マルティン
ヴィラ城敷地内にある礼拝堂は、尖塔を戴く重厚な建物だ。
正面中央にある円形の高窓には色ガラスが嵌め込まれ、その上の壁に神話の一場面をかたどった立体的な彫刻がある。こんな雨降りの夜ではなく、天気の良い昼間に見れば、さぞかし神聖で美麗な建物であるのだろう。
礼拝堂の大扉の前には、男が二人倒れていた。
流血はあるが、失神しているだけで命に別状はなさそうだ。
その身体を跨いで通り過ぎ、扉を開けて中へと入る。
ラデクが見せてくれた景色を辿り、そのまますたすたと迷いもせずに長椅子の間を抜けて奥へと進んだ。
関係者しか入れなさそうな目立たない入り口から地下へと通じる階段を下り、棺の脇を通り、黒い扉に手をかける。
それを開けてまず視界に入ったのは、四つん這いになってうずくまるグレンの姿だった。
「グレ──」
「ティコ、敷物の上に乗るな!」
思わず駆け寄ろうとしたところで、鋭い警告が飛んできて動きを止めた。グレンは汗びっしょりで苦痛に耐えながら、こちらに厳しい顔を向けている。
空中に浮かんだままの足を後ろに下げて床につき、ティコはすぐ目の前の敷物をまじまじと見つめた。
「あら、汚いカエル、役立たずの犬ときて、最後はみすぼらしい濡れネズミ」
頭からフードを被ったマント姿のティコを見て、ヴェロニカが笑い声を立てる。
「この恰好のほうが『らしい』でしょう? 魔術師同士、真っ向から対決といこうじゃありませんか」
ティコは言い返して、敷物をぐっと掴み、端部分を勢いよく引き剥がした。
その下には、巨大な赤い魔法円が床に直接描かれている。塗料でも使ったのか、こするくらいでは消えなさそうだ。
「姑息なことをしますね」
何も知らずにこの敷物の上に乗ると、そこにヴェロニカがいる限り、術で自在に動きを封じられる。
手を使わずとも、身体の一部が魔法円に接していれば、魔力はそこから注入することが可能だ。
「まあ、ひどい言い方。あなただってあの黒塔で、同じことをしていたでしょう?」
「自衛のために。わたしはか弱い女の子なので」
しかし言わせてもらえば、ティコがあの部屋に仕掛けていたのはもっと小規模で、さほど攻撃性のないものだ。こんなにも暴力的で物騒な術と一緒にされるのは、不本意極まりない。
これはまるで、無差別に牙を剥いて噛みついてくる獣ではないか。
しかもすでに多くの人々を食い殺している。
術を行使しているヴェロニカがああまで平然と立っていられるということは、今までに奪い取ってきた他者の生命エネルギーが、この魔法円の中に溜め込まれているということだ。
ティコはマントの中でごそごそ手を動かすと、一枚の紙を取り出してシュッと投げた。
その紙が刃物のように空気を切り、吸い付くようにグレンの足元へと飛んでいく。敷物に触れた途端、バチッと音がして、小さな火花が散った。
「……っ、動ける」
ティコが放ったのは、術を弾く魔法円が描かれた護符だ。
束縛が外れて、自由になったグレンが素早く身を翻し、魔法円の内側から脱出した。
横ざまに倒れ込んで、激しく咳き込む。身体がこまかく痙攣し、唇の端から鮮血が溢れた。
「邪魔が入ったわね、死ぬまでじわじわといたぶってやろうと思ったのに」
苦悶に喘ぐグレンを冷ややかに眺め、ヴェロニカは薄く笑んだ。
それっきり彼の存在は無視して、ティコのほうに向き直る。お遊びを終え、ようやく転がり込んできた獲物を前にして、高揚するように鼻孔を膨らませた。
ティコはそちらではなく、じっとグレンを見つめていた。口元の血をぐいっと腕で拭い、乱れた呼吸でグレンもこちらを向く。
「……すまない、ティコ。俺のせいで」
「気にしないで。もともとこれは、わたしがしなくちゃいけないこと。わたしはやっと、自分の意志であの黒塔を出ることができた。それはグレンのおかげなの」
笑みを浮かべてそう言ってから、ティコはようやくヴェロニカのほうに顔を戻した。
まっすぐに立って彼女と対峙する。フードの下から覗く目は、静かな怒りに燃えて底光りしていた。
「……師匠はどこ?」
「あら、奇遇ね。わたくしも今、それとまったく同じ質問をしようとしていたところよ。マルティン・セルシウスはどこにいるの?」
返ってきた言葉に眉根を寄せる。
ティコをからかって楽しんでいるのかと思ったが、向けられた目の端には、わずかに苛立たしさがちらついていた。
「あなたが師匠に何かをしたんでしょう?」
「何かって? そうね、あの年寄りのことはずっと長い間、捜し続けていたわ。アーモス王を誑かして権力を利用し、莫大な金をつぎ込み、利用できるものは何でも使って捜していたのよ。だけど、ちっとも尻尾を掴ませやしない。出涸らしのような老いぼれのくせに、まったく忌々しいったらなかったわ」
「なぜ、そうまでして?」
「決まってるじゃないの、不老不死の術を得るためよ。あんなに年を取って汚らしくなってから肉体の時間を止めても意味がない。今のうちに、若く美しいこの時に、不老の術を手に入れないと」
ヴェロニカは熱っぽく語ったが、ティコはうんざりした。
聞いてみれば、なんともありふれた動機だ。過去、どれほどの人間がこれと同じことを言って、マルティンを捕まえようと躍起になっていたことか。
「師匠は不老不死なんかじゃない。寿命もあれば、年も取る。ただそれが他の人よりも長くゆっくりしているだけ」
本人はそれを「特異体質」だと言っていた。
魔力と同じように、生命エネルギーも保有量がそれぞれ異なる。マルティンの場合は、その両方が他の人と比べて異様に多いのだ。
「嘘よ」
そして当人が何度そう説明しても、周りは誰も信じない。何か秘術があるはずだと決めつけて引き渡しを迫る。そして勝手に争いの種にしてしまう。話が通じないのだから、逃げるしかない。
マルティンがヴィラ城を出ることになったのも、長いこと同じ場所に暮らせないのも、それが理由だ。
加齢が遅くて外見にあまり変化がなく、周囲から不審がられるため、同じところに居着くのは五年が限度。大きすぎる魔力と生命エネルギーという、自身が望んだわけでもないものをふたつも背負わされたマルティンは、その運命を粛々と受け入れて、孤独に各地を放浪して生きてきた。
だから似たような境遇のティコを放っておけず、憐れみ、同情し、心配して、面倒を見てくれたのだ。
なるべく人とは関わらない、という自分に課した掟を破ってまで。
「ねえ知っていて? 人の生命エネルギー……生命霊気はね、取り出して結晶化すれば、『賢者の石』と呼ばれるものになるのよ。賢者の石は卑金属を貴金属に変え、人間を不老長寿にする。どうすればそれが作れるのか、わたくしは必死になって研究したわ。でも、だめ。人の身体から生命エネルギーを根こそぎ抜き取ることはできても、結晶化することも、自分に取り込むこともできなかった。せいぜい術を使う時の糧にするくらいよ。だけどマルティンなら、そのやり方を知っているに違いないわ。そうでしょう?」
ヴェロニカが目を輝かせて身を乗り出す。無邪気なくらいのその態度には、なんの罪の意識も感じられなかった。
くだらない、とティコは思った。そんなことのためにこの女は、次から次へと人の命を食い潰してきたというのか。
賢者の石なんて作れたとしても、それに何の意味がある? そんなものは誰も幸せにはしないのに。
「あの能無し国王は当てにならないから、自分でもマルティンを見つけ出す方法を模索していたわ。そして半年前、ようやく術が完成した。魔力を記憶し、その持ち主の元へと導く術よ」
そう言いながら、ヴェロニカは敷物の上を移動して、テーブルの上にあった小冊子を取り上げた。
「マルティン・セルシウスの手稿。これにマルティンの術がかけてあったの。その術は複雑に重ねがけがしてあって外すことはできなかったけど、別に構やしないわ。本人を捕らえた後、直に聞けばいいことだものね」
マルティンが唯一、この城に残していった自分の痕跡だ。
ヴェロニカはその魔力の匂いを嗅ぎ取って追跡し、ようやくマルティンの居場所を掴んで急襲した。
「──でも、もう少しというところまで追い詰めたのに、逃げられてしまったわ。大分弱らせてやったはずだけど、あの死にぞこない、今頃どこにこそこそと隠れているのかしらね。辿っていた魔力も消えて、見失ってしまった」
肩を竦め、吐き捨てるような口調になった。今ではもう、あの舞踏会での上品さはすっかり剥がれ落ちて、その下にある蓮っ葉な素顔が露わになりつつある。
マルティンに逃げられたヴェロニカは、そこで舵を切り替えた。その高い鼻をうごめかし、もうひとつ、彼の魔力の匂いが残っているほうへ。
マルティンの時は逸る気持ちを抑えられず、自分が動いて失敗した。だから今度は国家の権力を使い、じっくりと時間をかけて追い込むことにしたのだという。
「捕まえてみたら、そちらはいかにも力のなさそうな小娘で、肩透かしを食ったけどね。でもマルティンをおびき寄せる餌くらいにはなるでしょ。大事な弟子がこちらの手に落ちたと知れば、あの爺だってどこかの穴倉から這い出てくるに決まってるわ」
「……なるほど」
長い話だったが、マルティンはどこかに潜伏しているらしいことが判って、ティコは安心した。
どれくらいのダメージを負ったのか定かではないが、そこは師匠の力を信用するしかない。
「だったら、わたしがやることはひとつ」
両手を広げて、手の平をヴェロニカに向ける。
そこにそれぞれ魔法円が描かれているのを見て、ヴェロニカは驚いたように口を開きかけた。
「──あなたを倒して、師匠とグレンとわたしの自由を取り戻す」




