馬崎優貴の、苦労の多い一日。①
子供の泣き声が聞こえる。
暗い部屋で、子供が泣いている。
ドアからは、隣の部屋の明かりが僅かに漏れている。隣の部屋からは、小さな子供の声と、両親の温かな笑い声が聞こえる。
――――ねえ、父さん。
おれは、駄目な子でしたか?
――――ねえ、母さん。
おれじゃ駄目で、弟が愛された理由は何ですか?
暗い部屋で、子供が泣いている。
子供の、おれが、泣いている。
◆ ◆ ◆
「白?」
温かなベッドの中、自分を呼ぶ声で、銀滝白は目を覚ます。
瞼を持ち上げると、馬崎優貴の心配そうな顔が目の前にあった。
「おはよう。起きたな」
「……おはよ」
白は呟くように返す。馬崎は溜息を吐いてから、寝癖のついた白の髪を乱雑にかき混ぜた。
「いつまで寝てんだ。早く起きろ」
されるがままに頭をぐらつかせながら、白は寝ぼけ眼を細めて唸る。
「凄い顔して寝てたぞ。ちゃんと疲れ取れてるか?」
馬崎は、自分の眉間を人差し指でとんとん叩きながら言った。白は起き上がり、寝起きの枯れた声で応える。
「……なんか、ヤな夢見た気がする」
「そうか。まあ、あんまり気にするなよ」
「気がするだけ。もう覚えてないよ」
「なら良し」
馬崎が立ち上がる。白いスウェットにデニム生地のエプロンという格好が見えて、白はようやく、今日が休日であることを思い出した。
「今日、ユーキがご飯作る日か」
「お前、休日の認識それなの? 嬉しいけどさ」
馬崎は緩く笑い、片手を上げて白に背を向けた。
「朝飯できてるから、早く降りて来いよ」
馬崎が部屋を出て、階段を降りる足音が遠ざかっていく。階下から、明るい女性の声が微かに聞こえる。
白はパジャマからパーカーに着替え、一階に降りた。
「あら白、おはよぉ~!」
降りて早々、元気な声が飛んでくる。足音を聞きつけ、ダイニングキッチンから顔を覗かせたのは、長く癖のある茶髪を一つに束ねた長身の女性だ。
馬崎の母親、馬崎鏡花。
馬崎とそっくりな吊り目を細めてにかっと笑い、鏡花は白の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「今日は一段と髪の毛すごいね~! 芸術じゃん?」
「おはよ、鏡花」
馬崎親子が白の頭を撫でたがるのは、今に始まったことではない。なれっこの白は、やはりされるがままに撫でられてからキッチンの席に着いた。
「いただきます」
三人の声が揃う。馬崎家のルールその一、休日の朝食はなるべく皆で、だ。
「ちょっとパンチ足りなかったかな。母さん胡椒とって、粗挽きのヤツ」
「はいよー」
今日の朝食は、ポタージュ、蒸したカンパーニュ、卵と豆のサラダだ。
白は、肉や魚をはじめ、素材の原型が分かる料理を食べるのが苦手である。白がやってきてからの馬崎家のメニューは、食べやすい野菜食になった。
「白に問題です。今日のポタージュ、何だと思う?」
ポタージュの日には、鏡花が白に原料当てクイズを仕掛けるのが恒例だ。白はポタージュを一口含んで少し考えてから、真剣な顔で答える。
「……野菜?」
「そりゃ野菜でしょうよ!」
からから笑う鏡花につられて笑いながら、馬崎が言い添える。
「ブロッコリーだよ。白、そろそろ食に興味持とうな? そんなんじゃ生きていけねぇぞ?」
「……二人が居るからいいし」
「いつまでも飯作ってやるわけじゃ無いからな。お前も覚えろ」
「優貴、手伝うと怒るじゃん」
「休みの朝だけは超こだわって作ってるからだよ! 昼か夜にしろ。僕の楽しみを奪うな」
二人のやりとりを横から眺めていた鏡花は、やはり笑いながら口を挟んだ。
「あーもう、やめなやめな。あんた本当に口悪いね~。白、優貴のコレ、職場では出てない? 大丈夫?」
「大丈夫。優貴は猫被るの上手いから。鏡花も知ってるでしょ」
「いつか絶対ボロ出ると思うんだよね~」
「話すり替えんなよ母さん。心配されなくても、ボロとか出ないから。家から一歩出たらスイッチ切り替わんの」
馬崎は、大口を開けてカンパーニュを囓る。職場の姿からは考えられない豪快な食べっぷりを眺めながら、白は呆れ顔で呟いた。
「だから結婚できないんじゃないの、ユーキ」
「はぁ?」
ふた口でカンパーニュを平らげた馬崎は、持ちかけたスプーンを置いて白を指差した。
「出来ないんじゃねーから、しねーだけだから! 今僕が結婚なんかしたら、困るのは白なんだからな? そもそも、その気になれば僕はだな」
「はいはい、黙って食べようね優貴。そういえば二人とも、今日は予定ある?」
無理矢理話題を変えられた馬崎は、溜息を吐きながら首を横に振って応えた。
「おれも何もない。ゲームするつもりだった」
「じゃあ、お母さんの買い物に付き合ってくれない? 白の服と靴、そろそろ新しいの欲しいのよね」
「わかった」
白が素直に頷く横で、馬崎は少し考えてから口を開いた。
「……そういうことなら、少し遠出してもいいですか?」
(あ、仕事モードだ)
白と鏡花は顔を見合わせる。鏡花が「良いけど、なんで?」と促すと、馬崎はポケットから手帳を取り出し、日付を確認してから言った。
「少し前に引き受けた仕事のアフターケアです。ショッピングモールに行きましょう」
◆ ◆ ◆
日曜日のショッピングモールは人でごった返していた。
「それじゃあ、私は隣の電器店を見回ってきます。白と母さんは、先に買い物しててください」
「おれも行くよ」
その場を離れようとした馬崎を、白が呼び止める。
「ユーキ、傀朧見えないでしょ」
「仕事の時間外ですし、手伝わなくても良いんですよ? 小型の傀測計も持って来ていますから」
「傀測計だと凄く時間掛かるじゃん。おれの方が便利でしょ」
「便利って……」
馬崎は、言い淀んで鏡花を見た。鏡花が黙ってサムズアップするのを確認して、馬崎は苦笑した。
「……そうですね。お願いします」
「お母さんはゆっくり買い物して回ってるから、二人も寄り道しながらおいでね~」
「すぐ終わるよ、おれがいるから」
「だそうです。終わったら連絡しますから、携帯ちゃんと見といてくださいね」
「はいよ~」
鏡花はひらひらと手を振ってから、足取り軽くショッピングモールへ入っていった。その背中を見送って、白と馬崎はきびすを返す。
「じゃあ行きますか、白君」
「行こうか、係長」
電器店に入ると、強めに効いた冷房が二人を出迎えた。ショッピングモールほどではないが客入りが良い。
「係長」
「何ですか、白君」
「こんなに人が居るところで傀測計使って回ったら、怪しかったんじゃない?」
白の呆れ声に、馬崎は爽やかな笑顔で答えた。
「偉い人が店舗チェックしてるように見えるんじゃないでしょうか」
「流石に見通しが甘い気がする」
「気がするだけです、そんなことありませんって。誤魔化すのは得意ですから」
「それは知ってるけど……」
まさに現在進行形で口の悪さを完封している馬崎に、白はじっとりした視線を向けた。当の本人はけろりとしている。
「それは別として、白君がいてくれて助かりました。偉い人のふりをする必要がなくなりましたからね」
「やっぱりおれ、来て良かったじゃん」
「はいはい、ありがとうございます」
「もうちょい心込めろよ、係長」
無駄口を叩きながらも、白は周囲を入念に観察する。
「……変だ」
訝しげに呟いた白に、馬崎は身をかがめて声を潜める。
「具体的には?」
「傀朧痕が全然無い」
「なんだ、良い事じゃないですか」
拍子抜けした馬崎の返事に、白は首を横に振った。
「違う。全然無いんだ」
馬崎の表情が硬くなる。
「普通なら、どんな場所にも、ちょっとくらい傀朧があるでしょ。ああいうのが全然無い。綺麗に全部、無い」
「……嫌な予感がしますね」
白と馬崎は、足早に電器店の全体を見て回った。どのフロアにも、傀朧は残っていなかった。
「流石におかしいよ、係長――――っ⁉」
言いかけて、白は急に耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。
「どうした、白⁉」
慌てて駆け寄った馬崎に、白は青い顔で言った。
「係長、傀異だ。かなりデカい。さっきまで何もいなかったのに」
「場所はわかりますか⁉」
白は震える手を持ち上げ、ショッピングモールの方向を指差す。
馬崎は目を見開き、慌てて鏡花に電話を掛けた。
「……どう?」
「駄目です」
声にじれったさを滲ませて、馬崎は表情を険しくした。
「繋がりません」
馬崎家の雰囲気、とっても良きですね(●´ω`●)
家では口が悪い馬崎は結構好きです。
さて、今回のショッピングモールは、前回佐竹と一緒に回ったショッピングモールです。
傀朧は祓ったはずなのに、何が起こっているのか? お楽しみに!




