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μ  作者: ミナ
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04

ミューは、思ったよりも柔軟だった。

首輪を嵌めたくらいだから、もうどうにでもなれ、とでも思ったのかもしれない。

しかし、それだけでここまでできるものだろうか。

コマンドに従わされるのは、まあ、まだ我慢できるほうかとは思う。

それでも普通の人間ならば、四足歩行には抵抗があるだろう。

増して、ボウルに入れられた物を飲食するのは、はっきり言って尊厳を無視した扱いだ。

怒りだしてボウルをひっくり返したって、おかしくない。

けれどミューは、動揺し困惑しつつも、結局は全て受け入れた。

いや、だがしかし、柔軟、というのとは少し違うような気もする。

元来の負けず嫌いな性格が、多分出ているのではないか、と西條は思う。

ここまで来たら何が何でもやってやる、というような意地が見え隠れしている気がする。

何のために西條のもとへ来たのか、それがわからないから西條としては警戒を解けない。

けれど、ミューの行動には、どうしてもここにいるのだ、という気持ちが透けている。

そうするとこちらも、どこまで行けるか試したくなるというものだ。

追い返そうとする気持ちは、既に半分以下に減っている。

逆に、ミューをこれからどうするか、楽しみなような気が起こってさえいる。

これは、誤算だった。

そう思ったところで西條はひとつ、ため息をつく。

それ以上に厄介な誤算があったのを、思い出したのだ。

それはミューの、あの、顔。

コマンドに従った時に西條が褒めた後の、あの表情だ。

無意識か、計算か、それはわからない。

ただ、信じられないほどにふやけた目、一瞬で上気する頬が、これ以上なく甘いのだ。

あの瞬間、とろりとした何かが、こちらまで流れ込んできそうな気がした。

それどころか、西條の腹の奥で、何かよからぬものがぞろりと蠢く気配さえした。

思い出しただけの今でさえ、気を抜くとぶり返しそうだ。

また見たいような、見たくないような、矛盾した欲求に、西條はもう一度ため息をついた。


翌朝、西條は定時の二時間前には既に出勤していた。

これは、非合理的な行動を嫌う西條にしては、かなり珍しい行動だ。

いや、正確に言えば、少し前までは頻繁にあったことではある。

だがそれは、西條の上司である智紀のせいで、西條が望んでそうしていたわけでは無い。

その頃の智紀は、些細な誤解がもとで結婚関係がうまく行っていなかった。

智紀は逃避先を会社にしていたため、定時の何時間も前から会社に来ることが多かった。

そのため秘書である西條も、智紀より前に出勤するために、随分早く会社に来ていたのだ。

だが最近、智紀は夫婦関係を修復した。

主に智紀の態度が変わり過ぎて、傍で見ている西條からすれば気持ち悪いくらいである。

だが、幸せそうなのは良いことだ。

それに、そうなってくれたおかげで、西條の労働環境も改善した。

笑えることに今度はぎりぎりまで家にいるようになったため、早すぎる出勤が無い。

西條もようやく通常の時間に出勤できるようになった、ということだ。

だから、今日これほど早く出勤したのは、西條の意に全くそぐわない行動である。

ミューのあの表情を何となく見たくなくて、ミューが目を覚ます前に家を出るなど。

「まったく、あいつを笑えないな…」

あの頃呆れながら見ていた智紀と同じ行動を取るとは、何とも不甲斐ない。

智紀の出勤時間を予想して淹れていたコーヒーを、今は自分の為に淹れている。

一口含み、思いの外苦かったそれに、西條の眉間のしわがいっそう深まった。


出勤してきた時に西條に寄越した智紀の含み笑いが、西條の癇に障った。

苛っとしたが、他の社員の目もあるし、あからさまに智紀に何か言うわけにもいかない。

西條は、午後三時半頃まで辛抱強く待つことにした。

ちょうどその頃、智紀は妻である木綿子(ゆうこ)に帰宅予定時刻を連絡する。

智紀が就業中に唯一私的な事柄をする時間帯である。

だから西條と智紀とで何か私的な話題があるとしたら、この時が一番最適なのだ。

ちなみに、“猫”を引き取ってくれ、と智紀に言われたのもこの時間帯だ。

時計が三時三十分になった瞬間、西條は席を立った。

智紀の部屋に入ると、プライベート用の携帯を見て口元を緩めているのが見える。

多分、またメールにハートの絵文字でも使われていたに違いない。

いつもは笑ってやるところだが、今日の西條に智紀で遊ぶ余裕は無い。

部屋に入った西條に気付いた智紀は、緩んでいた口元を、今度は面白そうに歪めた。

智紀のほうも、西條が何を話しに来るのかわかっていたのだろう。

「かわいかっただろう?」

徐に言った智紀のその言い方に、西條の苛つきが増した。

この件に関して、西條にとっての元凶は智紀に他ならない。

「あぁ、“猫”な」

「悪かったよ。ああでも言わないと、お前は頷かなかっただろう?

お前、女嫌い…というよりかは、そもそも人間嫌いじゃないか」

「わかってるなら」

初めから話しを持ってくるな。

西條がそう言葉を出す前に、智紀が口を開く。

「お前でなければダメだったんだから仕方ないだろう。

それに、一緒に住んでいれば情も沸くだろうし、作戦的には間違ってないな」

智紀が、妙におかしそうに言った言葉に、西條は一瞬言葉を失って、瞬いた。

世話をしてくれる人が他にいなかったのではない。

最初から、西條がターゲットだったということではないか。

聞いていない、などという頭の悪そうな言葉が脳裏に浮かんでしまったのも仕方あるまい。

昨日、ミューとはきちんと話しをしていない。

というより、西條はミューを人間として扱わなかったから、話す暇もなかったのだが。

こんなことなら、二割どころか一厘の遊び心も出すことなく追い出すのだった。

一番厄介な種類の人間を家に引き入れてしまった可能性に、西條は歯噛みした。

智紀は、西條のその反応を見て、どうやらまずいことを言ったらしいと思ったようだ。

「もしかして彼女、何も言わなかったのか? 西條、お前、何も聞いて」

「無いな」

まさか、という思いを全面に出して途切れ途切れに聞く智紀に、一言で答える。

顔を引き攣らせた智紀に、西條は少しだけ胸がすっとした思いがした。

しかし、問題は依然として存在しているままだ。

さて、どうしようか。

「ちょっと、待て。お前、彼女に何かまずいことしていないだろうな?」

まずいこと?

首輪を嵌めて、四足歩行をさせ、動物のように扱ったのは、確かにまずいことだ。

その内容を、智紀に対してありのままに申告するようなバカな真似はしない。

けれど、初めに“猫”だと思わせたのは智紀だ。

におわせるくらいしてやっても、いい。

「まずいことなんかしてないさ。俺は“猫”を飼ってるだけだ」

西條の言葉に、智紀は引き攣らせていた顔をそのままに、色だけを器用に青白く変えた。

どうやら、西條のにおわせたものを正確に感じ取ったらしい。

さすがに学生時代からの付き合いなだけある、と妙なところで納得してしまう。

「おい、西條。お前、何を言ってるんだ」

「何って、そのままだろう」

「西條っ」

焦って西條の名前を呼ぶ智紀に、西條は笑顔で返してやった。

「だから、飼ってるんだよ」

「か…っ! お、お前、何っ。バ、っカなことを言うな」

根がまじめな智紀らしく、かなり慌てながら西條に抗議を続ける。

その様子を見て、朝から感じていた苛つきが、なんとなく治まったような気がした西條は、

まだ続く智紀の言葉を聞き流し、言いたいことは言ったとばかりに、ドアへと向かった。

「ちょ、待てって! 西條、頼む。本当に、下手なことはやめてくれ。

 美憂ちゃんは、佐那から預かってるんだ。…できるだけ、傷つけないでやってほしい」

最後の智紀の言葉を背中で聞いて、西條はドアを閉めた。


矛盾している。

西條が恋愛を、というよりも深い人間関係の構築を忌避しているのを、智紀は知っている。

そうでありながら、西條との恋愛を望む人間を西條のもとへ寄越したこと。

そうでありながら、できるだけ傷つけるな、と言うこと。

「幸せボケか?」

自分が幸せだと、要らぬおせっかいをやこうとする人間は多い。

しかし、今までの付き合いで、智紀はあまりそういうタイプではないと思っていた。

少し見誤っていたのだろうか。

一瞬そう考えたところで、智紀の口から佐那の名前が出たことを思い出した。

佐那は智紀の従妹で、西條も学生時代から面識はある。

頭の回転が速い上に気が強く、あの頃から智紀がよく押し切られていたことが思い浮かぶ。

多分、今回のことも同様に佐那に押し切られたに違いない。

しかし、元凶が佐那だとわかろうと、現状は変わらない。

頭の中で、智紀の最後の言葉をリピートする。

「…勝手なヤツ」

それに、不必要な情報は、それだけではなかった。

ずっと“彼女”としか言わなかった智紀が、最後の最後に口に出した、名前。

「ミウ…か」

智紀と関りがあり、佐那と仲の良いミウという名前の女性。

西條の持っている、企業とその関係者を包含する膨大なデータの中で合致するのは、一名。

一条コンツェルンをけん引している一条 隆介(りゅうすけ)の長女、一条 美憂だけだ。

これまで美憂と西條との個人的な関わりは無かった。

それどころか、記憶をたどってみても、美憂と会ったこともすれ違ったことも無いはずだ。

智紀の秘書ではあるが、公の場にはほとんど立たない西條である。

どうして、美憂が西條のことを知っていたのかも、予想がつかない。

本当に、厄介なことになった。

しかし、西條はその夜帰った家の玄関で、考えごと全てを放棄した。


リン…。


足元から聞こえた、その、鈴の音のせいだ。

目をやると、床に正座した美憂。

その首輪は、昨日西條が調節したままのキツさで嵌っている。

外そうと思えば外せるのに、外さなかったのか。

西條は、自分の唇が妙な形に歪んだのを自覚した。

「ただいま、ミュー」

そうだ。

お前は、ミューだよ。

ここに、一条 美憂はいないんだ。


不要な情報は、いらないから不要なのです。

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