おまけ小話(意地っ張りの代償)~フィン&マアサ~
マアサが『泣き虫マーシャ』だったことをフィンに思い出して貰えてから、4年が経つ。
すなわち4年もの間、フィンはマアサに求婚し続けていることになる。
「そろそろいいんじゃない?」
「そのお話はお断りしたはずですわ」
変わり映えのしないやり取りを思い出したように繰り返す2人が、それでも仲睦まじいことは、今では王宮中の人間が知っていた。
マアサが王宮に上がったのは16になってすぐだったから、思えば8年という長い年月をここで過ごしてきた計算になる。行儀見習いの貴族出身侍女の中ではすっかり古株となってしまった。同時期に勤め始めた娘達はみな、早々と結婚相手を見つけ王宮を去っていったので、同性の親しい友人もこれといっていない。
ちっぽけな領地を持つ男爵令嬢という何とも頼りない肩書の為、苦労も多くしてきたマアサなのだが、ナタリア王女の傍にいられる幸せは、何物にも代えがたかった。
そのナタリア王女が公爵家へ降嫁してしまい、住み慣れた光の宮から本宮へと移ったのは一年前。トリシア王妃陛下付きの侍女として籍は置いているものの、実際に回ってくる仕事は少ない。
潮時かしら、と自分でも薄々気がついていた。
ナタリア王女に仕えているうちは何も言ってこなかった両親も、最近では頻繁に文を寄こしてくるようになった。
母からの長々しい手紙をようやく読み終え、マアサはふう、と目頭を指で揉む。
昨晩遅くまで刺繍をしていたせいか、明るい昼光が目に沁みた。
『パッシモ伯爵家は家柄も領民からの評判も素晴らしく、正直我が家には勿体ないほどのお申し出です。お返事を渋り続けている私の身にもなって欲しいわ。それにフィン様は、あなたの初恋相手ではありませんか。いつまでぐずぐずしているつもりです。殿方の我慢というものは、そう長くは続かないもの。このままオールドミスに成り果てるなんて、お父様も私も許しませんよ』
大した持参金もなく、使い道に困っている飛び地を持っているだけのマアサ・リカルド。他の令嬢であれば、いちもにもなくこの縁談に飛びついているだろう。しかも相手が、王太子殿下の幼馴染であり、彼の近衛筆頭を務めている美男子とくれば余計に。
だが、初恋の相手であり、悔しいことに今もなお恋してしまっているフィン相手だからこそ、マアサはなかなか素直になれないでいるのだ。
――『大きくなったらお嫁さんにしてくれる?』
――『ああ、いいよ。僕の可愛いおチビさん』
10歳の少女を捕まえて「チビ」なんて、今にして思えば随分な言い草なのだが、当時のマアサはそれを自分だけの特別な愛称だと信じて疑わなかった。
王宮に上がり、見知らぬ侍女に熱い口づけを贈っているフィンをその目にするまでは。
それから、気を付けて侍女や女官たちの赤裸々な「ここだけの話」に耳を澄ませてみると、まあ、出てくる出てくる。騎士学校時代から艶な噂が絶えなかったフィンは、騎士として勤め出してからというもの「女性を口説くのも仕事のうち」と弁えていたらしい。
彼のお相手は、貴族の未亡人から平民出身の下働きの女性まで、それはもう幅広かった。
来るものは拒まず、去る者は追わず、が信条なのだと自分でも公言しているというのだから性質が悪い。
救いがあるとするなら、婚姻時に処女性を強く求められる貴族令嬢相手の場合は、最後の一線は超えない、という所だけ。
「でもね。それは素晴らしい愛撫で天国に連れていってくれるそうよ? 私も思い切ってアタックしてみようかしら」
頬を薔薇色に上気させた同僚の一人から耳打ちされた時には、口に含んでいたお茶を盛大に噴いてしまうかと思った。
そんなフィンの「今は君が好きだよ」という甘い台詞に、どれだけの信憑性と価値があるというのだろう。
許すというのは忘れるという意味だ、と昔、教会の神父さまは教えて下さった。
本当にそうならば、マアサはフィンの裏切りを決して許していないことになる。こうして、何かある度に思い返してしまうのだから、忘れるどころか記憶に刻み付けているようなものだ。
だが、今回の手紙はマアサに決断を迫っていた。
『もし、本当にフィン様との結婚が嫌だというのなら、他の方との縁談を受けて貰います』
普段はおっとりとした母の強い筆跡には、本気の程が滲み出ている。
24歳の自分は、世間でいえばすでに嫁ぎ遅れの部類に入る。この分では、有無を言わさずマアサを領地に連れ帰ることも辞さないだろう。
一体、どうすればいいのかしら。
申し込みを受ければいい、という冷静な自分と、フィンの目的はトレッサなのに、といじける自分に挟まれ、なかなか結論を出すことが出来ない。
心から愛する相手に「私の唯一の人だ」と愛を囁かれ、婚姻を結ぶことが、マアサの幼い頃からの夢だった。
そしてその相手とは、間違っても、多数の女性を容易く天国とやらに連れていけるような男ではないはずだ。
幸い仕事は休みだったので、気晴らしに城下に降りてみようか、と思いつく。
お仕着せの制服ではなくクリーム色の清楚なデイドレスに着替え、ショート丈のマントを真珠のブローチで留めた。
王城勤めの者は、基本的に宿下がりの際にしか城を出ることは許されていないのだが、侍女や女官が「お使い」と称して二の郭まで数時間ほど出掛けることは黙認されている。
警備の厳しい大きな正門ではなく、東城門まで回ってマアサは見張りの警備兵に軽く会釈した。
「お疲れ様です」
「いえ。……おや、今日は御一人ですか?」
今まで城下に降りる時は、フィンが一緒と決まっていた。どうやらそのことを知られているらしい。気恥ずかしい思いでコクリと頷く。
「暗くなる前にお戻り下さいね」
「ええ。ご親切にありがとう」
マアサが心から微笑むと、まるで大輪の薔薇が一斉に咲き誇ったかのような華やかさが辺りに満ちる。自分で意識していないのが不思議なほど、彼女の容貌は非常に優れていた。
ある種の色気に満ちた艶っぽい美しさに、大抵の男は心を奪われる。
本当は男性経験などゼロに等しく、異性の気を惹く手練手管よりも裁縫や読書に関心がある、などと誰が信じるだろう。そんな中身と外見のちぐはぐさもまた、マアサの奇妙な魅力を醸し出していた。
今日は、雑貨屋に寄ってみようかしら。
姫様へ送る為のカードを探したい。何か洒落たものがあるといいのだけれど。
朝の憂鬱な手紙の内容を忘れようと、ナタリア姫のことを思い浮かべる。
どんな柄がいいか思案しながら歩いていたマアサは、突然伸びてきた腕によって、狭い路地に引きずり込まれてしまった。
悲鳴を上げる暇もなかった。
大判のハンカチで口を塞がれ、強引に抱きすくめられる。
引き締まった腕の感触に、マアサは必死で抵抗した。全力で暴れるが難なく両腕を封じられ、しかも壁に押し付けられた為、足を動かすこともままならない。
単なる物取りならばまだマシだが、万が一暴行されたら……と思うと、全身が震えてきた。
フィン! フィン、助けて!
大粒の涙が目尻から零れそうになった瞬間、マアサを羽交い絞めにしていた手はパッと放された。
「え?」
何が起こったのか分からない。突然、体が自由になり、マアサはたたらを踏んだ。
恐る恐る目を上げると、マアサを襲った若い男の首に白刃が煌めいている。
「白昼堂々、人の女に痴漢? いい度胸してる」
「フィン!」
何というタイミングの良さだろう。
マアサは嬉しくなって安堵の声を上げたが、フィンはマアサの方をちらりとも見ないまま、男の身柄を拘束した。
「くそっ。放せよっ!」
「そんなに死にたいの」
ゾクリ、とするような冷たい声に、マアサまで凍りついてしまう。
男もフィンの殺気を感じ取ったのか、ぐっと喉を鳴らし抵抗を止めた。
「このレディが誰か知ってて襲ったわけじゃないよね?」
「ふん。その女が物欲しそうにケツ振って歩いてたから、相手してやろうと思っただけだよっ――グハッ」
下種な言葉でマアサを貶めようとした男の腹に、フィンは鋭く拳を叩き込んだ。
崩れ落ちそうになる男の前髪を無造作に掴み、難なく引き上げる。
「よく聞こえなかったな。何だって?」
「……畜生」
小さな声で毒づくものの、その声色には明らかな怯えが混じっている。
「フィン様。どうか、もう」
その辺で、と言いかけ、マアサは息を飲んだ。
彼女を一瞥した冷たい表情は、マアサの知っているフィンとは無縁の酷薄さを帯びていた。
――どうしよう。ものすごく、怒っていらっしゃるんだわ。
つい先ほど無法者から与えられたばかりの恐怖を容易く上書きする恐れが、マアサの中に湧いてくる。
騒ぎを聞きつけて飛んできた警備巡回中の白騎士に男の身柄を引き渡し、フィンはおもむろにマアサに向き直った。
近衛騎士の団服ではなく、カジュアルな平服姿の彼は当然ながら佩刀していなかった。上着の内側に短刀を仕舞い込み、大きなため息をつく。
「一人で城下に行ったりしないで、って前に言ったはずだけど。俺が気づいて追いかけてこなかったら、君はどうなっていたと思う? 無防備なのも大概にしろ!」
厳しい声で一喝され、我慢していた涙がポロポロと零れ落ちる。
普段のフィンならばすぐに宥めてくれるはずなのに、彼の顔は強張ったままだ。激情を抑え込むかのように、拳は固く握りしめられていた。
「ご、ごめんなさい。でも、一人でも、大丈夫だと思ったの。だって、みんな息抜きに買い物に出てるって……」
「既婚の年嵩の侍女達なら、そうかもしれない。だけど、君は――クソッ。もういい。とにかく、戻ろう」
強引に抱き寄せ、マアサの腕を掴み来た道を戻ろうとするフィンに、彼女は黙って従った。
◇◇◇◇◇◇◇
連れてこられたのは、近衛騎士の宿舎の一室だった。
非番の騎士たちが、女連れのフィンを見咎め、からかおうと口笛を吹こうとしてハッと取りやめる。傍目にも明らかな程、フィンは苛立っていた。ここで下手に口を出そうものなら、後からどんな報復をされるか分からない。
『女人入室禁止』の規則を訴える者は一人もおらず、フィンは無言で自室にマアサを放り込んだ。
そのまま彼女をベッドに押し倒し、あっけに取られ目を丸くしているマアサに覆いかぶさるようにして腕を突く。いつもの余裕はない。食い入るように見つめられ、マアサは視線を外すこともできず、ただフィンを見上げた。
「どうして抵抗しないの」
「フィン様が、私の望まないことをされるはずがありませんもの」
密室で2人きり。部屋には鍵もかかっている。
こんな危機的な状況だというのに、信じきった表情で口を開いたマアサをしばらく眺め、フィンは荒々しく体を起こした。
「そこまで俺を信じているのなら、何故プロポーズに頷いてくれないんだ。――今朝、父から手紙が来たよ。リカルド嬢には他にも縁談があるそうだ、ってね」
何ということだろう。
母の行動の早さにすっかり驚いてしまったマアサは、すぐに返事をすることが出来なかった。
「その様子じゃ、君も知ってるんだな。とんだ間抜けだろう? 4年もひたすら君が振り向くのを待っていた男を、そいつと笑えばいい」
ぎゅっと唇を引き結んだフィンに、マアサは更に動転した。
いつも飄々とした態度でつかみどころのないこの方が、まさか嫉妬していらっしゃるというの?
「待って、違うわ。私にも母から手紙が来ましたけれど、お相手が誰かも記されてませんでしたもの! 父と母は、早く貴方と結婚しろと私を急かすつもりでそんな事を言ってきたのですわ」
深く傷ついたように項垂れたフィンを見ていられず、マアサは必死に弁明した。
「他の殿方に嫁ぐなんて、私には無理です! だって、私は――」
「私は?」
フィンの声に希望が籠る。
マアサは、とうとう腹を括ることにした。
夢は諦めて、フィンを想い続けてきた自分の気持ちを認めよう。
その前に、どうしても確認したかった点を尋ねる。ずっと喉に小骨のように刺さっていた疑問。答えが「はい」でも「いいえ」でも、この方の申し出を受けようと決意しながら。
「正直に答えて下さいませ。そのことで決して詰ったりしませんから」
「いいよ、何」
「トレッサの件がなければ、私に求婚しませんでしたわよね?」
フィンは、一瞬言葉に詰まり、それからマアサをひたと見据えた。
「そうだね、確かにきっかけはそうだった」
覚悟はしていても、実際に耳にするとこれほど痛い言葉だったなんて。
じわり、と再び涙が溢れそうになる。
「でも、意地っ張りで情け深い、俺だけの泣き虫マーシャを好きになったのも、本当のことだよ」
フィンがそう言ってくれるのは優しさだ。
甘んじてその優しさを受けよう、とマアサは頷いた。
「違うね。それは、納得してない顔だ」
首を縦に振ったマアサの顎を優しく掴み、フィンは涙の膜が張ったままの彼女の瞳を覗き込む。
「それにトレッサは、随分前に父が購入済みだ。君の持参金からはとっくに外れてる――って。まさか、知らなかったの?」
驚きに大きく目を見開いた瞬間、ぽたり、とマアサの涙がフィンの手の甲に落ちた。
「ああ、もう。頼むから、泣かないで」
ベッドの上でぎゅうぎゅうに抱きしめられる。
マアサは我慢できず、「もっと早く仰って下さいませっ」と叫び、わあっと泣きだした。
持参金目当てだと、思い込んでいた。
彼の甘い口説き文句も、優しい仕草も、心の籠った贈り物も全て、マアサは真剣には受け止めてこなかったのだ。
4年という歳月が、改めて重くのしかかってくる。
フィンはすでに、28を迎えようとしている。引く手あまたのこの方が、ここまで独身を貫いていたのは私の為?
ようやく何もかもが腑に落ちて、「ごめんなさい」とマアサはしゃくり上げた。
「ほら、そんなに泣かないで。君の涙の止め方だけは、未だに分かってないんだから」
小憎らしい台詞をさらっと口にするフィンの胸板を軽く叩き、マアサは顔を上げた。
「私の旦那様になって下さるのなら、今すぐに他の女性との思い出は捨ててもらいますわ」
フィンは、軽く口の端をあげ、茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべてみせた。
「そんなもの、とっくに忘れてしまっているさ。――俺には君だけだ。きっと君だって、30年もすれば俺の言葉が真実だって嫌でも分かることになる」
マアサの両手を取り、右の手の平に懇願のキスを落とすと、フィンは真面目な表情になった。
「跪こうか?」
「いいえ、どうかこのままで」
この近しい温もりから離れたくない。
マアサの気持ちが伝わったのか、フィンも軽く頷いた。
「マアサ・リカルド。どうか、俺と結婚して下さい。全身全霊をかけて、貴女を幸せにすると誓わせて下さい」
「――はい」
コクリ、と頷いたマアサのはにかんだ微笑みに、フィンの理性は焼き切れそうになった。
ついに、彼女の心を勝ち得ることが出来たのだ。
だが、ここで彼女を抱くわけにはいかない。
神聖な儀式の後、清められた夫婦の寝台の上で愛されるべき女性なのだから。
「でも、ちょっとだけならいい?」
「え……フィン様? んっ」
人さし指でそっとマアサの唇に触れ、その指越しに軽くキスをする。
びっくりしたように瞬きするマアサを抱き締め、フィンは自分の自制心の強さに一人感嘆した。
素敵な感想を頂き、前から書きたかったフィンとマアサの小話を書くことが出来ました。
ここまで多くの番外編を書けたのも、読んで下さった皆様のお蔭です。
本当にありがとうございました!




