20.ロアン編:『無責任』な期待
ロアンは、生徒会の庶務である。
一度剣を握れば現役の騎士にも勝てるほどの腕を持つロアンの手は、今ペンを握っているのだが――。
その手は汗ばみ、目は泳ぎ、書類の上で迷子になっていた。
「剣ならいくらでも振れるのに。なんで字だけこんなに難しいんだよ……」
ロアンはぶつぶつ文句を言いながらも、机の上の書類は一向に減る気配がなかった。
しかし、部屋の奥で書類に目を通しているセヴランが手を貸してくれる様子はない。
どうしようかと頭を抱えていると、ロアンはふと、アレクの姿が視界に入った。
まだ生徒会に入って一カ月だが、彼の能力は誰もが目を見張るものだった。
そんな頼りがいのある友人に、ロアンは声をかけてみる。
「……なあアレク! 悪いんだけど、ちょっとこの清書、手伝ってくれねぇか?」
勢いよく椅子から身を乗り出して声をかけられたアレクは、一瞬驚いたように目を瞬かせたが――。
「えっ……あ、はい! 僕でよければ!」
すぐに手元の書類を抱えて駆け寄ってくる。
「マジか! 助かるー!」
ロアンの顔がぱっと花が咲いたように明るくなる。
アレクの手際は見事だった。
丁寧で、正確で、速い。
文字の美しさも、整えられた構成も、ロアンの苦手な部分をすべてカバーしていた。
「すっげぇ……! なんでそんなに上手いんだよ!?」
「これ、得意なんです。昔から、よく子どもたちの書類の代筆をしていたので……」
「なるほどな! いやほんと助かるわ、アレク!」
ロアンは心の底からの笑顔を向けると、アレクは照れたように頬を掻く。
と、二人の空気を切り裂くような鋭い声が飛んでくる。
「ロアン、終わったのなら早くそれを持ってこい」
「なんだよ、俺は今アレクを褒めるのに忙しいんだけど」
しかしギロリと睨みつけられ、肩をすくめながらロアンは、アレクの仕上げてくれた書類をセヴランの元へ持っていく。
セヴランはパラパラとめくり最後まで目を通すと、彼らしく一言で述べた。
「問題ない」
セヴランの隣から顔を出し、書類を確認したルキアも、同様に褒める。
「正確で丁寧なのにスピードもある。さすがはセヴランが見込んだだけのことはあるね」
「だよなぁ。セヴランって人を見る目だけはあるもんな。やっぱアレクすげぇわ」
「これならもう少し仕事を任せられるかもね」
ルキアからのアレクへの評価を聞いたロアンは、悪気なく笑って言った。
「さすがだなアレク! なら次も頼むな!」
「ぼ、僕でお役に立てるのなら」
アレクは、自分が必要とされていること、そして皆に認められていることに、わずかに頬を赤らめてみせた。
それからも、ロアンは事あるごとにアレクに声をかける。
「なぁアレク、ここなんだけどよぉ」
「は、はい!」
「アレク、この書類全然意味が分かんねぇんだけど」
「……はい、今、行きます」
「マジで報告書って書くの苦手なんだけど。お、アレク、今手空いてたら手伝ってくれよ!」
「……はい……」
声をかけるたび、アレクは必ず「はい」と返し、すぐに隣へ来てくれた。
そして、ロアンの苦手な書類は驚くほど綺麗に整い、セヴランもルキアもその出来に目を細める。
……やっぱアレクってすげぇよな。
ロアンの胸には、感心と同時にある結論が芽生える。
それなら俺のやっている仕事、もっとアレクに振ったほうがよくないか? と。
だから素直にアレクにそう伝えた。
「え……っと、それはどういう」
「いやだって、俺がやるよりも絶対アレクがやるほうが早いし、ルキア達も喜ぶし……それに、お前ももっとあの二人に認められるだろう?」
本気でそう思ったロアンがとびきりの笑顔で言うと、アレクはわずかに肩を揺らした。
しかしロアンはそれが疲労のせいだと気づかない。
ただ照れてるんだろう、と解釈した。
「頼む! お前ならできるって!」
アレクは小さく息を吸い、いつものように頷く。
けれどロアンの目には、その頷きが少しゆっくりになったことなど映っていなかった。
「いやぁー、アレクがいて助かる! 俺ほんと仕事苦手だからさ! お前マジ救世主!」
ロアンは本気でそう思っている。
だからこそ、その言葉はどこまでも真っ直ぐで、どこまでも鋭い。
笑いながら背中を軽く叩くと、アレクも笑ってみせた。
ただ、その笑みがほんの一瞬だけ揺れていたことにも、ロアンは気づかない。
これでまた生徒会もスムーズに回る。
ロアンは苦手な仕事をせずに済むし、アレクも活躍できる。
これでみんなハッピー! 考えついた俺、天才じゃね?
そう心から信じて疑わない。
アレクが書類を抱えて席へ戻るその背が、どこか重かったことも見えない。
こうしてロアンはまた一つ、アレクへ頼る理由を増やした。
その善意の笑顔が、アレクにとっては断りづらい鎖になりつつあることなど、思いもしないまま。
◆
アレクが生徒会に入って五カ月余り。
その日、ロアンはふと違和感を覚えた。
いつものようにアレクが書類を抱えて歩いてくる。
――が、その足取りは重く、肩は落ち、視線はどこか虚ろだった。
「……おい、アレク?」
思わず声が出る。
アレクはびくりと肩を揺らし、ゆっくり顔を向けた。
近づけば分かる。
顔色は悪く、目の下には隈。
手にしている書類の束は、今にも崩れ落ちそうなほど多い。
「お前……なんか最近ずっと具合悪そうじゃねぇか。大丈夫か?」
「あ……ロアン様……す、すみません……」
アレクは弱々しく笑おうとしたが、その笑みは形になっていない。
ロアンは胸がざわついた。
アレクがこんな顔をするのは珍しい。
「おい、本当にどうした? 無理すんなよ? なんかあったら、俺に言えよ。俺、誰かを守る騎士目指してんだからさ!」
胸を張って言うと、アレクの瞳がかすかに揺れた。
頼っても、いいんですか……? と。
そんな影が、ほんの一瞬だけ浮かんだ。
「ロアン、様……」
「ん? どうした!」
アレクは躊躇うように視線をさまよわせ、唇を震わせて小さく続けた。
「その……実は……抱えている仕事が多すぎて……せめて……せめてロアン様の分だけでも……少し……ロアン様ご自身で……」
しかしその言葉に、ロアンは軽く手を振って笑って答えた。
「え、いや無理無理! 俺、書類仕事ほんと向いてねぇんだって! ほら、俺がやるよりアレクがやったほうが早いし、正確だし! あ、仕事が多いってんなら生徒会室に泊まればいいんじゃね? 俺、寝袋とか持ってるから貸してやるよ!」
悪意はなく、完全に善意のつもりで告げた言葉。
「んで、他にはなんかないのか? お前が困ってること。何でも言えよ! な?」
ロアンは満面の笑みで言った。
だが――アレクの表情から、すっと光が抜けていった。
「……いえ。なんでも……ありません。大丈夫です」
震えた声だった。
けれどロアンは、それが絶望の震えだとは気づけない。
「そっか? まぁ本当に困ったら言えよな!」
軽く肩を叩くと、アレクは静かに頭を下げ、重い足取りで席へ戻っていった。
ロアンはその背中を見送りながら、無意識に呟いた。
「……あいつ、本当に大丈夫かよ……? 今度なんか精のつくもんでも持っていってやるか」
胸の奥に、説明できない違和感が残る。
だがロアンはまだ知らない。
今のやり取りこそが、アレクに残された最後の逃げ場を奪う、決定打だったことを。




