 ロアンは半泣きになりながら声をあげたが、アレクは申し訳なさそうに、苦しげな呼吸を続けるだけだった。


 その光景を、ルキアは――ただ立ち尽くして見ていた。


 何が起こったのか、一体どうしてこんなことに……。ルキアの顔から血の気が引き、頭が真っ白になる。


 すると呆然としていたルキアの意識を呼び戻すように、セヴランの怒号が飛んでくる。


「ルキア! 保健医を!」

「……え……あ、ああ……!」


 その声でルキアはようやく我に返り、廊下に走り出した。

 だが心の中は、混乱で埋め尽くされていた。


 アレクが、倒れた。

 彼はいつも完璧に――いや、ルキアの理想のために完璧であってくれたのに……。

 その思考自体が、既にズレていることに気づかぬまま。


 保健医を呼び、生徒会室へ戻った時、アレクは薄く目を開いていた。

 その視線は真っ直ぐルキアを捉える。


「ルキア、様……すみません……ルキア様の……期待に……応えた、くて……」


 掠れた声は、涙に滲んでいた。

 ルキアは胸を掴まれるような痛みを覚えた。


「どうして……言ってくれなかったんだ……? 辛いなら、無理だと言えばよかったんだ……」


 けれどルキアは知っていた。 

 与えられた膨大な仕事を遅くまで一人でこなし、最近は学校側に申請して、寮にも戻らずこの部屋で作業をこなしていたことを。

 そのせいで、アレクは既に限界が近かったと。


 けれどルキアは、それを放置した。

 彼に仕事を与えることが、孤児院育ちのアレクの将来に繋がる――ルキアの思う、輝かしい理想の未来に繋がると。


 そしてその未来のために、ルキアは、アレクを見殺しにしたのだ。

 罪悪感で潰されそうなルキアに、しかしアレクはどこまでもルキア好みの善良な民だった。


「……そんな……こと……言えるわけ……ない……です……。だってルキア様が……僕を……信じて、くれたから……。だから……期待に、応えられず……申し訳、ありません」


 その声は、ルキアへの揺るぎない感謝が込められていた。

 同時に、ルキアの期待がどれほど重かったかの証でもあった。



「彼は保健室のベッドで休ませます。とりあえず医者を呼びますので」


 保健医の言葉に、


「俺が運びます!」


 ロアンが、入学時よりも更に細くなったアレクの体を持ち上げ、二人が去った後、


「私は教師に報告を」


 セヴランがそう言って、生徒会室にはルキアだけが取り残された。


 誰もいない静かな空間の中、ルキアはアレクが倒れるその瞬間まで作っていた書類に目をやる。


 字はわずかに震え、それでもその出来は素晴らしく、ルキアの胸がぐっと痛む。


 だがその痛みは、アレクをここまで追い詰め苦しませたことに対する罪悪感ではない。


 ――自分の理想が崩れたことに対する痛みだった。



 アレクが孤児院へ戻ったという知らせが届いたのは、それから三日後だった。


 生徒会室には、彼が使っていた席がぽっかりと空いている。その机の上には、彼が最後に整理した書類が整然と置かれたままだった。

 それを見つめているだけで、ルキアの胸がひりつく。


 ルキアは静かに息を吸い、そして、吐くと同時に椅子へ腰を落とした。

 どさり、と重い音が響いた。


 アレクが去った生徒会室は、想像以上に広く感じる。

 沈黙が、ルキアの両肩にのしかかった。


「……僕は……間違えたのか……?」


 その呟きは、誰に届くこともなく静かに消えていく。


 けれどルキアはすぐにその自問に対して、否定するように首を横に振った。


 ……いや、違う。

 平民でも能力があれば国を動かせる――その理念は間違っていない。

 それを示すために、アレクはやはり最適だった。

 有能で、真面目で、ルキアが示したかった未来を体現してくれる存在だった。


 間違えたのだとしたら、彼に与えられた仕事の量だ。

 

 考えてみればアレクは、セヴランにも期待され仕事を与えられ、ロアンからは自分の仕事を押し付けられていた。それだけアレクという男が有能だったという証拠だ。


 ――それにしてもあまりにもアレクは弱かった。

 本物の光ならば、決してその輝きが失われることはなかっただろう。

 今回はと期待していたのだが……。


 これまでルキアはいくつも光を見てきたが、そのどれもが道半ばで朽ちていった。

 落ちてしまった光の残骸たちが、ルキアの足元には積み重なっている。


 その中でもアレクという存在は、もっとも強い光を放っていたのに。

 壊れてしまったのは本当にもったいないと、ルキアは初めて、朽ちた光に対してそんな感想を抱く。


 この傷はおそらく、生涯消えることはないのかもしれない。


 だがルキアは、己の理想的な未来を諦めるつもりはない。


 もし次の光を見つけることができたのなら――。


「今度こそ、強い光であればいいな……」


 何があっても決して壊れない強い光。

 次はそんな象徴と、理想の未来へ向かって歩いていければいいと、そう決意したルキアだった。



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