クリスタル・ナハト (1938年11月9日-10日)
…人の子よ、彼らを恐れてはならない。彼らの言葉も恐れてはならない。例えアザミとイバラがあなたと一緒にあっても、またあなたがサソリの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔を憚ってはならない。彼らは反逆の家である。
…彼らが聞いたとしても、拒んだとしても、あなたはただ、わたしの言葉を彼らに語らなければならない。何故なら彼らは反逆の家だから。
…人の子よ、わたしがあなたに語るところを聞きなさい。反逆の家のようにそむいてはならない。あなたの口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。
この時わたしが見ると、わたしの方に(智天使ケルブが)伸べた手があり、その手の中に巻物があった。
彼がわたしの前でこれを開くと、その表にも裏にも文字が書いてあった。その書かれていることは悲しみと、嘆きと、災の言葉であった…
- 旧約聖書「エゼキエル書」第2章より -
1938年7月の初頭、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトの呼びかけにより、フランス南部の保養地であるエビアンにおいて、ドイツ国内の難民問題について話し合うための多国間会議が開催されました。32カ国の政府代表と39の救援組織が現地入りし、当事者であるドイツからはリッベントロップ外相が参加。各国のユダヤ人コミュニティは固唾を呑んで同会議の行く末に注目しました。
このエビアン会議において、各国代表団からユダヤ人に提示されたのは人道主義的な、あるいはキリスト教的な博愛主義からなる同情でした。しかし居場所を提供しようとした国はどこもありませんでした…それでも同情されただけ「まし」だったのかもしれません。ロマや性的マイノリティなどは最初から議論すらされなかったのですから。しかしそんなことは当事者にとっては何の慰めにもならないでしょう。ドイツ国内の難民問題は早くから指摘されていましたが、各国ともに自国で受け入れることには消極的でした。
会議を呼びかけたアメリカは、閣僚ではなく大統領の「個人的」な友人であるマイロン・C・テイラー(USスチール前会長)を代表として送り込みました。彼を非公式に補佐した国務省の高官らは、「難民受け入れ枠の拡大は拒否」「費用は当事者かあるいは民間資金から調達すること(政府支出はしない)」という方針をワシントンDCから指示されていました。そしてこの問題の解決はドイツとの交渉を通じてのみ成し遂げられるという共通認識をもっていました。
同胞への支援を求めるユダヤ人団体への配慮、難民により既存の社会保障が破壊されることを恐れる国内世論、新たな経済的負担を嫌い欧州における最大の顧客であるドイツと対立したくない経済界、そして政治的リスクを避けたい連邦議会という複雑な要素が反映されたものでしたが、これでもアメリカはまだ同情を示し、なおかつ具体的なだけましだったかもしれません。
こうした問題で存在感を発揮することを期待されていたはずの国際連盟はというと、加盟国の離脱が相次いでおり影響力の低下は続いていました。そして連盟本部のあるスイスが会議場となることを否定したため、仕方なくアヴェノル事務総長の母国であるフランスが会場を提供することで、何とか会議の開催にこぎつけました。
会議に参加しなかったスイスは不法移民対策をドイツ政府と直接交渉し、国境管理をさらに厳格化しました。機能不全の連盟はともかく、開催を呼びかけたアメリカがこうなのですから、テイラーが各国に問題の長期的な解決策を見つけるよう促しても、アメリカの隣国であり、経済的、あるいは政治的な影響を受けやすいカナダですら「1人たりとも受け入れることはできない」という始末。
各国から信託統治領パレスチナという居場所があるではないかと期待されたイギリスでしたが、パレスチナ問題を議題から外さなければ、連邦加盟国の参加は認めないと圧力をかけてこれを認めさせました。そして会議に参加したイギリス代表団は「ユダヤ・ストレス」とも呼ばれた国内の反ユダヤ感情や経済状況を理由に、本国での受け入れに消極的な姿勢を崩しませんでした。断続的に大陸から流れ込むユダヤ系難民は、国内の反ユダヤ感情を刺激しており、保守党政権を率いるチェンバレン首相(首相個人としては同情的だった)にとっては悩みの種でした。また1936年から断続的に続いていた信託統治領土パレスチナにおけるアラブ人暴動、これに対抗するようにユダヤ系武装組織の活動が激化する現状を考えれば、ユダヤ人難民の更なる受け入れは政治的に不可能でした。
フランスはユダヤ人問題よりも前に、隣国スペイン共和政府の崩壊という現実に直面していました。最後の攻勢が失敗に終わり、ピレネー山脈を越えて、あるいは地中海沿いにボート難民として共和政府を支持していたスペイン人が多数、南フランスに流入を始めていました。人民政府が崩壊して共産党が野党となった後も、中道左派の連立政権を率いるダラディエ首相は、長引く経済不況や連立政権内での意見対立もあり、ユダヤ人問題どころではありませんでした。「フランス人の雇用第一、ユダヤ人の受け入れなど論外」と、普段は路線対立ばかりの労働組合も、この時ばかりは一致して政府に圧力をかけます。脆弱な連立政権は、むしろユダヤ系移民を排斥することで少しでも党派対立に優位に立とうとしました。
32カ国の中で積極的な受け入れ姿勢を示したのは、中南米はカリブ海に浮かぶドミニカ共和国の独裁者、ラファエル・トルヒーヨだけでした。推定人口300万程度の小国が受け入れられる規模などたかが知れています。旧宗主国であるアメリカの現政権との関係悪化に悩んでいたトルヒーヨからすれば、ユダヤ人受け入れ声明は、ワシントンDCに対する数少ない効果的な政治メッセージでした。つまりそれ以上の意味などありません。まして同政権はこの時も隣国であるハイチ系住民への武力弾圧を続けていました。偽善でもしないよりはましだという言葉がありますが、これでは偽善ですらありません。
結局、同会議は「ユダヤ人の受け入れに関して、一切の強制枠を設定しない」とする点で一致した以外は、何の結論も得られないまま終了しました。救援組織は落胆しましたが、それでもイギリスやオーストラリアなどが、わずかながらも難民受け入れを約束しました。しかし国内世論を配慮して、それらは水面下で行われました。
アメリカの会議提案を聞いたヒトラー総統は「豪華客船に乗せてお送りしよう」と述べたとされます。この天才的な大衆政治家は、会議の結末を最初から予測していたのでしょう。リッベントロップ外相は「エビアンではどこも受け入れなかった」と、同会議の結果を政権の民族政策の正当化に利用しました。そして4ヵ月後、同情と無関心、不作為が何をもたらしたのかを、世界は目撃することになります。
ところで日本ですが、同会議に満洲国が招待されていないことを理由に参加を拒否しました。満洲国はドイツやイギリスなど欧州各国が国家として承認していましたが、開催国フランスだけでなく、欧州や中南米では依然として満洲は日本の傀儡国家であるという認識が強かったからだと思われます。満洲国は労働者確保のため移民受け入れを積極的に公言していた数少ない-というよりもほとんど唯一の国でしたが、5年前のシモン・カスペ殺害事件など一連の反ユダヤ運動を覚えていた各国のユダヤ人コミュニティは、満洲国政府に対して依然として懐疑的でした。
さらに同国とその宗主国である日本は、ソビエトと軍事的な緊張関係にあり、シベリア鉄道で大陸を横断するリスクをとったとしても、途中でソビエト国内で拘留される可能性がありました。ドミニカよりも現実味のある移住先だといえるかもしれませんが、危険性が高いのは事実でした。それでも少なくないユダヤ人が、シベリアルートで満洲に逃れたことが確認されています。
*
近衛文隆氏は近衛文麿元公爵の長男であり、前年のゾルゲ事件により父親である文麿氏が政治的に失脚した後も、駐米大使である吉田茂らの支援もあり米国留学を続けていました。その同氏が何ゆえベルリンで事件に遭遇することになったのか、本誌は全米オープンに参加するために訪米中だった同氏にインタビューすることに成功した。
以下はインタビューの詳細。記者の設問や敬称は一部省略。
(記者):お忙しいところ恐縮です。では早速、当時の状況についてお聞かせください。
率直に申し上げて嫌な時代でした。しかしあの時代がなければ、あの経験がなければ今の自分はいないと断言出来ます。
あれは忘れもしない昭和13年(1938)のことです。私はその年の10月からライテイさん-総理特使として訪欧していた徳川頼貞侯爵の御供として、イギリスやベルギーなど欧州各地を訪問していましたが、それには理由があります。
当時、私はアメリカのニュージャージー州にある私立プリンストン大学に在学中で、政治学を学んでいたのですが……正直なところ、あまり熱心な生徒だったわけではありません。
もともと私は外交官志望だったのですが、前年に父があのような政治的不祥事(ゾルゲ事件)を起こして失脚していましたし、政治的な理由で外交官となるのは難しいだろうなと。大学を辞めようとも考えましたが吉田(茂)駐米大使に説得されたこともあり……学費はあるし、学ぶ機会もある。しかし何のために?報われない勉強をすることに何の意味があるのか。
早い話がふてくされていたのですよ(笑)。今だから言いますが、叔父(近衛秀麿)が公爵家を相続したのも面白くはありませんでした。嫡男である私がいるのに、どうして叔父なのかと。後から聞いた話ですが、叔父は父の政治的な負の遺産を清算するために、相当苦労したそうです。学生である私にはそれは出来なかったでしょうし、自分に苦労をかけたくないという親族の配慮だったのですが、そんなことは当時の私にはわかりません。どうにも咀嚼できない鬱憤を、ゴルフクラブに思い切りぶつけていたわけですね。アマチュアゴルファーとして大学ゴルフ大会などで好成績を残していたので天狗になっていたのでしょう。
昭和13年(1938年)の1月のことです。大学ゴルフ部の強化合宿に参加するため、ニュージャージー州郊外のゴルフ場に出かけたのですが、その日は特に思うような飛距離が出ないことに苛立っていました。クラブハウスに戻るや否や、学友相手に「クラブが悪い」と悪態をついたのです。それをたまたま聞いていたのか、後ろから「貴方にはゴルフに対する敬意に欠けている」といわれましてね。
何だこいつはと振り返ったら、なんとボビー・ジョーンズなんですよ。いや、あの時は冷や汗が出ました。4大タイトルを制覇したアマチュアゴルフの伝説的な存在ですからね。日本野球でいう沢村栄治、相撲の双葉山みたいな、とにかく神様みたいなものです。
直立不動で立ち上がったんですが、もう何も言えませんよそれは。憧れの人に会えたというのに、最も見られたくない嫌な部分を見せてしまったのですから。そしたら「貴方には才能があるかもしれない。だがその前に自分を見つめなおすべきだ」と、ズバリといわれましてね。誰に言われるよりも効きましたよ、これは……
クラブがね、握れなくなったんですよ。イップスというんです。「トミー・アーマーと同じ病気とは、君も偉くなったもんだ」と吉田大使は笑いながら、あの人らしい励まし方をしてくれましたが、それすら辛くてね。毎日、重い足を引きずって練習場に行くのはいいものの、クラブのヘッドにボールが当たる音が怖いんです。理由はわかりません。部員への手前もあり、なんとかクラブを握ろうとして……あれ、俺はこれをどうやって振っていたんだろう、そもそも、これをどう握っていたんだろう……あれだけ楽しかったはずのゴルフが、何もかも解らなくなって、頭が真っ白に。もう自分にはゴルフをする資格がないんだと。練習場に行くことすら出来なくなりました。嫌になって逃げたんですよ。
(記者):今の近衛さんからは想像も出来ないことですね。
これでは駄目だと周囲が見かねたんでしょうね。私が外交官志望だったというのは吉田大使もご存知でしたから、ちょうど総理特使として訪米していた徳川侯爵と一緒に欧州に行かないかという話になりまして。気分転換になるだろうということですね。叔父とも個人的な交友関係にある徳川侯爵は快く引き受けてくださいました。これも後から聞いた話ですが、叔父から頼まれていたそうです。
候はご存知のように派手好きな散財家でしたが、世界的な音楽愛好家・収集家としても知られていました。個人資産でパイプオルガンを輸入したり、公会堂を設計したりと、桁違いの逸話には事欠きません。叔父の秀麿も徳川候の財政的な支援がなければ日本に西洋音楽は根付かなかっただろうと評価していました。8月に私は侯爵と一緒にニューヨークを出発した後、イギリス、イタリアにフランスと各国を訪問しました。「マルキ・トクガワが来た!」と、徳川さんはどこでも人気者でしたよ。
とにかく顔が広くて、上流階級から音楽家に建築家、自称・芸術家までそれはもう。政府特使という肩書きでしたから「久しぶりに自分の財布を気にせずに遊べる」と、侯爵はそれはもう……あれでは借金まみれになるのもわかりますよ(笑)
ちょうど事件のあった11月、私はベルギー政府の招待を受けた侯爵とパリで別れて、ドイツのベルリンに入りました。叔父が南欧や東欧での演奏旅行を終えて、ベルリンに戻ったと聞いていましたので、落ち合おうということになったのです。叔父は前年のナチス党大会で、バイロイト祝祭管弦楽団を臨時に指揮したことで「総統閣下のお気に入りの日本人」としてドイツでは知られていました。最もドイツ国内における指揮者としての名声は、世界的な名声を獲得していた大御所のフルトヴェングラー氏や、バイエルン国立歌劇場のクレメンス・クラウス氏、若手の指揮者として頭角を現していたカラヤン氏に比べるまでもない、比べることすら失礼であると自身が語っていましたね。政治的な理由で日本人である自分をクローズアップしたのだろうとも。
指揮者は独自の世界観や音楽観を大事にするそうです。その点、叔父は知識も経験もあり、何より総統の音楽観を否定することなく、かといって無闇に肯定することもなかったので、総統のお気に入りになったようです。「指揮者というよりも幇間ではないか」と日本の新聞で悪口をかかれたこともありましたが、叔父は「好きに言わせておけばよい」と泰然としていました。
元々、叔父が欧州に来たのは日本で楽団運営に失敗したからでしたが、林総理から音楽使節という肩書きを得ていましたし、さらに総統閣下のお気に入りということで各地から引っ張りだこでした。反ナチ派からは批判もされましたが、叔父は一向に気にした様子もなく有名無名や規模の大小を問わず、欧州各地の楽団を指揮しました。その数は30とも40とも……何せ大学生の同好会のようなものにも顔を出していたというぐらいですからね。実際にはどれだけの数を指揮したのかわかりません。
一連の指揮旅行で叔父は欧州各国に様々なパイプを作り上げました。アメリカの名門であるNBC交響楽団からも誘われたようですが、これを固辞すると10月からは空席だったベルリン国立歌劇場の音楽総監督代理に就任しました。これは総統からのプレゼントだとも言われてましたね。もっとも叔父には別の思惑があったようですが。
(記者):別の思惑といいますと?
……うーん。どうなんだろう。その点は叔父に聞いてください。とにかく11月1日にベルリンで叔父と数年ぶりに再会したのですが、正直に申し上げて当時の私は、叔父に対する感情を整理出来ていませんでした。どうにもぎこちない挨拶をすると、私は夕食以外は外を出歩いて観光を楽しんでいました。ベルリン五輪の会場跡はきれいに整備されていましたし、大規模な都市開発も続いていましたので活気にあふれていましたね。
…事件前のベルリンの雰囲気ですか?別にそれほど暗いものではありませんでしたよ。ユダヤ人地区も高い壁やフェンスで囲われていたというわけではありませんでしたし。確かに明確な、それこそ私の目でもわかる線引き、見えない壁というのはありましたが、街中に堂々とシナゴーグがあったぐらいですから。それでも異質なんでしょうね。似た風貌をしており、同じ言葉を話して意思疎通も出来る。だからこそ少しの差が際立ってしまう。
結局、ユダヤ人問題の当事者ではない日本人にはわからないことなのでしょうね。「あの事件」の後、私も個人的に「関係ないJapanerが口を出すな!」と言われましたし。これは半島問題に口を出すなと例えれば、我々日本人にもわかりやすいかもしれませんね。
まぁ、そうやって遊びほうけていたわけですが、夕食だけは叔父と一緒にとることを約束させられましたので、夕方6時前にはホテルに戻ってレストランで待っているんですよ。叔父は待ち合わせより早くいたり、遅れてきたりとバラバラでした。親父にそっくりな顔と面を突き合わせて飯を食べるというのは、妙な感覚でしたね。風貌、特に鼻からの口元なんかそっくりで。でも目付きだけは違ったかな…うん。よくわからないけど、違った気がするね。政治家としての親父と音楽家としての叔父の差なのかもしれない。
当時、叔父は40歳。私は18歳です。当たり前だけど共通の話題なんかほとんどなくてね。「今日何していた」と聞く叔父に、出かけた行き先やその感想を答えるんだけど、これが全く盛り上がらない(笑)。とにかく話好きの話題の多い親父とは全然違うんだよね。こちらとしては金を出してもらっている弱みもあるし、仕方がないので色々話題を振る訳。結局、いつも音楽について私が聞かされることになったんだけど。
朝比奈隆さんだったかな。指揮者は何故、聴衆に背を向けるのかと聞かれて「下らぬことを聞くな」と激怒されたのは。これは指揮者が一番よく聞かれる質問で、そしてもっとも下らぬ質問だと唾棄するものらしいんだよね。西欧音楽の、オーケストラの何たるかを勉強しようともせずにする愚問だと。
(記者):まさか……その質問を聞かれたんですか?
そう、そのまさかで。私もそれを叔父に聞いたんですよ(笑)だけど叔父は別に怒りもせずに教えてくれましたよ。19世紀初頭、つまりナポレオン戦争中には聴衆の方を向いていたそうなんだよね。もっともそれ以前にも聴衆に背を向けていたりと、色々あったようですが、詳しいことは専門家にでも聞いてください(笑)……これはコンサートマスターと作曲家が同じだったから出来た芸当だそうで、確かに自分で考えた曲なんですから、その作品の世界観や主題は誰よりも理解しています。無論、大事な場面では振り返って色々と指示したりもしたそうですがね。
ところがオーケストラの規模が拡大……宮廷や小劇場のような少数向けの宮廷音楽や貴族向けの公演ではなく、劇場などで多くの聴衆を相手に大人数で演奏公演するのが一般的になると、色々なパターンが試されたそうです。そして各地で楽団や劇場が整備されると、一々、作曲家がすべてを指揮するわけには行かなくなります。だから最初のほうは作曲家の縁者や関係者、つまりその意図を正式に代弁出来るとされた人が指揮をしていたそうですが、それすら間に合わない状況になるんですね。
つまりここで専業指揮者が誕生したわけです。同時に専業指揮者は、とにかくオケの真ん中に立って指揮したり、客席と同じ高さで指揮したり。横向きになったり、あるいは斜めに立って、客席の反応を見ながらオケを指揮したりと色々と試行錯誤を繰り返した結果……そうして19世紀後半には殆どの専業指揮者が現在のスタイル-聴衆に背を向けてオケと向かい合うようになったそうですよ。
近衛という家は雅楽を家業としてきましたが、ご存知の通り雅楽には西欧音楽のような専門指揮者は存在しません。かつて西欧音楽を指揮する時は2メートル近い鉄棒を床で「ガン!ガン!」とたたきつけて指揮していたといいます。しかし雅楽は筝、つまり琴のことですが、小さな音が先導し、次第に大きな楽器が重なり、全体が一致すると大きな音楽になるという…良くも悪くも好対照です。民族性の違いもあるのかもしれませんね。様々な民族が入り乱れる西欧と、単一民族とされる日本との。海外の人が雅楽を見て驚くのは指揮者がいないという点だそうですからね。西欧で強い指導者、あるいはリーダーシップが求められるというのは、このあたりも関係しているのかもしれませんが……
(記者):そのあたりも秀麿さんの?
うーん……まあ叔父の教えもありますが、私は父も見ていましたから、特にそう感じたのだと思いますよ。父はいろんな勢力に期待されて持ち上げられた人でした。自分の父親ながら、頭のよい人だと思ったことはあっても、リーダーシップがあるとは感じたことはありません。むしろ相手の期待するように振舞っていたような……良くも悪くも日本的な指導者像を演じていただけなのかもしれません。
その点、叔父は一見、柔和に思えても音楽に関しては厳しい人だったようですし。だからこそ日本を一時追放されていたわけで(笑)……ヒトラー総統が叔父を気に入ったというのも、和して同せずという感覚が心地よかったのかもしれません。自分の音楽観を黙って聞いてくれる人がほしかっただけかもしれませんが(笑)
…そうですね。当時、叔父と総統のことについて話したことはありませんでしたね。戦後に聞く機会はあったのですけど、結局聞きそびれてしまいましたし。事件後、叔父は楽団員と一緒に警察当局に身柄を確保されてしまいましたから。当時の東郷大使が必死にドイツ政府に働きかけをしましたが(中略)
*
9日にパリで撃たれた三等書記官が死んだという知らせは、ラジオでも流れていました。私は叔父といつものようにレストランで食事をしていたのですが、叔父は険しい表情で立ち上がると「出かけてくる」と立ち上がりました。
私は何がなんだかわからないのであっけにとられていたのですが、コートを羽織ってから引き返して来まして。「今日は外に出るな」と。見たこともないような怖い顔で言うんですよ。私はとっさに「叔父さんはどうするんですか」と聞き返していました。ドイツ語は私もそれほど得意というわけでもありませんでしたし、置いて行かれるのが心細かったんですよ。それに事情が正確にわからないながらも、ラジオが流れてからレストラン内の空気が一変したのは感じましたから。
ラジオから流れてくる声は、私にも聞き覚えのあるものでした。そうですよ。あのゲッベルス宣伝大臣ですよ。風貌には似合わぬ俳優のような聞き取りやすい甘い声ですから忘れるはずもありません。ミュンヘンにおける記念式典での演説だとかで「国家第一の敵であるユダヤ人に対して報復行動が行われた」と言っていたはずです。国家第一の敵という、甘い口調で語られる強烈な単語は、強烈な違和感を私に与えました。だからこそ、そんな中で飛び出していこうとする叔父を呼び止めたのです。
「文隆、私は指揮者だ。聴衆に背を向け、作曲家の精神と人格、世界観とたった一人で向かい合う。そして一人ひとりが確固たる音楽家であり表現者たるオーケストラを指揮する。そして自分の解釈した世界観をオーケストラとともに作り上げ、背を向けた聴衆に届ける。それが指揮者だ」
叔父が指揮者なのはわかりきったことです。しかしその真剣な表情にはうかつなことは口に出来る様な雰囲気ではありませんでした。何も言わない私に、叔父はラジオを指差しながら続けました。
「今、あのラジオから流れているのは演説ではない。コンダクターの指揮する声であり、扇動であり、そして拒否権のない命令だ。近衛の男として、私はそれを聞いてしまった以上、座して聞き逃すわけには行かない。見てしまった以上、聞いてしまった以上……そして何より関わってしまった以上、第三者として振舞うことは私には出来ない」
「それは叔父さんではなくてもいいでしょう!」
「そうだ。私ではなくてもいい。しかしだ。近衛の男として以前に、音楽家として、指揮者としての私が、何もしないでいるということが、他の誰でもない私自身が許せないのだ。人に嘘はつけても、自分自身の精神には嘘はつけない」
何をしようとしているかは解りませんでしたが、何かこの叔父が危険なことをしようとしていることは、18歳の世間知らずの子供であった私にもわかったのでね。みっともなく泣きついてしまいましたよ。それでも叔父は全く翻意せずに、困った子供をあやす様な感じでした。その態度が腹が立って「指揮者風情に何が出来るというのですか」と私が怒鳴ったんですよ。そしたら肩をすくめてね。帽子を被って言ったんですよ。
「私は私の仕事をするだけだ」
ホテルのポーターに何か言うと、叔父は背を向けて歩き出していました。私も追いかけようとしたのですが、怖くてね。立ち止まってしまったんです。その背中は何といいますか……空気というか、雰囲気というか。何者をも拒絶するかのような絶対の孤独というべきでしょうか。自分自身がわからなくなって欧州に逃げてきた学生が、説得しようということが間違いだったのかもしれませんね。仮に説得できていたとしても、その瞬間に音楽家、あるいは指揮者としての近衛秀麿は死んでいたのでしょう。
*
夜半…9時半頃ぐらいですかね。悲鳴とガラスの割れるような音が立て続けに聞こえてきたんですよ。一体何事だと思って窓から外を見たら、ユダヤ人街の辺りから煙と火が立ち上っているんですね。あわてて窓を開けると、すざましい罵声が飛び込んできて、思わず耳を塞ぎました。
下を見たら鉄棒を被り、松明を手にしたデモ隊が一列になって、火元に向かって駆けているんです。褐色シャツを着た中年男性が中心でしたが、学生や女性も混じっていたかな?ホテル前にはガス灯があったので、その下辺りを見たら突撃隊の、SとAが黒丸の中で組み合わされたようなマークが見えましたので。あぁ、あれが突撃隊なのかと。
反ユダヤ暴動が起きるぞとは、薄々感づいていました。欧州各国を渡り歩きましたから、一般的に反ユダヤというか、彼らが厄介者のような空気は感じていましたし。特に当時のドイツはそれを政権自らが扇動していましたから。政権内での最強硬派がゲッベルス宣伝大臣だとは、学生であった私ですら、新聞情報ですが知っていました……ですが予想出来た事は、実際に目にしたことの衝撃を和らげることにはなりませんでした。恐怖と狂気に満ちた集団が蟻のごとく、ユダヤ人街へと向かっていくのです。悲鳴や叫び声は目的地から聞こえてきました。
『日本人!窓を閉めろ!』
先ほど叔父と話していた老ポーターが血相を変えて飛び込んでくると、窓を閉めてカーテンを下ろします。死にたくなかったらおとなしくしていろという老人の剣幕に、私は再び両手で耳を塞ぐとベットの布団の中にもぐりこみました……恥ずかしながら、その時には叔父のことは頭の中から消えていました。剥き出しの殺気と悪意にあてられたのか、とにかく恐ろしかったのです。
*
翌日、夜が明けたころに布団から出ましたが、相変わらず喧騒は聞こえてきました。殆ど眠れず、ぼんやりとした頭のまま下に下りたら、ホテルの従業員が困ったような顔を寄せ合って話し込んでいるんです。彼らの視線の先に何があるのかと見てみたんですが……玄関の、回転式のガラス戸の前に何かが「何か」であったものが転がっているんですよ。それが何であったのかを理解した瞬間、私はその場で吐いていました。
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ホテルの従業員やポーターに脇を抱えられるように部屋に戻されて、何とかシャワーを浴びて着替え終わったのが10時ぐらいでしょうか。今度は部屋の戸を叩き割るかのような勢いでノックされて、返事もしないうちに加瀬俊一さんが飛び込んで来ましてね。当時は日本大使館の一等書記官だったのかな……いや、そっちの加瀬さんじゃないです。重光三羽烏じゃないほうの加瀬さんですよ。恰幅のいい加瀬さんのほう。今、大使をやっておられる……
「近衛公爵はどこですか」と尋ねるものですから、昨日の夜に出て行ったきりと告げると「何をしていた、この馬鹿息子は!」と大変な剣幕で怒鳴られまして。私は息子じゃなくて甥だとつまらぬ口答えをすると「馬鹿の息子だから馬鹿息子だろうが!」と、こういう具合で。とにかく書記官と駐在武官に思い当たる場所を探すから手伝えと、有無を言わさず連れ出されました。玄関は勘弁してほしいとお願いしたのですが、裏口にもあるから意味がないぞと。それでようやく事態の深刻さが、私の頭にも理解出来たという具合です。
すでに何かであったものは片付けられていましたが、回転式のガラス戸にははっきりと赤黒い手形が残っていましたよ。
*
ベルリンはそれこそ町中が戦場になったようでした。被害が集中していたのは確かにユダヤ人居住区でしたが、それ以外にも便乗の暴動や放火、強姦事件もあったと聞きます。警察や消防が警戒している中を、日の丸をつけた大使館のベンツに乗せられて通り抜けました。略奪された宝石店前を整然と行進する突撃隊、逃げ回るユダヤ人を追い掛け回しているらしき集団……口にするもの嫌なものもたくさん見ましたね。燃え盛るシナゴーグを前に、消防隊がなにもせずに立っているんですよ。火を消すなといわれていたんでしょうかね。妙に曲がった太い角材が転がっているなと思ったら、違いましてね……焼死体が似たようなポーズをする理由を駐在武官に説明していただきましたが、聞きたくも知りたくもありませんでしたよ。
オラニエンブルガー通りを抜けて、封鎖されていたユダヤ人博物館も襲撃を受けていました。後から聞きましたが、12あるシナゴーグのうち、9つまでが完全に破壊されたそうです。そこから北に、アウグスト通りを越えたヒルテン通りは、一層酷かったです。元々所得の低いユダヤ人が集まる場所だけに、周囲から孤立したような環境でしたが、割られていない窓、蹴破られていない戸がないというほどで……その中から見える顔や目は憤怒や激情、そして諦観に彩られていました。長い放浪の歴史では決して珍しくもない事態であったとしても、それとこれとは別の話ですからね。
ハッケシャー・マルクト駅をぐるりと回って、再びオラニエンブルガー通りに出ると、焼け落ちたシナゴーグが目に飛び込んできました。どことなく東洋風の雰囲気もあったかつての面影はなく、円形の天井は焼け落ちており壁もあちらこちらで崩れていました。BBCの記者が取材を続ける前で、ユダヤ教の聖職者らしき人が、かろうじて残った場所で炊き出しの指示をしていました。ヒルテン通りから逃げてきた人々が集まり、それはもう酷い有様で……そこで車は止まりました。
近衛さんを見つけたのではなく、それ以上進めなくなったからです。避難民が集まっていることを聞きつけたデモ隊が戻ってきたのですね。車の中からですが血走った空気というものを感じました。避難民の中でも壮健な若者らが立ち上がり、角材などを持ってデモ隊の前に立ちふさがろうとします。両者の距離がだんだんと縮まりつつあるのに、騒動を阻止するべき警官隊らは、デモ隊の後方で待機しているのが見えました。衝突があれば片方だけを摘発するのは、街中で嫌というほど見てきました。そしてまたそれが繰り返されようとしていました。加瀬書記官が舌打ちをして、迂回することを侍従武官に提案しましたが、それよりも前に私は「あっ!」と叫んでいました。
ほんの10メートル程度の距離でにらみ合うデモ隊と避難民の間から、わが叔父の近衛秀麿が顔を出したのですからね。
*
あれだけの大見得を切りながら情けないことだ。しかしいまさら逃げ出すわけにも行かない。近衛秀麿は膝の震えを隠すように、その足を一歩、前に踏み出した。一触即発の空気の中、自分の一挙手一投足に注目が集まるのを感じる。デモ隊の中から何か怒鳴っているような声が聞こえたが、自分の心臓の音で聞こえないのはむしろ幸いであった。吐き気と眩暈と頭痛が一斉に襲い掛かってくるが、むしろ何も考えずに済むのが有難かった。
あの金髪の野獣-ハイドリヒに連れられてドイツを訪問してから、後悔しなかった日など1日たりとて存在しない。指揮者としてバイロイト祝祭管弦楽団を指揮出来たことの喜びは、その直後の保安警察庁長官との会談で無残にも打ち砕かれた。総統お気に入りの指揮者という地位は、否が応でも機密に近いであろう事が耳に入ってくる。日本人には理解しがたい独善的な民族政策が、当たり前の常識として語られる環境に気が狂いそうになった。
それでもあの時、ミュンヘン党大会の後に見た、あの現実味のない青年の背中に自分は誓ったのだ。神々しい神々や、華々しい逸話で語られる英雄ではなく、つまらないただの人間として生きる事を。そしてただの指揮者として、自分が出来ることを貫く事を。
両者のちょうど中間点あたりに、砕けたレンガの壁が転がっていた。左足、そして右足を乗せて登る。右手にはデモ隊。左手には避難民。野次は聞こえてはいたが、それよりもいきなり出てきた謎の東洋人への困惑が勝っているようだ。この空気ならいける。指揮者としての近衛の直感がそれを確信させた。
群衆を掻き分けるように、道具を持った何人かの姿が見えた。東洋からやって来て、いきなり指揮台に立った自分。総統としての友人ではなく、1人の音楽家、指揮者として自分を出迎えてくれたドイツの音楽界。どいつもこいつもプライドがアルプス山脈よりも高く、扱いにくい連中ばかりであったが、皆が音楽を愛していた。近衛秀麿の人格など、この際問題ではない。ナチスも、ユダヤも、どうでもよいのだ。自分に正直であればそれでよい。彼らが信じてくれるというのなら、自分はその期待に応えるだけだ。いや、本当ならそれすらも関係がない。自分がそうすると決めたのだから。ほかならぬあの甥にそう言ったではないか。
近衛は懐に手をいれると、それを取り出して高く掲げた。
*
「……あれは何をやっているのだ」
車から降りた加瀬書記官が、あっけにとられた表情をしていましたね。運転手や駐在武官も、そして自分もおそらく同じ顔をしていたと思いますよ。叔父はご丁寧に燕尾服と蝶ネクタイ、ピカピカの革靴を履いていて、場違い極まりない格好をしていました。そして胸元からタクトを取り出すや否や、右手でそれを高く掲げました。正直、気でも狂ったのかと思いましたよ。雑踏からぽつりぽつりと人が出てきました。ヴァイオリンを持った農夫らしき青年、コントラバスを抱えた工場作業員の格好をした老人、木管楽器や打楽器を抱える学生らしき集団……彼らが何がしたいのかは理解しました。同時にもう一度思いましたね。気でも狂っているのかと。
コントラバスとヴァイオリンの調べがデモ隊の背後から聞こえてきました。瓦礫の上に陣取った彼らを捕まえようと何人かの警官が飛び出しましたが、すぐさま人の盾が彼らを取り囲みます。男性も女性も、老人も若者もいました。事前に呼びかけていたのでしょう。同時に次々に人が現れ、激怒した警官らが声を張り上げようとして、口をあけたまま固まりました。
交響曲第9番・第4楽章-歓喜の歌。
偉大なる作曲家であったベートーヴェンが聴覚を完全に失った後に書き上げた交響曲にして、最後の交響曲となった合唱を伴う交響曲。その調べが叔父のタクトの下に紡がれ始めたのです。聴き入るというよりも、この奇行にあっけにとられるという感じでしたでしょうか。
初演の好評とは裏腹に、その後は演奏の難しさと長大さにより不評だったそうですね。ベートーヴェンの才と挑戦が、当時の楽器では表現できていなかったという人もいます。ベートーヴェンは改変に取り組みながらも再評価されることなく死去。忘れ去られようとしたそれを再評価したのが「楽劇王」リヒャルト・ワーグナー。あの叔父が指揮したバイロイト祝祭劇場と楽団を創設した偉大にして傲慢なドイツ人だというのは、どうした偶然でしょう……いや、おそらく叔父はそれも計算に入れていたのかもしれません。第9番はワーグナーの手により改変され、現在のプロ・オーケストラ仕様に作り変えられました。バイロイト祝祭で演奏される唯一の非ワーグナー作品。それが第9番です。
大正7年(1918年)の大晦日。ライプツィヒの郊外で始まった第9番の演奏は、ゲヴァントハウス管弦楽団によって継承されました。世界大戦の終結を祝い、犠牲者を追悼し、来るべき新年に平和が訪れんことを祈った精神と共に。当代の名指揮者であるフルトヴェングラーが戦前から第9番を集大成させるために何度も演奏していたこともあり、これを知らないドイツ人は考えられないというほどの知名度を誇っていたようです。それはナチスであろうと、ユダヤであろうと関係ありません。
焼け落ちたシナゴーグ前、にらみ合う群衆の間で行われる路上オーケストラ。これ以上ない非現実的な光景でした。こうしている間にも、ドイツ各地では反ユダヤ暴動が起こり、路上や街中での殺し合いが続いているというのに…とそこまで考えて、私はようやく気がついたのです。これは叔父なりの抵抗なのだと。ナチスの宣伝大臣がラジオを通じて恐怖と憎悪からの破壊を煽動するのなら、叔父はたとえこの場だけであっても、音楽により抵抗しようとしているのだと。
ポツリポツリと群衆から現れた楽団は次第に列や塊をなし、叔父の周りに集まりました。服装は突撃隊の目をごまかすためか、まったく統一性のないバラバラなものでしたが、その音は素人ながらも恐ろしいまでに規律だったものに聞こえましたね。環境としてはおおよそ考えられる中で最悪だったはずなのに……
そして独唱と合唱が始まりました。BBCの取材団が撮った映像ですか?用意がいいですね……あぁ、そうそう、こんな感じでしたよ。今見ても、現実とは思えませんよね。現場でいた私ですら、そうなのですから。
この楽団ですか。ベルリン国立歌劇団のメンバーが中心だったようですが、この他にも叔父が個人的な人脈や伝で呼んだメンバーも加わっていたそうです。ナチスに恥をかかせてやれと言えば、すぐに集まったそうですよ(笑)……それに叔父は密かにユダヤ人を逃がす活動に関わっていたようですので、その関係もあったのでしょう。即席の楽団を指揮するのは客演指揮ばかりしていた叔父にとっては朝飯前のことですしね。まさかそれがこのような時に生かされるとはね……
このバリトンは誰なのか、まだ誰なのかわかっていないそうですね。煙突職人のような格好をしているのは何かに対するアイロニーなのではないかともいわれてましたが。
*
O Freunde、nicht diese Töne!
sondern laßt uns angenehmere anstimmen、
und freudenvollere.
Freunde!
Freunde!
Freude、Schöner Götterfunken、Tochter aus Elysium.
Wir betreten feuertrunken、Himmlische、dein Heiligtum!
Deine Zauber binden wieder、Was der Mode Schwert geteilt;
All Menschen werden Brüder、Wo dein sanfter Flügel weilt
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歓喜の歌ですか。よくもまあこんな環境で声を揃えて合唱できたものです。……ほら、ここあたりからですかね。肩を組み出したんですよ。ユダヤ人同士だけではありません。突撃隊が。ほら、組んでいるでしょう。肩を。人類愛に突然目覚めたとか、そういうのではないでしょうね。その場の空気に飲まれたといいますか…よく映画などではその場の全員が合唱したと脚色されることもありますが、決してそんなことはありませんでした。多くの人間はわけもわからない行動に置いてきぼりでしたし。しかしこうやって、肩を組んでいたユダヤ人とドイツ人がいたのは事実です。
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Deine Zauber binden wieder、Was der Mode Schwert geteilt;
All Menschen werden Brüder、Wo dein sanfter Flügel weilt
Wem der große Wurf gelungen、Eines Freundes Freund zu sein.
Wer ein holdes Weib errungen、Mische seinen Jubel ein!
Ja、 wer auch nur eine Seele Sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt、 der stehle Weinend sich aus diesem Bund!
Ja、 wer auch nur eine Seele Sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt、 der stehle Weinend sich aus diesem Bund!
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調子っぱずれの合唱に参加する人間が、だんだん増えて行ったんですよ。人々を隔てる障壁は消え去り、すべてのものはみな兄弟となる。たった一人の友すら得られなかったものは出てゆけばよい。分断と対立を煽るやり方に、内心では思うところもあったのでしょう。人間は生まれつき怠け者のほうが多いのですからね。憂さを晴らすように、半ばヤケクソでしたが、それでもこの場はドイツの中で唯一、ナチスのゲッベルスではなく、近衛秀麿が指揮をする臨時の楽団が支配した空間でした。BBCの記者が奇跡と絶叫したのも、無理はありませんよ。
でもね、私はこの時、涙を流しながら輪から離れざるを得なかった人のことなど、考えもしませんでしたね。
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Freude trinken alle Wesen an den Brüsten der Natur、
alle Guten、 alle Bösen folgen ihrer Rosenspur.
Küsse gab sie uns und Reben、einen Freund、 geprüfut im Tod;
Wollust ward dem Wurm gegeben、und der Cherub steht vor Gott!
Küsse gab sie uns und Reben、einen Freund、 geprüfut im Tod;
Wollust ward dem Wurm gegeben、und der Cherub steht vor Gott!
und der Cherub steht vor Gott!
steht vor Gott!
vor Gott! vor Gott!
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薔薇色の足跡ですか。さすがにこの感覚は日本人には理解しがたいですな…この世のしがらみが分け隔てた存在は、偉大なる力によりひとつになり、兄弟となる。そして智天使ケルビムが神にそれを伝える。
アダムとイブが追放された後に、永遠の命を与える生命の木への道を守護する存在だったのがケルビムだそうです。旧約聖書では預言者エゼキエルに滅びの予言を伝えたとされる天使です。キリスト教的な救済思想をより前向きに解釈したものでしょう。西欧的な、あるいはキリスト教的な文明観がベースにある者はこの詩が訴える人類愛について否定出来ないでしょう。だからナチス政権もこれを否定することはありませんでした。それが今や最も否定するべき存在を守っているとは。妙な気分でしたね。
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Froh、 froh wie seine Sonnen、 seine Sonnen fliegen
Froh、 wie seine Sonnen fliegen、durch des Himmels prächt'gen Plan、
Laufet Brüder、 eure Bahn、Laufet Brüder! eure Bahn!
Freudig wie ein Held zum siegen、wie ein Held zum siegen.
Laufet Brüder、 eure Bahn、Laufet Brüder! eure Bahn!
Freudig wie ein Held zum siegen、wie ein Held zum siegen.
freudig 、freudig、 wie ein Held zum siegen!
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どこか勇壮な行進曲のような趣もあります。だからこそ受け入れられたのでしょうね、この歌は。ベルリンの奇跡ですか?そういう呼ばれ方があるのは知っていますが、神でもあるまいに……いや、人だからこそ讃えられるのかもしれませんがね。少なくとも叔父はそのようなことは望んではいなかったと思いますよ。勇者のように讃えられましたがね。戦後も何も語っていません。当時は現場でも、どちらかといえばあっけにとられて傍観していた野次馬のほうが多かったわけですし。それに叔父はあの中でほとんど唯一、歓喜や熱狂とは無縁だった気がします……
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Freude、Schöner Götterfunken、Tochter aus Elysium.
Wir betreten feuertrunken、Himmlische、dein Heiligtum!
Deine Zauber binden wieder、Was der Mode Schwert geteilt;
All Menschen werden Brüder、Wo dein sanfter Flügel weilt
Deine Zauber binden wieder、Was der Mode Schwert geteilt;
All Menschen werden Brüder、Wo dein sanfter Flügel weilt
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そうですねタクトを振るう叔父の背中は小さなものでした。しかしその背中からは溢れんばかりの覇気が漲っていました。私は形容し難い感情に、全身が震え上がったのを覚えています。まさかあの叔父はたった1人でナチス・ドイツと、その蛮行を無視する世界と戦おうというのか。孤独な独裁者の友人と呼ばれた叔父の本質を、私はそこに見た気がしました。
調子はずれの合唱に合わせるように、叔父の指揮の身振りはさらに大きくなった気がします。たとえ道化に終わったとしても、叔父は辞めなかったでしょうね。文字通り全世界へ向けてのメッセージだったのかもしれませんね。
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Seid umschlungen、 Millionen!
Diesen Kuß der ganzen Welt!
der ganzen Welt!
Brüder、 über'm Sternenzelt、Muss ein lieber Vater
ein lieber Vater wohnen!
ein lieber Vater wohnen!
Seid umschlungen!Seid umschlungen!
Diesen Kuß der ganzen Welt!
der ganzen Welt!
der ganzen Welt!
der ganzen、ganzen Welt!
Freude、Schöner Götterfunken!
Schöner Götterfunken!
Tochter aus Elysium.
Freude、Schöner Götterfunken!
Götterfunken!
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ほら。ご覧の通りですよ。演奏が終わると同時に、確かに拍手が起こりました。それを聞いて正気に戻ったのか、突撃隊やデモ隊の後ろにいた警官隊が一斉取締を始めたのです。ナチスの警官からも拍手が鳴り止まなかったというのは一種の都市伝説なのですよ。そうあってほしいという気持ちはわかりますがね。
すぐさま警官隊とユダヤ人が入り乱れ、そして叔父の背中は群衆の中に見えなくなりました。飛び込もうとする加藤書記官を駐在武官が抱えるようにして車に乗せ、私を蹴り入れると直ぐに車を出しました。私はわけもなく車の中で泣いていましたね。
歓喜の歌はシラーの作詞にベートーヴェンが加筆したものです。一神教の救済思想は日本人には受け入れがたいものかもしれませんが、すべての人類は神の前にみな兄弟であるという平和への願いは、八紘一宇の精神にも通じるものがあります。たとえ唱える神の名が異なったとしても、人類は団結出来る……無論、今までそのような時代はありませんでしたし、おそらくこれからもないでしょう。しかし人類が文明を捨てない限り、この詩で願われた精神が忘れ去られることもないと、私は信じております。
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…ホテルに戻ってからも、私はわけのわからない興奮と感動で充実していました。人類は捨てたものではないのだ。絶望の中にこそ希望があるのだ。いずれドイツも平和で民主的な時代が必ず来ると、まだわからない叔父の安否よりも、そう素直に喜べたのです。
すると例のポーターがね。叔父から何か言われて私の世話をしてくれた壮年の男性が入ってきましてね。
何かなと思ったら。これ。いきなり顔を殴られたんですよ。「何が兄弟だ!」とね。
わけがわからなくて頬を抑えてうずくまっていたら、足が跳んできまして、慌てて避けて立ち上がったんですが、そしたら彼が泣き出しましてね。歯も折れてるのか口の中から血が流れていましたが、泣きたいのはこちらだと思ったんですが、さすがにね…なんでも後から聞いたところによると、彼は大戦の経験者だったそうです。若く見えたんですが実際には50代だったそうです。そんな彼が泣きながら言うんですよ。
「俺の兄弟も友人もヴェルダンで死んだ!姉貴は戦後の飢えの中で、家族と共に川に身を投げた!俺の故郷はフランス軍に踏みにじられた!母親は絶望しながら死んだ!その時貴様らが何をしていた!あいつらが何をしていた!兄弟だと、ふざけるな!貴様らに何がわかる!東洋から来た何も知らないくせに、偉そうに説教をするな!俺らの何がわかるのだ!」
おそらく彼はあの演奏を見ていたのでしょう。私は近衛の家に生まれて飢えたことはありません。しかしそれとこれとは別の問題です。私の苦労を彼は知らないし、彼の苦労を私は知らない。相対化出来るようなものではありませんからね。年齢的に言えば自分の祖父でもおかしくはない人です。そんな人物が児戯のような言い訳をしながら犯罪行為を正当化して罵る事に、なんだか無性に腹が立ってきまして、私も言い返していました。
『だからといって人のせいにするのは間違っているだろう。ユダヤ人を皆殺しにしたら、貴方の家族や友人が戻るのか』
「そんなことはわかってんだ!わかってんだ!!だけんどな!」
もう一度私を殴ろうとしたのか、彼が腕を振り上げましたが、しばらくそのままの体勢でいたかと思えば、その場にうずくまってしまいました。
「じゃあ、俺らは、俺らはこの感情にどうやって落とし前をつけりゃいいんだ!ワイマールの政治家共は俺らを無視した!敵と和解しましょう、平和を愛しましょうとかいって、職を奪いやがった!共産党は俺らをファシストの軍国主義者だと殴りやがった!ナチスだけが、あのちょび髭のオーストリー人だけが俺らの意見を聞いてくれたんだ!!誰が敵で、誰が悪いのか、俺らがどうすればいいのかを教えてくれたんだ!!」
教えられた答えに従うのは奴隷だという言葉が私の脳裏をよぎりましたが、その言葉は彼には届かないこともわかってしまいました。彼は涙とともに輪から黙って離れた、離れざるをえなかった人だったのですよ。平和や人権、団結という耳触りのいい言葉で飾られたワイマール体制には、彼のような復讐を求める元兵士の居場所はなかったのです。居場所を提供してくれたのは、ワイマールを否定したナチスだけだった。そのあまりにも単純なことを、私は殴られるまで気がつかなかったのですからね……まったく、度し難いですよ。
騒ぎを聞きつけたのかホテルの従業員や警備員が飛び込んできて、蹲って泣きじゃくる老人を抱えて引きずり出したんです。丸まってうずくまるその背中の小ささといったら。先程までの激情が嘘のような、今にも消え入りそうなもので。支配人が必死に謝罪していたようですが、何を言っていたのか……どれほど自分が矮小な存在なのかを、突きつけられたような気分でした。
*
叔父の安否が確認されてから、私は強制的に日本に帰らされそうになったのですが、それを断固として拒否しました。一刻も早くアメリカに戻って、ゴルフクラブを握りたくなったんです。
久しぶりに顔を出したと思ったら頬を晴らしている。何をしていたのかと自分を見て驚く学友を尻目に、私は練習場でおよそ1年ぶりにクラブを握りました。何も考えずに昔のように握れましたが、別に驚きはありませんでしたよ。多分そうだろうと思っていましたから。精神的なショック療法と医者には言われましたが…どうなんでしょうかね。周囲の環境に関係なく自分自身と対話が出来るようになったといえば聞こえはいいですが、自分が1人では何も出来ない子供だという現実を突きつけられたんですよ。私は何も出来ませんでしたが、何も出来ないことを経験したということでしょうか。
戦後に旧ベルリンに自由に入れるようになったのは昭和30年頃のことです。私は国連軍警護の下でそのホテルがあった場所を訪ねてみたのですが、綺麗になくなっていましてね。集団墓地というやつですよ。誰もいないその場所に延々と石棺のような文字盤が続いていました。奇跡と賞賛されたシナゴーグも、再建途中で放棄されていました。泣きながら私を殴ったあの老人が、そしてあの時、肩を組みながら歓喜の歌を歌った彼らがどうなったのか……今でも時折、思い出します。
それでも叔父は、近衛秀麿は同じ状況になれば、おそらく同じことをしたと思います。居場所を求めただけの老人の話を聞いたとしても、音楽家として、指揮者としての叔父は揺るがなかったでしょうね。たとえ切り捨てる存在が目の前にあったとしても、自分の心に嘘はつけない。あの路上でタクトを振るっていた孤独な背中は、忘れように忘れられません。
だから私は政治的な発言はしないんですよ。出来ないと言ったほうが正確かもしれません。あの時に感じた無力感を二度と味わいたくありませんから……結局、ゴルフの世界に逃げているだけなのかもしれませんね。
しかし私はこれだけは断言します。私はあれからゴルファーとしての自分に、常に正直であろうとしてきました。いついかなる時も、自分が選んで信じたゴルフだけは裏切らないようにと。それは11月のベルリンで、「あの背中」を見てしまった者の責任だと思うからです。
- 『クリスタル・ナハトの記憶』東西出版(1960年)より -
・ワイはプロや!プロゴルファー・コノエや!
・俺の演奏を聞けェ!…ということで世界初のフラッシュモブ。
・なんだか史実とは違う意味で濃くなっていく近衛ファミリー
・紀伊の徳川侯爵。案外こういう人脈が馬鹿に出来ないのだが…良くも悪くもこういう殿様的な遊びをする人はもう出てこないだろう。そもそも純粋な貴族が絶滅危惧種だし。なお資金は政府特使ということで(ごにょごにゅ
・ヘブライ語ではケルブと読むそうで。ケルブと聞くとSIRENしか思いださないんだよなあ。あのゲームは本当に怖かった…宇宙凶険怪獣とは何の関係もありませんのであしからず。
・なお次からは夢も希望もない話しに戻る予定。
*(訂正とお詫び)*
歓喜の歌の日本語訳の歌詞に関して、翻訳の著作権が、なろう様のガイドラインで定められている期間を経過しているかどうか、確認しないまま乗せてしまいました。ガイドラインでは
>作詞家・翻訳家の没後50年が経過している場合は著作権の保護期間が失効しているとして原則対応対象外
このうち後者に関しては完全に認識不足でした。翻訳をあちらこちらから引っ張ったので、どこが、どの翻訳から引っ張った歌詞なのか確認出来ないのです。無責任で申し訳ありません。友人より指摘を受けまして、運営様に判断を仰いで相談した結果、該当部分を削除することにいたしました。お手数をおかけして申し訳ありません。事後、このようなことがないよう注意いたします。
今後とも完結までお付き合いいただけましたら幸いです。
(平成30年8月29日 神山)




