第二十四話
理不尽さを飲み込むことは、慣れている。多様な想念があったとしても、それを表に出すことは私にとっての悪だった。
それに加えて、カシュヴァールさんは私にとって、対極に位置する人のひとりだ。籠の中の鳥が青空に焦がれるように、手の届かない存在だ。
つまり私は、不満を口に出すことは出来ないが彼を恨むことも不可能、という心境にあった。
右や左に移動したいというのに、その場で足踏みをするしか選択肢がないという追い詰められた状況から、“私にとっての理不尽は、カシュヴァールさんにとって理にかなったもの”という事実が、私を救い上げたのだ。
その上、こうして誤解を認識し合えたのだから。これを機に再スタートを切れるのではないか。
そんな温かな希望を、私に持たせたのだった。
自然と頬を綻ばせていた私を見たカシュヴァールさんは、ふと、気付いたような顔つきになる。
「どうしたの、カシュヴァールさん」
今ならば、胸に溜めることなく打ち明けてくれるだろう。分かり切っていたからこそ、今日の天気訊くように、気軽に尋ねることが出来た。
「それだ」
「え?」
「俺のことはカシュでいい、マヤ」
思いもよらない提案に面食らい、ぽかんとしてしまう。
そういえば、いつからかカシュヴァールさんは、私のことをマヤと呼ぶ。それ以前は何と呼ばれていたか。そもそも私のことを呼ぶ機会があったのか、記憶にない。
だが、私を呼び掛ける事実や、今回の提案から。カシュヴァールさんの歩み寄りの意志が垣間見えて、私はふわりと浮き立った。
「じゃあ、カシュ、と呼ばせてもらうわ」
言いなれないむずがゆさを感じながら、さっそく口に出す。カシュは、なんてことはないといった様子で一言「ああ」と答えた。
「……不謹慎だが、あの時、マヤと話せて良かったよ」
間を置かずにモンセン家へとやって来たことがベイツさんらの判断によるものだとか、惑星ラーグと日本とでは上座の認識が異なるだとか。様々な誤解が生じていたことを知る機会がなかったかもしれない、とカシュは話した。
「私も、カシュと話せて良かった」
爽やかに、カシュへと答える。私も同様の想いを抱いていたからだ。
修道院の子ども達のことを考えた上での今後を逡巡したり、修道院を通して私の性格を改変しようとしたルートヴィヒさんの目論みを悟ったり。
ナイフを突き立てられる衝撃を幾度も経験したものだから、鏡の中の自分は、短期間で数年分老いた気がしてならなかった。
だが、その過程があったからこそ、今の和解がある。
「修道院のことでは色々と考えさせられたけれど、お陰でポジティブに捉えられるわ」
それは、飾り気のない素直な気持ちだったが、反面。カシュは、私の本心を聞いて、ハッキリしない顔をする。
「修道院での仕事を、止めるつもりか?」
「……正直、まだ迷っているの。けれど、行く意味が見出せていないのは確か」
「勿体無い、とは思うが」
「私が子ども達に出来ることがあるのか疑わしいわ。かといって、モンセン家の為に自分を変える気概はないもの」
私は、肩を竦めて自嘲した。
「は? どうしてモンセン家の為にという話になるんだ?」
取るに足らないことを聞いたように、顔を歪めたカシュは、私へ尋ねる。それを聞いた私も、顔が歪んだのを自覚した。眉間には皺が寄り、よく締まった口は渋そうになる。
「ルートヴィヒさんは、私を成熟させるために修道院を用意したんでしょう? 私が不利益をもたらすおそれがあるから」
口にするのも忌まわしいことだが、答えなければならないだろう。気の進まないままに、渋々と発したものだから、声色には胸間がそのまま乗っている。
「……本当に馬鹿だな」
不愉快そうな私の表情を解いたのは、あっけらかんとしたカシュの態度だった。仕方がない奴だとでも言いたげに、呆れ返っている。
馬鹿とは何なのか、馬鹿とは。不名誉な呼ばれを受けたことに怒りたくても、カシュの反応が珍妙なものだから、タイミングが掴めない。狼狽するばかりの私を見て、カシュは、「だから酷い人達、か」と天を仰いだ。
「兄上は確かに、狡知に長けている」
「それは認めるのね」
「当たり前だろう? 何年兄上と共にいると思っている」
「まあ、そうだけれど」
長い年月を同じ屋根の下で過ごしてきたのだから、性格を熟知していても不自然ではないのだが。
家族。特に、ルートヴィヒさんに対してカシュが送る尊敬の念は果てしないものに感じていた。それこそ、盲目とも言えるような。であるからこそ、ルートヴィヒさんの位置づけが、私とカシュで共通していたというのが意外だった。
「だが同時に、私腹を肥やすことばかりに頭脳を活用する人でないのも事実だ。――兄上はお優しいよ」
「優しい?」
ルートヴィヒさんが、カシュに愛情を注いでいることは見て取れる。しかしきっと、そういうことを言っているのではないのだろう。
私に対しても親切にはしてくれているルートヴィヒさん。しかし、基本的には損得勘定を忘れない人に違いない。慈悲や寛容さからは、程遠いと思うのだが。
今一つピンときていない私へ、カシュは例示する。
「例えば、統治。修道院の扱いは、マヤも知っているだろう」
「ええ。教育制度が敷かれた安定した環境があったし、ルートヴィヒさんはコニックさんからも信頼されているようだったわ」
「修道院の者が兄上に抱いている感情と、領民の大多数が抱いている感情は同一だ」
それはつまり、偏りなく秩序を付与し、発展に導いているということだ。それがどれだけ困難なのか。並の人間にこなせる仕業でないことくらいは想像がつく。
「兄上の聡明さを持ってすれば、誰にも知られずに私益に走ることなど容易い。……マヤに対してもそう」
「私?」
「指輪を染めさせずにマヤを操縦することなど造作ない、ということだ」
私には、ルートヴィヒさんと同様の所業は逆立ちをしたって出来はしない。
このことからも、カシュの言うことは揺るぎない事実であろうが。ではなぜ、ルートヴィヒさんは私を修道院で働かせたのか?
不可解さと遭遇し、縮かんだ私へと言うのは、以前も聞いた言葉だった。
「マヤのためだよ」
「……まさか、本当に私のことを想って? 経験を積ませるために?」
「無論、兄上はああいう人だからモンセン家の利益との相関も考えてはいただろうが。一番にあったのはマヤのためというのは違いないだろう」
愕然とするというのは、このことだ。頭の中が衝撃でビリビリと震えている。
カシュから指摘されたように、私には私の気付いていない至らなさが存在しているとして。それを成長させることが、今後の私の幸福と関与すると判断したからこそ、修道院に私を置く手配をしてくれたとは。
カシュの言うことが実証なのだとしたら――私は、不孝者だ。言葉も出ない。
「マヤが修道院へ行かないと決めたなら、止めはしないが。一度、考えてみてくれ」
衝撃で頭の中を白く溶かした私へと、カシュは控えめに提言した。私はそれに、大人しく一つ頷いたきり、遠い目をして思考を巡らせた。




