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第九話


 年若い女性使用人が仕度していた紅茶が、蒸らし終わったようだ。丸形タイプのティーポットから、赤く澄んだ紅茶がカップへと注がれる。フルーティーな香りが含まれており湯気は、それを胸に吸い込むだけで幸福な気分になれる。

 だというのに、応接間に漂う空気は、暗鬱としていた。


「彼は、カシュヴァール・モンセン。私の弟だ」

「では、お屋敷でお待ちしている弟君というのは……?」


 まだ幼い弟が屋敷で待っている。私は、ルートヴィヒさんからそう聞いていた。だが、カシュヴァールさんは、どう見ても成人しているようである。まさか、彼のことではあるまい。きっと、他にも弟がいるのだろう。

 そう思いながら、尋ねたのであるが。


「カシュのことだ」


 予想は、あっさりと裏切られた。

 確かに、ルートヴィヒさんと比べると「幼い」と言えるのだろうが。一般的に、彼は幼いという言葉の範疇にない。幼いというと、せいぜい、十歳前後の小学生くらいの年代だろう。想定していた年ごろと違いすぎて、戸惑ってしまう。


「これから先、顔を合わせることもあるだろう。把握しておいてくれ」

「分かったわ」


 しかし、私の戸惑いを察した気配のないルートヴィヒさんは、涼やかである。

 彼にとっては、カシュヴァールさんが幼いというのは当然すぎる事項であるが故に、違和感を覚えるという発想がないのだろう。もしかしたら、カシュヴァールさんに持っている印象が、幼少期に持ち合わせていたものから変わっていないのかもしれない。

 よく聞くではないか。親にとって子どもはいつまでも昔のまま。例えば、昔好きだった好物を、大人になっても好きなままだと思い込んでいる……とか。それと同じ類なのではないだろうか?


 気を取り直した私は、言われるがままに把握をしようと、カシュヴァールさんをちらりと覗き見た。すると、席についてもなお、私を睨み続けていたらしい。私と彼の視線が、ピッタリ合う。そして、それを咎めるように、カシュヴァールさんの眼光が強まった。慌てて、テーブルに置かれた花に注目した素振りをする。


「カシュと母上。それから、ここにいる二人がマヤの事情を知っている。何かあれば声を掛けるといいだろう」


 ルートヴィヒさんのご家族の名前と顔はインプット済みである。

 加えて、新たに紹介された使用人の二人のことを万が一にも間違えないように――というのも、使用人の皆さんの服装は、どれも似通っているからだ――よくよく確認し直す。


 執事と見受けられる男性使用人のヘルメスは、オールバックにした白髪と口髭が特徴的な男性だった。モノクルのチェーンは小さな宝石で成っているようで小洒落ているし、老いを感じさせない凛々しさがあった。

 また、アンネという女性使用人は、私に付いてくれるという。ピンクブラウンの髪を三つ編みのおさげで結っている彼女は、温厚そうな空気を纏っている。


 二人をしっかりと焼き付けたところで、了承の意をもって、ひとつ頷いた。それを確認したルートヴィヒさんは、脳内で確認事項を整理するかのように、顎を一撫でする。


「あとはそうだな、屋敷の中を一通り案内しておこう」


 それは助かる。勝手に歩き回ることはないだろうが、何かあった時のためにも、一通りは把握しておきたい。感謝の言葉を伝えようとしたところで、カシュヴァールさんが開口一番に抗議した。


「ちょっと待ってください。まさかとは思いますが、兄上が行うつもりではないでしょうね?」

「何か問題でも?」


 とんでもないことだ、というように、目を吊り上げている。


「アンネかヘルメスにさせれば十分でしょう。兄上には是非、留守中の報告を聞いていただきたい」

「ヘルメスから、書類によって一通りの報告はされている。加えて、カシュはよくやっていたと母上からも伺ったため、夕食後に時間を取ろうと思っていたのだが……?」

「いえ、そうではなく……。兄上のご指示のお陰で、確かに問題はなかったのですが……」


 何らかの対応を直ちにとる必要がある出来事が起きたのか。そう問う言葉に、カシュヴァールさんはまごついた。きっと、マリアンヌさんの報告通り。カシュヴァールさんは、上出来な仕事ぶりを発揮していたのだろう。


 だが、カシュヴァールさんは、どうやら私への反感を持っているようである。強い言葉の数々は、一見ルートヴィヒさんに向けられているが。兄上がマヤ・ハシバのために動くのが気に入らない、という意識がひしひしと伝わってくる。

 つまりは、「兄上にそんなことまでさせる気か」という私への批判である。それを裏付けるように、ひとつひとつの言葉選びには、ルートヴィヒさんへの尊崇が宿っている。


「ルートヴィヒさん。都合がつくならだけど、私はアンネさんに案内をお願いしたい」

「それは可能だが、大丈夫なのか?」

「ええ。これから近くにいてもらうんでしょう? 少しでも親しくなりたいから」


 カシュヴァールさんの頑なな態度は、ルートヴィヒさんのことを想ってのこと。一途とも見える行動だ。自身が障害物となっている意識が芽生えてきた私は、そっと提案する。


 当主直々に屋敷の案内を行おうとしていたのは、ひとえに、慣れない環境に置かれる私への配慮だ。今しがた名前を覚えたばかりの相手と回るよりも、馬車内で多少なりとも打ち解けたルートヴィヒさんと一緒の方が、頭に入るのは明らかだからだ。


 とはいえ。アンネさんと仲を深めた方が良いのも事実。

 それらしい理由を本音のように並べたことで、気遣わしげにしていたルートヴィヒさんも納得したようだ。無事、報告の時間を前倒すことに成功する。

 まあ、これによってカシュヴァールさんから「兄上を足蹴にするとは何様のつもりだ」と言いたげな、憎悪の籠った視線を送られることになるのだが……。



 そのような経緯を経てから、屋敷を案内されると。

 モンセン家の代々の領主の肖像画を飾った広い階段室の壁も。先代から引き継がれてきた絵画や彫刻を展示してあるギャラリールームも。コレクションされてきた膨大な量の書物を治められたライブラリーも。

 文化遺産ともいえるような財の数々だというのに、私の心は動かなかった。誰もが多少なりとも興味を惹かれるはず。平常時であれば、私も目を輝かせたことだろう。


 だが、そうはならなかった理由が、あの烈火のごとく燃ゆる眼差しにあって。私の未来が、厳重に縛られてしまったからだと自覚していた。






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