召喚
その小部屋は、休憩所というよりは、収納庫と言ったほうが近かった。一応机と椅子はあるが、その周りをぎっしりと鍛冶に使うと思われる道具類が取り囲んでいる。
部屋には小さな窓がひとつ。
ティコは扉を閉め、ふーっと大きな息を吐き出した。
グレンはいない。何も事情を知らないあの老人も、こちらをまったく警戒していないようだ。この一時間をティコがどう使おうと自由、ということである。
「馬鹿みたい」
ぽつりと小さく呟いた。
たった一時間で、グレンに何ができるというのだ。少しだけ捜索を手伝えば、それで気が済むのか。そんな偽善行為に、一体どんな意味がある。結局見つけられず、中途半端なまま城に戻り、ランベルトから叱責を受けることになるだけかもしれないのに。
誰も何も救われない。グレンも、あの母親も、次の誘拐に怯えるこの町の住人たちも、いなくなった子どもも。
昔、「普通の人々」がティコに与えた悲哀と絶望と恐怖を、今度は彼らが背負うのだ。
いい気味だと思えたら、いっそ楽だったかもしれない。あるいは、自分とは無関係だと割り切ることができたなら。でもティコの心は、どんどん重苦しくなっていく一方だった。
子の名前を呼ぶ女性の声や、老人の不安そうな顔が、頭の中をぐるぐる廻っている。
いなくなった女の子。
グレンには見つけることができなくても、ティコにはできる、かもしれない。
「……ああ、もうっ!」
腹立ちまぎれに、ティコは乱暴に机の上に飛び乗った。
高い位置にある窓枠を掴み、よいしょと身体を持ち上げ、足をかける。
野育ちのティコにとって、窓から外に飛び降りて見事着地するなんてことは朝飯前だ。田舎者の運動能力を舐めてもらっちゃ困る。
窓から出たところは隣家の壁がすぐ間近に迫る路地だった。ただでさえ狭苦しい上に、不用品や家に入りきらない荷物などが地面に直接置かれていて、人目を遮るにはちょうどいい。
誰もいないことを確認し、ティコは手にした炭で、建物の外壁に魔法円を描いた。
その真ん中に、ばちん! と威勢よく手の平を叩きつける。
「召喚に応じよ、我が忠実なる使い魔、ラデク・ルディック!」
しばらくの間を置いてから、白く輝く魔法円の中から、もぞりと何かが蠢いた。
平らな壁面がぐにょんと盛り上がり、同時に手の平の下の固い壁の感触が湿り気を帯びた柔らかいものに変わる。
次いで、普段と同じ眠そうな目が現れ、吸盤のついた手が出てきた。
動きのすべてがゆっくりなラデクは、召喚の時も非常にじれったい速度でやって来る。
ようやく全体が壁の魔法円から出てくると、ラデクはそのままぴょんと跳んで下に降り、ぐえ~こ、と緊張感の欠片もない呑気な声で鳴いた。
「ラデク、仕事よ。時間がないの」
げえ~ろ。
「女の子を捜して。えっと、赤みがかった茶色の髪、黒いスカート、顔に小さな痣のある十歳の子。名はマリエ」
ぐえ~こ。
「急いでね。確か、身長はこれくらい……」
げえ~ろ。
手で示しながら説明するティコに返事はしてくれるものの、ラデクの間延びした顔つきは何も変わらない。
ティコが指示を終えると、ラデクは緑色の身体をぬめりと光らせ、くるっと向きを変えて、のそのそと四つん這いで動き出した。
三歩ほど進んだところで、その姿がふうっと霞に巻かれたように消える。
感情や知性があまりなく、簡単な命令しか実行できないとはいえ、ラデクは探索が専門の使い魔である。
マルティンや、正体不明の「もう一人の魔術師」を見つけ出すのは無理だったが、名前と特徴が判っていて近距離内ならば、その人物の痕跡を辿ることは可能だ。
──どうか、上手くいきますように。
ティコは壁にもたれてしゃがみ込み、手で両耳を塞いで目を閉じた。
主人と使い魔は感覚を共有できるが、かなり神経を集中しないと難しい。少しでも気が逸れると途切れてしまうから、周囲の音も遮断して意識を一点に向ける。
少しして、ラデクが見ている景色がティコの頭の中に流れ込んできた。
とはいえ、全部が明確に見えるというわけではなく、一瞬現れてはすぐに消えるものもある。暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるのは景色の一部ばかりだ。
曲がり角……荷車……チーズの店……行き交う人々の足。
雑多な情報が、猛烈な速度で流れていく。
ティコはこの町の地理に明るくない。必死にそれらを追いかけて、頭に叩き込んだ。
下から見上げる形になっていることもあれば、上方から俯瞰するように広範囲が見渡せることもある。それらの景色の中に、先程見かけたうなぎ売りの女性が見えた。だったらここはあの近くか、と当たりをつける。
薄暗い場所に移った。
建物内のようだが、ここはどこだろう。床に藁が散らばっている。何に使うのかよく判らない道具が至るところに置かれているから、人が生活するところではない。
……物置?
屈み込んだ男の背中が見えた。
彼は何かをぶつぶつと呟いているようだった。周りに他の人間の姿はないから、独り言だろうか。紅潮した頬に、うっとりと上擦った目、恍惚とした表情。様子がどこか尋常ではない。
男は両手に麻袋を抱え込んでいた。ひどく大事なもののように頬ずりをして、また何かを呟く。
手に入れた宝物が中にちゃんと入っているかを確かめるように、そろそろと袋を小さく開けた。
赤みがかった茶色の髪の毛が覗いた。
「!」
ティコはすぐさま路地から飛び出した。
町の中を疾走する娘に、住人たちがなんだどうしたと怪訝な目を向けてくる。その視線をすべて無視して、ティコは道をひた走った。ラデクが見せてくれた経路を思い出しながら一心不乱に駆ける今のティコには、それ以外のことに気を回す余裕がない。
走って走って、もうすぐ目指す場所に辿り着く──という時。
「ティコ!」
聞き慣れた声が鋭く耳に突き刺さり、後ろから腕を掴まれた。
「君、どうしてここにいる?! まさか本当に逃げるつもりで──」
「グレン、女の子を見つけた!」
眉を吊り上げた怖い顔で問い詰めようとしたグレンは、ティコの短い言葉だけで状況を理解したらしい。
さっと表情を改め、叩き返すように「どこだ!」と訊ねてきた。
「この先の角を左に曲がっていちばん奥の家! 隣に小さな物置がくっついてる! その中にいる男を捕まえて!」
グレンは間髪入れず身を反転させて駆け出した。あっという間に姿が見えなくなる。
ここまでずっと走りづめでそろそろ体力の限界に近づいていたティコは、彼のその速さに追いつけない。
滴る汗を拳で拭い、呼吸を乱しながらようやくそこに到着すると、すでにその扉はグレンによって蹴破られた後だった。
グレンは中にいた男を完全に制圧していた。飛び込むや否や行動に移したと見えて、男は何がなんだか判らないというように茫然とし、片腕を背中に廻された恰好で床に押しつけられている。
腕は今にも折れそうな角度で曲げられているし、後頭部を掴む手は男の顔の形が歪むほど力が込められているようだ。
その躊躇のなさと容赦のなさに一瞬腰が引けそうになったが、ティコは気力を奮い起こしてそちらに駆け寄り、近くに転がっていた麻袋を勢いよく開けた。
女の子は目を閉じてぐったりしていた。でも息はある。気を失っているのだろう。
頬に小さな痣、間違いない。
「本当にいた」
グレンがびっくりしたように目を見開いている。確信もないのに物置の戸を破壊し、見知らぬ男を組み伏しているグレンのほうが、どちらかというとびっくりだ。
「おい、おまえがあの子を攫ったんだな? 今までの誘拐もすべておまえの仕業か」
グレンの問いに、男は何も答えなかった。口は動いているが、ぶつぶつ呟く声は小さすぎて、何を言っているのか聞き取れない。
彼はグレンに乱暴な扱いをされているというのに、泣きも怒りもしなかった。いや、むしろ微笑んでさえいた。
今になってその瞳がひどく空虚なものであることに気づき、ぞっとする。
グレンはぐいぐいと加減なく男の頭を床に擦りつけていた。冷淡に吊り上がった唇は、どこか凄みがある。気のせいか、周りがどす黒い空気に包まれているように見えた。
「このままおまえを城に連れていく。みっちり話を聞かせてもら──」
その言葉がふいに途切れた。
グレンは動きを止めて、急に真顔になった。少し間を置いてから、どういうわけか自分の手を離し拘束を外してしまう。
だらんと伸びた男の腕が、力なく床に落ちた。
意識のない女の子を抱いていたティコは目を瞬いた。
「グレン──さん?」
問うようにして名を呼ぶと、グレンはゆっくりとこちらを振り向いた。その眉が真ん中に寄っている。
「……すまない、ティコ。失敗した」
「どうしたの?」
「先に持ち物を調べておくべきだった」
倒れた男の背中に乗せていた膝を上げ、グレンが立ち上がる。しかし男はうつ伏せになったまま、ぴくりとも動かない。
グレンが捕らえていたのは男の片腕だけ。空いたもう一方の腕は、自分の身体の下に隠されていた。
その手にナイフを握っていたらしい男は、それをグレンには向けず、迷わず自分の胸を突き刺すために使用した。
笑いながら、男は事切れていた。




