幕間~フィンとマアサの決着~
今日の昼過ぎ、突然現れた珍客に王宮中がバタバタと騒がしい。
王太子殿下付きの近衛騎士であるフィンも、否応なくその騒ぎに巻き込まれ、ついさっきようやく解放されたところだ。
クロード殿下が正式に彼らを招き入れた後、エドワルドは手負いの狼のように荒れ狂っているだろう心を、端正な顔の下に見事に隠しきっていた。
だが宿舎に戻った後、八つ当たりでもされては困るので、フィンは時間をつぶそうと庭園に下りてみることにした。
ぶらぶらと当てもなく、静かに照らす青白い月を眺めながら歩いていると、ふと遠くの人影に目が留まった。
華の宮の外廊下をトボトボと歩く女が見える。
日が落ちてからだいぶ時間が経っている。
こんな時間に宮の外に出る使用人など、ほとんどいない。
フィンは、首をひねってしばらく考えた後、面倒くさそうにその女の後を追った。
その女は特に行くあてもなかったのか、広い外廊下の端で立ち止まり、そのままズルズルと大きな柱にもたれて座り込んだ。ここまで近づけば、人物の判明はつく。軽く舌打ちしてフィンは歩みを早め、彼女の元に向かった。
「夜一人で出歩くなんて、何を考えてるんだ。いくらここが王宮内だとはいえ、馬鹿なことを思いつく男がいないとは限らないんだぞ」
腕組みしながら見下ろし居丈高にそう言ってやると、彼女は一瞬ビクリと身を強張らせたが、声の主がフィンであることに気づき、ふん、と鼻をならす。
「それはご自分のことですの? パッシモ様」
憎まれ口を叩きながら、ごしごしと頬を拭うマアサの隣に、フィンは黙って腰を下ろした。ちょうど一段分の段差があり、座りやすい。
「なぜ泣いてた?」
しばらく黙ったままだったフィンが、ようやく口を開いて尋ねる。
短い言葉の中に、彼なりの気遣いと労りが含まれていることに気がつき、マアサの瞳には、また涙が溢れてきた。
「酷いことを姫様に言ってしまって――。でも我慢できなかった。あれ以上、聞いていられなかった」
しゃくり上げながら、マアサはナタリア姫との口論についてフィンに打ち明けた。姫様の幼馴染である彼にならば、話しても大丈夫だろうと判断したのだろうが、フィンは口元が緩むのを必死で抑えた。
ずいぶん、心を許してくれちゃって。
抱き寄せたくなる衝動をこらえ、最後まで話を聞く。
「あー。それは姫様が悪いね」
「ですが! ですが…………」
言ったことを取り消したくはない。
でも主人に対して使っていい適切な言葉ではなかった。
ナタリア姫を傷つけてしまったかもしれない、という怯えが、ジレンマに懊悩するマアサを更に追い立てる。
「昔、まだ姫様が小さかった頃、けっこう周りが酷くてね」
フィンは無造作に後ろ手をつき、体を傾け空を見上げるような恰好で話し始めた。
「顔のこととか、特にめちゃくちゃ言われてたな。ほら、子供って残酷だし、相手は王女様だぞって叱られても、身分差なんてまだピンとこない時期だしさ。……たぶん、その時に姫様の心のどこかが割れて砕けちゃったんだよ。そしてそのまま大人になったから、他人の気持ちにも自分の気持ちにも鈍感な部分があるんだと、俺は思う。許してやってよ。姫様も、自分でもどうしようもないんだと思うからさ」
マアサは驚きに目を見開いた。
軽いばかりのお調子者だと思っていたフィンが、そこまで姫様のことを思っていたなんて、考えもしなかった。
浅慮な自分が恥ずかしくなる。
そしてフィンの口調の優しさに、幼いナタリア姫が脳裏に浮び、また泣けてきた。
お守りしたかった。
その頃からお傍にいて、彼女を嘲笑う全ての人を追い払ってやりたかった。
「あんまりです。……そんなの、酷過ぎるわ」
もうどうあっても涙が止まりそうにない。
マアサは嗚咽を止めようと、膝にきつく顔を埋めた。
じんわりとエプロンが濡れていくのが分かったが、どうしようもない。
隣のフィンは、ごそごそと身動きすると団服を脱ぎ、バサリとマアサの頭の上にかぶせた。黒のロングコートから、女性物でない甘い香りがほんのり漂う。
暖かな温もりが残っているその上着に包まれ、マアサは気が済むまで泣いた。
「ぐすっ。これきちんと洗って、ひっく、お返しします。ぐすっ」
しばらくたって、ようやくマアサは顔を上げ、肩にかかったままの団服を引き寄せた。
「いいよ、返さなくて。替えは沢山あるし」
「いいえ! きちんと綺麗にしますから! あの、本当にごめんなさい。話を聞いてもらったばかりか、ご迷惑を……」
必死に礼の言葉を紡ごうとしているマアサの、涙に汚れた真っ赤な顔をまじまじと眺め、フィンは突然大きな声を上げた。
「分かった! 泣き虫マーシャだ!!」
「――――え?」
「そうか、やっと思い出したぞ。ずっと考えてたんだ。誰だったんだろうって。君とは子供の頃、教会の礼拝堂で何度か会った。えーと、うちの領地の教会じゃないよな。ああ、そうだ! ルナリアの大聖堂だ。そうだろ?」
「そ、そうですけれど。……思い出したのは、それだけですか?」
よほど思い出せてスッキリしたのか、小躍りしそうなほど喜んでいるフィンを見つめ、わずかな期待を込めてマアサは尋ねた。
フィンはう~んと形の良い顎に手をかけ、唸った。
「棒みたいにガリガリに痩せてた6歳くらいの女の子で、よく悪ガキに悪戯されてビービー泣いてた。見てられなくて何度か助けたっけな。そしたら懐いてきて、将来は俺の嫁になる、とか言い出して可愛かったっけ……」
「その時、わたくし、10歳だったのですけれど?」
マアサの涙で腫れ上がった瞳が、ぎりぎりと吊り上っていく様子にも気づかず、フィンはあっけらかんと言い放った。
「あんなチビ助が10歳なわけないだろ」
「発達が遅めだっただけで、今は普通ですわ!!」
「じゃあ、本当に君があのマーシャだっていうの?」
尚も信じられない、というようにマアサをじろじろ眺めるフィンに、マアサの怒りが破裂した。
「どうせ私だけですわ! 口約束を真に受けて、ここまで貴方を追ってくるような馬鹿な女は。いいえ、パッシモ様の中では小さな子供でしたわね。コートはきちんとお返しします。これで失礼いたしますわ!」
団服を胸に抱きしめたまま、彼の隣をすり抜けようと立ち上がった瞬間。
シャツ姿のフィンに強く抱きしめられた。
しっかりと筋肉のついた胸板で囲われ、息が止まりそうになる。
「……なんでそんな可愛いこと、言うの。せっかくずっと我慢してたのにさ」
可愛いことなど言った覚えがない。
悪口しか言っていないはずなのに、とマアサは混乱して抵抗することすら忘れる。そんなマアサをそっと抱き直し、フィンは彼女の頭のっぺんに優しいキスを落とした。
「王宮に上がった後、すぐに教えて欲しかったな。そしたらもっと早く君と……」
彼がそう言った途端、彼女の脳裏に図書室での逢引風景がありありと蘇ってきた。おかげで金縛りが解けたので、マアサは彼のみぞおちを拳で殴りつけてやった。
「いてっ」
固い腹筋のせいで、実は殴ったマアサの方が痛い思いをしたのだが、とりあえずフィンの腕の中から逃れることが出来てホッとする。
頭のてっぺんが痺れるように熱いのは、気のせいに違いない。
「なんだよ。どうしてそんなに怒ってるんだ」
「私が一方的にですけれど、再会したパッシモ様は、侍女を図書室に連れ込み、く、口づけしていらっしゃいましたわ。よくも、私にそんな風に言えたものですわね!」
睨みつけながら過去の悪事を暴き立ててやったのに、フィンは「やきもちか。かわいいなー」と見当違いのことを呟いて、にやけている。
「話になりませんわ!!」
マアサは諦めて、自室に戻ることにした。
彼を置いてスタスタと歩きはじめる。
相手にしても仕方ないんだから、と自分に言い聞かせながら。
「今は誰とも付き合ってないからねー」
背中から呼びかけられた、からかうような甘い声に頬が緩んでしまうのは、あの方があんまり馬鹿だからだわ。
マアサが振り向きもせずに足早に宮に戻っていくのを、フィンは暖かな光を宿した眼差しでいつまでも見送っていた。




