第二十一話
ギャップというのは偉大なものだ。町で有名な不良が小動物に優しくしていると、優しい人なのだと見直してしまう。ダンディな年上のオジサマが幸せそうに苺のショートケーキを頬張っていると、胸に来るものがある。
このように、遭遇すると好感度の針がプラスに振り切るギャップがあるのと同様に。マイナスに傾いてしまうギャップも存在する。常に笑顔を保っている人物が怒ると、通常以上の恐怖を感じてしまうようなそれである。
そして、私はと言うと。まさしく後者のギャップに悩まされていた。
食事の時間であるとアンネさんから知らされた私は、ダイニングルームの扉の脇で立ち止まっていた。後は、入室して席に着き、食事を始めるだけ。至極簡単な筈なのに、なかなかそれに踏み切れないでいた。
胸に両手を当て、深く呼吸をすることにより、気持ちを落ち着かせる。そうして、覚悟を決めると、ダイニングルームへと足を踏み入れた。
「お、おはようございます」
どもりながらの挨拶に、澄まし顔のルートヴィヒさんと、朝から華やかなマリアンヌさんからの反応が返ってくる。そこで終わるのなら、私の心は平穏なのだが。
「おはよう」
凛々しさと活力に溢れた声が、私の耳に届けられる。
もう何度目かになるそれに、未だに慣れることはない。私は一瞬硬直した後、冷や汗をかきながら、席へと着く。
怖い。一体、何を考えているのか。
私の目下の悩みは、カシュヴァールさんの気持ちが読めないということだった。
カシュヴァールさんは、数日前から。具体的には、私とカシュヴァールさんが口論を交わしたことを切っ掛けにして、どうも様子が可笑しかった。
というのも。見ると心底嫌気がしてくる筈の私と顔を合わせても、睨み付けたりしない。話しかけると、反応を返す。それどころか、カシュヴァールさんの方から、私に声を掛けることすらあるのである。
――こうして考えてみると、極々普通のコミュニケーションではあるのだが。それが成り立たない関係性しか、私とカシュヴァールさんは築いていなかったのだ。
カシュヴァールさんのつっけんどんさが当たり前となっていた私にとって、このような態度の軟化は、恐怖でしかなかった。
口論の翌朝に起きた変化だけであれば、気紛れや気のせいで済ませられたのだが――……。私は、まだ記憶に新しいその出来事を、頭の中に巡らせた。
朝食の席を、いつもと変わらない顔ぶれが埋める中。どうにも変わった様子でいたのは、カシュヴァールさんだった。
ルートヴィヒさんとマリアンヌさんのことを兄上母上と慕って尻尾を振っているのが通常運転のカシュヴァールさん。大好きな二人との会話もそこそこに、今まではその目に映ってすらいなかったような私を、注視しているのである。
それだけでも圧迫感を感じると言うのに。この異変に気付いているルートヴィヒさんとマリアンヌさんまでもが、私のことをチラチラと覗き見る始末。
出来立て熱々。とろーりクリームチーズオムレツの味に、集中できない。味の抜けきったガムを噛んでいるようだ。
「……何か御用ですか、カシュヴァールさん」
話し掛けた所で、どうせ無言が返ってくるだけだろう。分かり切っているからこそ、気が進まない。しかしながら、この後の昼食や夕食でも。食事の度に、視線を向けられるような事態にでもなったら、気が参ってしまう。
仕方がない。私は溜息を飲み込み、重い腰を上げ、カシュヴァールさんに問い掛けた。
「いや、何も」
ぎょっとした。まさか、カシュヴァールさんからマトモな反応があるとは。
完全に虚を衝かれた私――それと、ルートヴィヒさんとマリアンヌさん――は、カシュヴァールさんのことを二度見してしまう。
すると、驚く私達に対して、カシュヴァールさんは不満げに唇を尖らせた。
「兄上と母上まで。一体何がおかしいのですか」
カシュヴァールさんは、じと目で拗ねて見せた。目に入れても痛くないほどの可愛らしさであるが、それどころではない。
私達がどうして驚いているのか分からないカシュヴァールさんに、驚きだ。もっと露骨に言うと、私の話し掛けに、何の不快感も見せずに応じるカシュヴァールさんに、驚きである。
今日のカシュヴァールさんは、様子がおかしい。
熱でもあるのだろうか。図らずも、カシュヴァールさんの体調を疑ってしまう。だが、幼子のように柔らかで艶のある肌には、桃の実のように生気だった赤らみがある。また、食も進んでいるようである。見る限りでは、健康そうだ。
他に考えられる理由はというと……やはり、昨夜の口論であろうか? しかし、あれが気に入らなかったのだとしたら、和やかさの欠片もない雰囲気が辺りに漂っている筈。そして、鬼のような形相で睨み付けられる私の姿が、想像できる。だが、今のカシュヴァールさんは、それとは程遠い。
戸惑いを、何と説明すれば良いのだろうか。婉曲的な、上手い表現が見つからない。どうしたものかと途方に暮れていると、見かねたマリアンヌさんが、流石母親とでも言おうか。カシュヴァールさんに、ズバリ尋ねた。
「カシュ、何かあったの? 今までは、マヤさんと話そうとしなかったじゃない」
核心を突いた問い掛けに、私は緊張した。喉が、ゴクリと鳴るのを自覚する。しかし、六つの目に見つめられているカシュヴァールさんは、キョトンとしている。
「別に何もありません」
そんな訳はないだろう。何か思う所がなければ、あれだけ頑なだった態度が急変する訳がない。
場に流れる微妙な空気を悟ったカシュヴァールさんは、「そうですね……」と言葉を重ねた。
「ただ、思う所がありまして……考えているだけです」
だから。それが何かを尋ねている訳だけれど?
ハッキリしない返答に、モヤモヤとして気分が晴れない。しかし、結局それ以上の答えは出てこないまま、食事は済まされた。
気になる上に、何一つとして解決はしていないのだが。その会話によって、私に注がれていた視線が外れたのだから、御の字としておこう……そう、この時は思っていた。
しかしながら、この出来事は、カシュヴァールさんのご乱心のはじまりに過ぎなかったのだ。
「今日も、修道院に行くのか?」
回想をする中で、放心していた私は、カシュヴァールさんからの問い掛けによって現実へと引き戻される。
「修道院は、明日の予定よ」
「そうか。そういえば、修道院の皆の顔を暫く見ていないな。実を言うと、近いうちに行かなければならないと思っているんだ。是非とも、よろしくと伝えてくれないか」
「分かったわ……」
まさかの、カシュヴァールさんからの頼み事である。勿論これは、社交辞令なのかもしれない。だとしても、会話を円滑に進めたいと思わなければ、口にすることではない。
本心からの頼みであったとしても、愛想だったとしても。どちらに転んでも驚愕の行為である。
私は、頬をピクピクと引き攣かせた笑顔で、了承した。
受け答えに応じてくれた、という控えめな変化から始まって。ほんの数日間で、これである。交流に積極的とも言えるほどに、緩衝している。
カシュヴァールさんは、なぜこうなったのか。
おそらく、あの口論が少なからず関係しているのであろうが。嫌われはしても、好かれる要素などひとつとしてなかったと、断言できる。もしや、何らかの企みがあるのでは? そうでなければ、天地がひっくり返ったような変わりようは、有り得ない。
ぶるり。背筋を蛇が這ってくるような悪寒が走る。
それはきっと、不都合なことが起きる前触れだった。
「すまないな。後ほど、書簡を預けるから、そのつもりでいてくれ」
それは、つまり。ルートヴィヒさんとマリアンヌさんがいない所で、カシュヴァールさんと対面しなければならないということか。私は、今にも気が遠くなりそうだった。




