執務室にて
イセン国城の執務室。
目の前に直立する男を前に、この国の宰相の一人。
ユーゴ・アリオストは、書類に文字を走らせていた手を止め、あからさまに大きく息を吐き出す。
「どうしても軍には残らないと?」
「ええ。もう決めたことですから」
鋭い双眸を向けられても、何ら動じることなく第一隊所属の軍人であるエルンスト・メディシスはユーゴを見返す。
「あなたが抜ければ、軍の士気が低下しますね。この忙しい時に頭の痛い問題だ」
「我が国の軍はそれほど脆くはありません。自分が抜けても、十分やっていけます」
その淀みない答えに、ユーゴはあからさまに顔をしかめる。
「気楽なことを……。王はあなたの気持ちを尊重しろと言っていましたが、私としては納得がいきません」
「引き留めていただけることは嬉しいですが……義理とはいえ父の犯した罪。これはけじめです」
エルンストの義父であるドリノ・メディシスは、カイルが王であることを由とせず、密かに反乱を目論んだ。
それは寸でのところで阻止されたものの、宰相という地位にあったドリノはその任を解かれ、今はイセン国管轄下のオアシスに“静養”という名目で幽閉されている。
「それで? あなたはこれからどうするおつもりですか?」
「アラン殿の下につく予定です」
「……」
予想だにしなかった答えに、ユーゴは正気を問う様に、エルンストを見返す。
アラン・フェルミ。
魔術を扱う元暗殺者で、ランス大陸とトリア大陸の民の混血児。
クラウスたっての望みで、今はイセン国城滞在中のリルディの護衛をしている……というのは建前で、ほぼサボってフラフラとしている。
ユーゴの頭痛の種の一つでもある。
「いや、別に自棄になっているとかではないですって! 彼は独自にイサーク・セサルの動きを探っているんです」
ユーゴの胡乱な眼差しを受け、慌てて説明を付け加える。
「なるほど。あの男、何かコソコソとしていると思えば、そういうことですか」
「はい。彼は彼なりに、彼女を守ろうとしているのでしょう。自分もリルディをイサーク・セサルから守りたい」
決意を秘めた瞳をしたエルンストを前に、ユーゴは軽く息を吐き出し頭を振る。
「揃いも揃って勝手なことばかり。まったく、あの姫君が来てから、気が休まる時がありませんね」
そう。リルディが来てからのイセン国は目まぐるしく変わった。
ユーゴが想像していたよりも、はるかに大きく。
「えぇ。特に王の変化は目覚ましい。あれほど嫌っていた政務にも意欲的で、臣下の話に耳を傾け、民へも目を向けるようになりました」
昔の王は、与えられた仕事をこなし、耳に入ってくる案件を淡々と処理する。
決して無能ではないが、王として“国を育み慈しむ”という決定的な想いがかけていた。
「やっと王としての自覚が芽生えたようです。やるべきことはまだまだ山積みですが」
そう言いながら、満更でもないように口元を緩める。
「しかしやる気を出しているのはいいですが、リルディとの時間があまりないようですね」
「らしいですね。この間、ネリーが怒鳴りこんできました。別に私が妨害しているわけでもないというのに心外です」
「あぁ。あの方ですね。それにしても、バーニ前宰相のお孫さんとは驚きました。ユーゴ殿はいつから知っていたのですか?」
「最初から知っていました。バーニ様には、生前色々とお世話になっていましたし、彼女は忘れているでしょうが、面識もありましたから。ただ、あんなに生意気な女性に成長しているとは、想定外でしたが」
肩を竦ませうんざりとした表情で深い息を吐く。
「しかし、ユーゴ殿が彼女をリルディ付きの女官に推したと聞いていますが?」
「ええ。私に真正面から異を唱え、姫君に肩入れしたのですから。その責任は取っていただかないと」
暗い笑みを浮かべながら、どこか楽しそうでもある。
氷の冷相と呼ばれ、無駄なものは冷酷に切り捨ててきた男。
有能であるが、情というものが些かかけている。
ずっとそう思っていたが、感情豊かなネリーにつられてか、ユーゴも多少ではあるが、感情というものが垣間見えるようになってきた。
(ユーゴ殿をここまで変えたネリーさんがすごいよな)
ネリーと口論するユーゴの姿を、城内でよく見かけるようになっていた。
ユーゴの言葉を論破し、言い負かす命知らずな女性など、ネリー意外にいないだろうと、城内ではもっぱらの噂だったりする。
「なんですか?」
「いえ。何でもないであります! では、そういうことで……」
生温かい視線を感じ取ったユーゴが、訝しげに眼を細めたのを見て、エルンストは慌てて退室しようと一礼をする。
「ええ。……さて、そろそろ私も王を連れ戻さないといけませんね」
「えっ!? いや、し、しかし、まだ陽は高いですよ!? 早すぎやしませんか?」
カイルは今、リルディとの時間を楽しんでいるはずだ。
ネリーの抗議にユーゴが渋々ながら折れて、今日一日は仕事を回さない、ということになっていたはずだった。
「残念ですが急務が発生したので。致し方ないでしょう」
「そ、それは、マズ……いや、まだダメです!」
「は? なぜですか?」
はた目から見ても分かるほどに、エルンストはあたふたと慌てふためいている。
「そ、それは……。いや、その~」
「何にせよ、時間が惜しい。そこを退いていただけますか?」
「いや! えーと、その! もう少し話したいことがあるのですっ」
「? なんですか? 手短にお願いします」
「あ、え……その。そ、そう! 実は悩んでいることがありまして。ぜ、ぜひ、ユーゴ殿に相談させてほしいのであります!」
「は? なんで私があなたの悩みなど……」
「そう言わずに聞いてください!」
ダラダラと嫌な汗を流しながら、エルンストは憮然とした表情のユーゴへ、時間稼ぎと言う名の悩み相談を始めた。




