クリストファー王子の事情その3
「お姉様、ごきげんよう。今日のドレス姿もとっても素敵ですわ」
リセアネは私の姿を見るやいなや立ち上がり、軽く膝を折って挨拶した。いつものように嬉しそうに駆け寄ってきたかと思うと、細く優美な腕を私の腕にからめ「こちらにお座りになって。私のお隣に」と一つ空いている席に誘ってくる。
私は「ええ、ありがとう」とかろうじて口にしたが、実際声に出ていたどうか自信はない。
他の出席者も全員、立ち上がって私が席につくのを見守っている。
クリストファー王子ですら、淑女へのマナーをご存じでいらっしゃるようなのには、内心とても驚いたのだけど。
「皆様、ごきげんよう。……どうぞおかけになって」
この場にいる中で一番身分の高い女性である私がそう告げると、みな一斉に腰を下ろした。
私を中心として数えるならば、右手にリセアネ、その隣にフィン。フィンの隣がエドワルドで、その隣がミカエルだ。ミカエルの隣にクリストファー王子が座り、その隣であり私の左側に兄様がいた。
大きな円卓をぐるりと見回しただけで、激しい疲労感に襲われる。
一体なんの集まりだというの?
エドワルドが私の真正面にいる。
先月城下へのお忍びの際には下ろしていた、肩過ぎの黒髪を無造作に一つに束ねていた。いつもの団服姿ではないので、今日は勤務外、ということなのだろう。
そうでなければ、彼が主人である兄様と同じ席で昼食を取るなんて考えられない。
つい気になってそのまま眺めていると、癖のない前髪がはらりと落ちた下から覗く漆黒の瞳がこちらに向けられた。いつもならすぐに逸らされる視線が、今日に限って何故かしっかりと絡み合った。
カアッと頬に血が上るのが分かった。
違う方向に目を逸らそうとしても、エドワルドの強い眼差しがそれを許さない。
リセアネと兄様が目配せしていることにも気づかず、そのまま無言で彼と見つめ合っていると、クリストファー王子が大きく咳払いをした。
「2人の世界に入るのは、や・め・ろ。俺たちは無視かよ。それにどうした? リアのその目。ただでさえ君の目は……もごもごもご」
後半部分は隣のミカエルによって遮られ、うまく聞き取れなかった。
きっとまたろくでもないことを言おうとしたのだろう。
私は軽くため息をついて、王子を見遣った。
まだ頬が熱いが、なんとか意識を切り替える。
「この目のことは、お詫びします。昨晩なかなか寝付けなくて、夜更かししてしまったら、こんなお見苦しい顔になってしまったのですわ」
大きなバゲットを口に突っ込まれた王子は、何故か吐き出そうとせず、そのまま一生懸命咀嚼していた。
「もぐもぐ……そうかな。なんで一体……もぐもぐ……眠れない羽目に……もぐもぐ」
食べながらも何とか話そうと頑張る彼だったが、隣のリセアネは毛虫でも見つけたかのような嫌悪感に満ちた眼差しで一瞥した。
「耳障りですわ、殿下。焼き立てのバゲットですもの、ゆっくり黙って味わっていらっしゃって? 出来れば、ずうーっと」
「リセアネ」
小声で窘めるとすぐに「ごめんなさい、姉様」とリセアネは首をちょこんと傾げ、眉尻を下げた。愛らしいその仕草に、いつも私はそれ以上怒れなくなってしまう。
「よろしいのですよ、殿下のことは部屋の置物とでも思っていただければ。黙ってさえいれば、そこそこの鑑賞に堪えうるので、お邪魔にはならないかと」
ミカエルがにこやかにダメ押ししてきた。
バゲッドを口一杯に詰め込んだまま、不満げに頬を膨らませた王子は、毛並みのいいリスのように見えた。
「ではクロード兄様。昨晩、お父様から聞かされた話というのを、私達にも教えて下さいませ」
リセアネの続けた言葉に、面食らう。
父上が何を言ったというのだろう。
「その話なら俺が……ぐっ! もごもご」
「いいよ。まずは、このおバカさんの事情から説明するね」
ようやくバゲットを咀嚼し終わったらしい王子が、意気揚々と話し始めようとした途端、今度は兄様が彼の口に大きなローストビーフの塊を突っ込んだ。
可哀想なほど必死に口を動かしているが、なかなか喉を通っていかないらしい。
フィンは先ほどから可笑しくてたまらないらしく、肩を震わせながらクリストファー王子の方ばかりを眺めている。
「前の見合いの時は、腹違いの兄であるアゼル王太子殿下の立場がそれほど強くなかった為、このおバカさんは、我が国の第一王女を娶りたくなかったらしい。ところが今年に入ってすぐ、アゼル王子が婚約を発表されたというのだよ」
兄が話し始めた内容は、驚くべきものだった。
私自身が気に入らなくて、縁談を断ったのではなかったというの!?
ではなぜ、その時に打ち明けて下さらなかったのか。
少し考えて、すぐに結論に至った。
――信用できなかったのだ。
初対面の私はともかく、兄様さえも。
みぞおちの辺りがもやもやする。
複雑に渦巻く感情を整理しきれないまま、私は兄様の言葉の続きを待った。
「アゼル王子はなんと、ヴァイオレット正妃、つまり第二王子であるクリスの母上の姪御にあたるシャルロッテという公爵令嬢と婚約されたんだ」
相続争いの原因である2人の妃の関係を一気に解決できる手だが、そんなに都合よく事が運ぶものかしら。
アゼル王太子殿下、という方が少し恐ろしくなる。
「まあ……!! それでは、傍妃様のお産みあそばせた王太子殿下の後ろ盾に、正妃様のご実家がおつきになるということですのね。なんと幸運な」
私と同じことを思ったのか、リセアネが信じられない、と小声で呟いた。その時になってようやく、王子は咀嚼物から解放されたのか、発言することに成功した。
「ここまで漕ぎ着けるのに、かなり揉めたらしいけどね。これで、王宮内に兄上の敵はいなくなる。シャルロッテと兄上と俺は幼馴染なんだ。そりゃあ一種の政略結婚かもしれないけど、お互い気心はしれてるんだし、どちらにとっても悪い話じゃない。……まあ、最後まで母は渋っていたけどね。父上の鶴の一声で決定事項になった」
これで、正妃の息子であるクリストファー王子が次の王になれる可能性は、限りなくゼロに近くなったというのに、王子の表情は晴れやかだった。
この方も、兄上であるアゼル王子を心から慕ってらっしゃるのだわ。
昨日馬車の中で怒った私を見て、上機嫌になった理由の一端が分かり、思わず苦笑してしまう。
あなただって、私と同じじゃないの。
腹違いの兄上が自分より誰より大切な、不器用な方。
「それは、おめでとうございます。王太子殿下と婚約者の公女様に、神の祝福が惜しみなく注がれますように」
心から嬉しそうに微笑む王子に向かってそう言うと、リセアネやエドワルド達も口々に祝いの言葉を述べた。
「ありがとう。それで今度は俺の番ってわけ」
近くにあったペリエを一気に飲み干し、王子はそのグラスを置いてから意味深に私を見つめてくる。
俺の、番?
まさかと思い隣を伺うと、私の視線を受けた兄は謎めいた表情を浮かべ、わずかに頷いた。
「結論から言ってしまうと、ナタリアへの求婚を陛下は承認された」
リセアネの白い喉から、悲鳴が漏れる。
手に取っていたナイフとフォークをテーブルに叩きつけると、彼女はおもむろに立ち上がり兄様の方に体を向けた。
私はただ茫然と、激情に身を震わせるリセアネを見ていることしかできない。
「それを聞いて、兄様は黙って引き下がってらしたと云うのではないわよね? 顔だけが取り柄のような誠実さの欠片もない獣とわたくしの大切な姉様との結婚を、まさか兄様まで許すというの!?」
「獣ってまさか俺の事? いや、ある意味いずれはそうなるかも……」
飄々とそんな茶々を入れる王子を、エドワルドが物凄い目付きで睨みつけた。
フィンとミカエルは、深々と似たようなため息を吐いている。
「いいや。私が容認したのは、クリス王子のナタリアへの求婚だけだよ」
兄様がおっとりとそう答えた。
リセアネは、訳が分からないというように頭を振る。
「同じことではなくて?」
「まさか、全然違うさ!」
そしてそのまま兄様は、何故かエドワルドを見つめながら、柔らかな笑みを浮かべた。
「陛下に王太子としてではなく、ナタリアの兄としての意見を求められたので、はっきり進言してきたよ。ナタリア自身の意思に委ねるべきです、と」
その言葉に弾かれるように顔を上げたエドワルドから、今度は私に視線をうつす。
「お前はずっと勘違いしていたのかもしれないが、陛下が娘のお前に望んでいるのは、サリアーデの駒として他国に嫁ぐことなんかじゃない。ただ、幸せになって欲しいだけなんだ。ずっとそれだけを願われてこられたんだよ」
16の時からずっと信じてきた。
この国の為に有利な結婚をすることこそが、第一王女としての私の最後の義務なのだと。
そうではない、と今更言われても、どう考えていいのか分からない。
高い塔のてっぺんまで登り、下を見下ろしてみたら、さきほどまであったはずの階段が見当たらない。そんな不安だけが、怒涛のように押し寄せてくる。
「兄様。どうしたら、いいの。……私には、分からない」
自分のものとは思えないような、か細い声が辺りに響く。
兄がそれに答える前に、クリストファー王子が席を立ち、まっすぐ私の前に歩いてきた。
「食事中だけど、みんな揃ってるし丁度いいや。リア、立って」
「一体、何を――」
「いいから早く。じゃないと俺が跪けない」
食事をとる為に手袋を外したままの私の手に、すべらかな大きな手が重なる。
エドワルドとは全然違う。
重いものなど持ったことないような美しい手が。
「姫に何をする!」
たまらずエドワルドが立ち上がろうとしたが、隣に座ったミカエルに肩を押さえつけられ、椅子に戻された。
「なっ」
「君は黙ってろ。今まで通り、そこで指をくわえて見てるといい。後だしは卑怯だ。そうだろ?」
クリストファー王子の口から出たとは思えないような冷たい声に、びくりと身がすくむ。軽く手を引かれ、されるがままに彼の前に立たされてしまった。
リセアネの息を飲む音が、かすかに耳に届く。
優雅に膝を折り、そのまま真紅の絨毯に片膝をついた彼は、眩いばかりの微笑をたたえ、私を見上げた。
「生涯をかけて、貴女をお守りすると誓います。どうか、我が妃となって下さい。傍妃を置くつもりは一生ないから、安心して私のところに来て欲しい」
エドワルドの怜悧な表情が、みるみるうちに絶望と屈辱に歪んでいく。
その様子を目の端に捉えてしまい、私の胸は激しく痛んだ。
生まれて初めてのプロポーズを受けているというのに、意識が王子に向いてくれない。マアサが昨日私に告げた言葉の意味が、今、はっきりと分かった。
『貰って頂けるのなら、嫁ぐつもりよ。私に結婚を申し込む初めての方に、本気でなって下さるつもりがあるのならね』
賢しげにそう口にした、昨日の私を消してしまいたい。
なんということをしようとしていたのか。
私のしようとしていたことは、自分は元より王子をも傷つける最低な行為だったのだ。
「本気でおっしゃっているの?」
かすれる声でそう尋ねると、クリストファー王子は真っ青な澄んだ瞳をゆっくりと一度閉じて、それから開いた。
「信じられないだろうが、そうだ」
瞳の奥に、諦めの混じった悲しみがわずかに見て取れた。
それはいつも私が鏡の中に見つける色と同じだった。
「……ごめんなさい。すぐにはお返事できません」
ようやっとそれだけを言葉にすることが出来た。
自分の愚かさに、目の奥がちくちく痛む。
「分かった」
あっさりとクリストファー王子は、立ち上がってくれた。
「泣くなよ。泣くともっと不細工になるぞ」
一言余計な気がするが、兄様もリセアネでさえ何も言わずに、ただ彼を見つめていた。
もっと早く色々なことに気が付けば、良かった。
自分の気持ちに目を背けてきた罰を、今、私は受けている。




