遠ざかる背中その2
森までの道を、3人並んで駆ける。
私に合わせてフィンもエドワルドもスピードを落としてくれているが、風を感じるには充分だった。
夏の終わりを告げる冷たい空気が、頬を掠める。
ああ、やはり連れてきてもらって良かった。
思わず頬がゆるんでしまう私を見て、エドワルドも和やかな微笑を浮かべた。
社交界デビュー直前の張りつめた緊張から解放され、つかの間の安らぎを味わっていると
「それにしても、器用に乗るよなあ」
フィンが私を顎で指して、感心したように首を振った。
「ドレスのまま厩舎についてきたのには驚いたけど、いつの間に横乗りをマスターしていたの? プリンセス」
「レディの嗜みの一つですもの。このくらいは当然です」
私が取り澄ましたように答えると、エドワルドは端正な顔をわずかに顰めた。
「どうせ教師たちの目を盗んで、一人で練習したんだろう。お前付きの侍女が嘆いているのを耳にしたぞ」
「本当におてんばだな、ナタリアは」
フィンは笑って「ちょっとはリセアネを見習わないと嫁の貰い手がなくなるぞ」と続けた。
フィンに悪気はない。
彼は私を腫物扱いしない貴重な友人なのだ。
悪いのは、弱い私の心。
リセアネと比べられるのはいつものことだというのに、未だに劣等感が刺激されてしまう。エドワルドは今どんな顔をしているかしら。哀れみの表情が浮かんでいるんだったら、やり切れないわ。同情だけは我慢できない。いっそ笑ってくれた方がいい。
私はなんでもないような顔を作り、手綱を握り直した。
「おてんばだろうがなかろうが、私を望む方なんているかしら?」
「――王女殿下」
エドワルドの低い声が、私に警告する。
いつもならそこで口を噤むのだけれど、久しぶりに幼馴染である気安い関係の彼らと過ごし、気が緩んでしまっていたのか、露悪的な口調を止めることが出来なかった。
「兄様やリセアネを一目でも見たことがある方なら、私のことなんて欲しがらないに決まってるわ」
「ナタリア!」
「ごめん、ナタリー。俺が悪かった」
王女として自分を卑下することは許さない、とばかりにエドワルドが何かを言いかけた途端、フィンが大きな声でそれを遮った。
幼馴染とはいえ、臣下にあたる彼は滅多に私を愛称では呼ばない。
呼ぶのは本当に何かを伝えたい時だけだったので、私は素直にその謝罪を受け入れた。
「私こそ、ごめんなさい。……嫌な気分にさせるつもりは無かったの。森が見えてきたわ。ねえ、湖まで競争しましょうよ!」
軽く愛馬の腹を蹴って合図すると、意を汲んだように駆けるスピードが上がった。小さく砂土が舞い上がって、軽く一つにまとめただけの私の髪がふわりと浮く。
「早く来ないと、私が勝ってしまうわよ!」
「やれやれ」
笑いながらフィンが追いかけてくる。
エドワルドがその時どんな表情をしていたのか、確かめることは出来なかった。
森の入口からさほど遠くない所に、澄んだ湖がある。
小さな船着場には、2人乗りのボートがつないであった。
リセアネと侍女数名を連れて、暑い日には水遊びに来ることもあるその場所は、愛馬たちの休息場所にはピッタリだ。
「喉が渇いた? ここでしばらく休んでてね」
鼻革を外して軽く撫でてやると、湿った鼻先を手のひらに押し付けてくる。
スペンサーと名付けたこの馬が、私は大好きだった。
「それじゃあ、俺はもうちょっとこの辺りを流してくるよ」
馬上のフィンはそう言うと、軽く手を振って来た道を戻っていこうとする。
私と同じように馬を休めようと鞍から降りていたエドワルドは、驚いたようにフィンを振り返った。
「おい。こんなところに姫を残していく気なのか!」
「お前がついていれば大丈夫だろ。邪魔が入らないように、せいぜい見張りを務めさせてもらうさ。言いたいことあるなら、今日しかチャンスはないぜ、エド」
フィンは謎の台詞を残して、本当にそのまま行ってしまった。
エドワルドの方を見ると、小さく舌打ちした後、苛立たしげに頬すぎまで伸びた綺麗な黒髪をかき上げている。
出会った頃は愛らしさの方を先に感じさせた面差しだったが、今では精悍さが増し加わって、身が竦みそうになるくらいの色気を醸し出している。
――どんな仕草をなさっても絵になる方だわ。
うっとりと自分の方を眺める私に気が付くと、エドワルドはますます苦虫を噛み潰したようなしかめっ面になった。
「なんて無防備なんだ、君は。付添人のいない場所で、男と2人きりになるなと教えられていないのか」
エドワルドがなぜ苛立っているのかは分からないが、その言葉は今の私からはあまりにもかけ離れていた。もちろん、未婚の淑女は男性と2人きりになるべきではないのは知っている。
でもここにいるのは兄同然のエドワルドで、私は『ナタリア』なのに。
「どうしてしまったの、エドワルド様。私の身はいつだって安全だわ」
供もつけずに幼馴染とはいえ異性であるエドワルド達と外出する機会なんて、華の宮に移ってしまえばなくなってしまうだろう。
最後かもしれないお出かけが、こんな気まずい雰囲気なのは嫌だった。
「ここにいるのが私ではなくリセアネだったなら、もっと警戒しなさい、とお説教したくなってしまう気持ちは分かるけれど」
私なら問題ない、と冗談めかしてそう告げた途端、エドワルドは身を翻しあっという間に距離を詰めてきた。
兄にすら許したことのない近さに、エドワルドがいる。
私の鼻が、彼の胸元についてしまいそうな距離に。
昔とは全く違うしっかりとした胸板に手をつくと、その厚みを感じ取った指先が震えた。
「離れて、エドワルド様」
思い切り力を込めて押し返そうとしても、ビクともしない。
エドワルドは黙ったまま、自分の胸に置かれた私の手を取った。
手袋越しに感じる彼の大きな手は熱く、私は泣きそうになった。
「――どうしてこんなこと」
「振りほどけないだろう。ナタリア姫」
苦しそうな低い声に驚き顔を上げようとすると、エドワルドはそのまま私の後頭部にもう一方の手を伸ばし、自分の胸に強く押し付ける。
よろめいた私を、彼は力強く抱き留めた。
「君の力は、男に遠く及ばない。どうして理解しない。君は、もう子供ではないんだ。……もっと自分の価値を知るべきだ。リセアネ姫ではない、だと。そんな言葉は聞きたくない。ナタリア姫……私はあなたが」
途切れ途切れに、エドワルドはその言葉を口にした。
低くあまやかな声が、吐息とともに耳朶を打つ。
私にもっと異性への免疫があれば、その言葉の続きが聞けたのかもしれないが、予想もしていなかったエドワルドの豹変ぶりに、すっかり逆上せてしまったのだろう。そのまま意識を手放してしまった。
私が、次に気が付いたのは自室のベッドの上だった。




