01
リン、と鈴が鳴った。
物がほとんど無いせいか、やたらと響いた気がする。
ソファの陰に寝そべっていた黒ラブのタウ(τ)と、ソファのひじ掛けに顎を載せていたパピヨンのシータ(θ)が揃って顔を上げたのが見える。
じっとこちらを見つめる二匹の円らな四つの瞳が居たたまれず、美憂(みう)は意味も無く姿勢をぴしりと正す。
音の源を理解すると、タウもシータも元の姿勢に戻って目を瞑った。
専らペットのためだけに使われているこの部屋は、広い空間とちょうど良く調節されている空調設備のおかげで、かなり居心地が良い。
それでも窮屈に感じるのには、理由がある。
美憂が、喉元に手をやると、その理由が触れた。
それには、小さなイニシャルチャームと鈴が付いている。
美憂が少し体を動かすだけで、高らかに鳴り響くその鈴の音色は、どこか現実離れしたもののようでありながら、しっかりと現実のものだ。
どうしてこんなことになったのだったか。
指先で鈴をぎゅっと挟みながらここ数日間を思い返し、美憂は背中を壁に付けてため息を吐き出した。
そもそもの元凶と言って真っ先に浮かぶのは、美憂にほぼ強制的に結婚させようとしている父親である。
今時、親が無理に子どもに見合いをさせるなんて、時代錯誤もいいところだ。
そういう親のやり方が嫌で嫌で、まだ何も言われない学生のうちから海外へ出たというのに、そろそろ三十路が近づいてきた今、その効果は薄れてきたらしい。
東京から1万キロメートル近くも離れたロンドンで、しかも電話一本で、約一か月後には結婚させるなどと言われたら、どう反応して良いものか。
言いたいことだけ言って切られた電話を、電話機に罪は無いとわかってはいても、思わず壊してやりたくなる。
「Old fart!(くそじじい!)」
わなわなと震える手で受話機を握りしめる美憂を、それまで気遣わしげに見ていたルームメイトの佐那(さな)が眉を顰めた。
「…美憂、言葉が汚いわよ」
「う、だって…」
「おじさまが、どうしたの」
「一か月後には結婚させるって、しかも私が会ったことも無い人と!」
「まあ、おじさまらしいわね。
美憂がほとんど日本に帰らないから、痺れを切らしたってところじゃないの」
佐那は美憂の歳の離れた兄たちを通じた幼馴染みだ。
美憂の両親のことも良く知っており、佐那の言葉は確かにその通りだろう、と頷けるものだった。
「それは確かにそうなんだけど、でも!
恋愛くらい好きなひとと楽しみたいし、
結婚相手だって自分で選びたいでしょっ?」
「でも美憂、今はべつに付き合っている人はいないじゃない」
それなら一度会ってみるのも手じゃないか、ということなのだろうが、ひねた聞き方をすれば、楽しむ相手なんていないじゃない、とも聞こえる。
佐那はべつに厭味で言ったわけではないのだが、若干傷ついた美憂は恨めしそうに佐那を見つめる。
「付き合っては、ないけど」
「じゃあ、好きな人がいるの?」
「そこまででも、ないけど…」
佐那の言葉に、美憂はだんだんと勢いを失くしていく。
溢れかえるほどの親からの独立心のみで今まで生きて来た美憂は、確かにろくろく恋愛経験も無い。
それに、心に引っかかる人はいるけれど、好きな人、と胸を張って言えるほど、その人のことを知っているわけではない。
少し前に日本に帰国した際、無理矢理出席させられていたパーティの時に一度見かけただけで、名前さえ知らないのだ。
当然、人となりについてなど知る由も無い。
「でも、気になってはいるのね。
私が知ってる相手? 何なら協力するわよ」
「ありがと。でもきっと、佐那ちゃんの知らない人だよ。
私も、その人の名前すら知らないし」
「駅とかで会う人?」
「違う。こっちの人じゃなくて、日本人」
「え、そうなの?」
ほとんど日本に帰らないのにいつの間に、と驚く佐那に頷き返してから、美憂は携帯電話を手繰り寄せた。
実は、こっそり写真だけ撮ってあったりしたのだ。
「この人。前に佐那ちゃんと一緒に帰った時、パーティで見かけたんだ」
佐那は、じっと携帯電話のディスプレイを見つめている。
佐那が何も言わないので、美憂はその時のことを思い出しながら話す。
無理矢理出席させられたパーティは、やはり美憂をうんざりさせるものだった。
ロビーに脱け出したところで、ソファにかけてコーヒーを飲んでいるその人を見つけたのだ。
テーブルの上に置かれた何かの書類と、時計を気にしながら会場の入り口を見る仕草。
きっと出席者のうち誰かの秘書か何かなのだろうとは思ったけれど、声はかけられなかった。
まさか自分がこんな盗撮まがいのことをするタイプだとは思わなかったけれど、今となっては想い出の一枚ということになる。
「…ちょっと、これ借りるわ」
「えっ?」
佐那はさっと赤外線で画像データをコピーすると、何やら難しそうな顔で部屋から出て行ってしまった。
もしかして、知っている人だったのだろうか、と思ったが、余計な期待をすればその分落ち込みもひどくなる、と美憂は気にしないことにした。
佐那が、嬉々として美憂の部屋に戻ってきたのは、それから三時間ほど後だった。
もともと派手めの顔立ちの佐那は、笑うとさらにゴージャスな表情になり、ある種の凄味がある。
満面の笑みを浮かべた佐那に、見慣れている美憂でさえ腰が引けた。
「ど、どうしたの」
テンションの高い佐那についていけない美憂が問いかけると、佐那が携帯を突き出してきた。
ディスプレイには、例の人が正面から映っている。
「え、え? この人…」
「画像の男、これ、間違いないでしょ?
もしかしてと思って、智紀(さとき)に聞いておいたの」
佐那が智紀と呼ぶのは、佐那の従兄で、醍醐不動産の副社長のことだ。
美憂も子どもの頃から知ってはいるけれど、歳が離れている上に、あまり異性とは馴れ合わない性格らしく、美憂とは挨拶を交わす程度の知り合いだ。
佐那が美憂に教えてくれた情報によれば、その智紀の秘書をしているのが、まさに例の人―西條 斉(にしじょうひとし)だという。
「西條は、正直、オススメはしたくないんだけど」
「どういう意味? もしかして、佐那ちゃんも好きだったの?」
「まさか!」
思い切り嫌そうな顔で、佐那が思い切り首を振る。
そうすると、性格がものすごく嫌な人なのだろうか、と多少不安になって尋ねてみたが、佐那はそれにも首を振る。
「嫌な人間ではないけど…。何ていうか、恋愛向きじゃないのよね」
と言われても、恋愛経験の乏しい美憂には、恋愛向きかそうでないかの感覚など今一つわからない。
名前も知らなかった人が、急に身近な人物になり得る可能性が見えたことだけで、驚きと期待で美憂の心は少しずつ浮つき始めていた。
それを察した佐那は、最後まで美憂に協力してやることにする。
「美憂がそうしたいと思うなら、西條に引き会わせてあげる」
「ほんとに?」
「ただし、美憂に、何でもする気があるなら、の話だけど」
「するっ!」
即答だった。
何でも、の中に何が含まれているかは良くわからなかったが、無理矢理結婚させられる事態を考えれば、西條と一度でも会うためなら何でもできる気がした。
佐那の言葉の意味を正確に理解したのは、西條に実際に会ってからだった。
そういう意味では、佐那が第二の元凶だったとも言える。
美憂が何でもすると答えた数日後、佐那は、話は通してあるからとにかく日本に行け、と美憂に長期休暇を取らせた。
そして美憂は、生活のもろもろは智紀に任せてあるから心配するな、と佐那に言われるまま日本へ帰って来たのである。
西條の暮らすマンションにはフロントがあり、本当に話が通っているらしく、美憂は怪しまれることもなく西條の部屋まで案内された。
それから、待つこと三十分ほど。
エレベータから降りてきた西條に、美憂は緊張のあまり言葉が出ず、最敬礼よりもさらに深くお辞儀した。
西條は、美憂のことを何と聞かされていたのか、美憂を見て、次に手に持っていたビニール袋を見て、それからしばらくは無言だった。
「……とりあえず、入れば」
ぶっきらぼうとも言える物言いだったが、美憂の持ってきていたスーツケースをさりげなく持ってくれた。
嫌な人間ではない、と言った佐那の言葉は本当のようだった。
けれど、部屋に通されてから差し出された物を見て、美憂は意味も無く瞬きを繰り返した。
何度見直しても、どの角度からどう見ても、それは猫もしくは小型犬用の首輪に見える。
細い革製で、パステルカラーのそれには、ジルコニアが光るMというイニシャルチャームと、小さな鈴が付いていた。
意図を図りかねた、いや想像はつくが信じ難い美憂が、西條の顔に視線を戻すと、西條はそれはそれはきれいに笑った。
「人は傍に置かない主義なんだ」
まるで相手にされていない、と悟るには十分すぎるほどの反応だった。
もしも西條の目に、面白がるような色を見つけていなかったら、美憂は失望して西條を蹴り飛ばしてこの場を去ったことだろう。
けれど、美憂を試しているようなその目に、美憂の中の負けず嫌いな面がいたく刺激された。
内心では、何でもってこういうことなの、と佐那に泣き事を叫びつつ、美憂は西條の手からひったくるようにそれを受け取る。
リン、と鈴が鳴った。
徒花の智紀の秘書・西條の話です。
なんというか、雰囲気がちょっとアブノーマルなので、苦手な方はごめんなさい。
話が進むにつれて、だんだん人間扱いから離れていきますので^^;
平気な方は、楽しんでいただければ嬉しいです。




