第五十九話 「公爵令嬢は愛について聞く」
立ち去ったマリウス様は本当に屋敷から立ち去ったらしく、セバスティアンが屋敷内を探し、ミシェルも隅々まで目を光らせたが影も形も見えなかった。
忽然と姿を消したとしか思えない黒衣の伯爵について腑に落ちず、首をかしげながら廊下を歩いていると客室から光が漏れているのが見えた。
「フィサリス公爵」
「これはご令嬢」
さきほどまで雨に濡れていた服を着替え終えた銀縁眼鏡の公爵と目が合い、つい『公爵』と言ってしまったが、彼は『大公』の称号も持っていたことを思い出す。
「あ、フィサリス大公とお呼びした方がよろしいですわよね?」
「私を『大公』と呼ぶのも『公爵』と呼ぶのも間違いでは無いのですが、私自身は身分や称号にこだわっているわけでは無いですから、名前で呼んで頂いた方が嬉しいですね」
「家名の『フィサリス』ではなく、ダリオン様とお呼びした方が?」
「ええ。そちらの方が好ましいですね」
「では、ダリオン様と呼ばせて頂きますわ」
私がそう言えば銀縁眼鏡の貴人は満足そうに頷いた。
「ところで、マリウス様はこちらに来られなかったですか?」
「いいえ。来ていませんが?」
「そうですか……。まだ話したいことがあったんですがマリウス様は、もう屋敷には居ないようで」
銀縁眼鏡の公爵と、黒衣の伯爵マリウス様は二人ともガランサス国の貴族だから、もしやこちらに足を運んだのではと思ったのだが、どうやら空振りのようだ。
マリオン様から遺物の回収を頼まれたが、その遺物とやらが一体どんな形状なのかすら分からず困惑していると、ダリオン様は銀縁眼鏡の奥でオレンジカーネリアン色の瞳を細めて口角を上げた。
「あの男は性格的に嘘をついたり、隠し事をするのを嫌がりますからね……。大方、ご令嬢に嘘や隠し事をしたくなかったから、追求される前に姿を消したのでしょう。愚かなことだ」
「愚か……。ですか?」
「私は別に差し障りの無い嘘であれば、構わないと思うのですがねぇ」
「差し障りの無い嘘?」
「ことさら、相手を騙そうとするような嘘ではなく、あくまで事を荒立てない為の配慮で嘘を言う必要や、真実を伏せる必要が時にはあると言うことですよ。ご令嬢」
「それは……。まぁ、確かにそういうこともあるでしょうけど」
「一から全てを構築するような事実無根の嘘という物は、いずれ綻びが出て破綻してしまうものですが、真実の中にほんのちょっぴり嘘を混ぜ込んでおけば、案外分からないものですからねぇ」
「ダリオン様が嘘をついたら、分かりにくそうですわね」
「まぁ、バレる嘘をつく位なら、最初から嘘などつかなければ良いとは思っていますがね」
茶色い髪を揺らし肩をすくめて笑ったダリオン様は、ふと思い出したように私の方へ視線を向けた。
「そういえば、ご令嬢が書いて下さった紹介状を見せたらファムカ王立図書館の司書は快く案内してくれました。助かりましたよ」
「お役に立てて良かったですわ。それにしても、ダリオン様はもうファムカ王立図書館の蔵書に目を通されたんですか?」
「ええ、めぼしい物に関しては。写本に関しては読んだ事がある本が多かったですね……。有名作についてはすでに目を通したことがありますし」
「流石ですわね」
めぼしい物といっても相当な量があったはずだ。愛読家であるとは思っていたが、いったいどれだけの書物を読んできたのか見当もつかない。
「あの王立図書館はただ蔵書数が多いだけではなく、質も高いのが良かったですね。おかげで駄作を見ずに済みました」
「ファムカ王立図書館は司書さんがしっかりしてらっしゃるから、閲覧者の目につく場所はちゃんとした本を置いてるそうですよ」
「ああ。やはり、そういう配慮がなされていたのですね」
「たまに質の低い本が貴族から寄贈されることもあるらしいですけど、価値が低いと思われる内容の書物に関しては大事に保管するという名目で、一般閲覧者が見なくて済むように地下室に置いておくとか」
「大方、貴族が自ら書いた自伝や小説を王立図書館に寄贈するが、質が低すぎて読めたものではない内容なのでしょうね」
「まぁ、そういうこともあるでしょうね……」
「それは、きっと私が嫌いな部類の書物でしょうから、地下に封印してくれた司書に感謝しないといけませんね」
「ダリオン様が嫌いな書物というのは?」
「私の嫌いな書物の一つは、穴のあいた本ですね」
「ああ、没食子インクは時間が経つと穴があくことがありますものね……」
「その通りです。文字部分に穴があいている本など、劣化が酷すぎて読めた物ではありませんからね!」
「お気持ちは分かりますわ」
せっかく目当ての本を見つけてページを開いても、文字部分に穴があいているような劣化した本では読み進めるのも、ままならない。最悪の場合、解読不可能だ。これが読書家として到底、許容できないのは理解できる。
「でしょう!? あとは、伏線の無い推理小説。それと、最後のオチやどんでん返しの無い物語を読んでしまった時、言いようのない失望を感じてしまいますね」
「ああ、まぁ確かに」
「どうせ頭のゆるい貴族が手慰みに書いた文章だったのでしょうね! 忌々しい事です! 時間は有限だというのに!」
「ダリオン様、落ち着いて」
銀縁眼鏡の公爵は眉間に皺を寄せ、怒りに震えている。まるで、伏線の無い推理小説によって親でも殺されたかのようだ。私が唖然としていると彼は一変して笑顔となり、私の方へ向き直る。
「ですが、王立図書館では思いがけない収穫もありました」
「あら、何か面白い本が見つかりましたか?」
「ええ。とても面白い本がありました」
「どんな本かしら?」
「『愛』について書かれている本です」
先ほどまでの怒りはどこへやらと言った様子で一転、満面の笑みを浮かべた銀縁眼鏡の公爵に、私もつられて笑顔になる。
「まぁ『愛』についてだなんて、ダリオン様はロマンチストですのね。どんな恋愛物語を読まれたのかしら?」
「いいえ。私はリアリストですし、面白いと思った本は恋愛物では無いですよ」
「え……。愛について書かれているのに、恋愛物では無いのですか?」
「はい。私が読んだのは生物学的に『種の保存と存続』という観点から『愛』は実に合理的な仕組みとして、生物に組み込まれていると書かれていた本です」
「種の保存と存続?」
思いもよらない方向に話が飛び、戸惑いながら聞き返すとダリオン様は大きく頷いた。
「ええ。私は常々、自分の命を顧みず母が子を救うというような行動を不思議に思っていました」
「は?」
母が子を救うというのは、ごく自然な行動である。それを不思議とは一体、何を言い出すのかと驚いているとダリオン様は銀縁眼鏡をクイと上げた。
「ああ、この場合、祖父母が孫を。と言った方が、より分かりやすいでしょうか? しかし『種の保存』という観点で見れば、例えば母親や祖父母が身を挺して子供を救う時。自分よりも寿命的に長生きして、次世代に子孫を残す確率の高い子供を救うというのは理に叶っています」
「はぁ」
「つまり母親や祖父母は『子供、もしくは孫を愛している』という思いを原動力にして子供を守る。つまり、自分の分身たる子供、血族を種の保存のために守る。そうすることによって長期的な視点で考えると、種の保存と存続に有利な選択をしているんですよ」
「……」
「今まで理解できなかった『愛』について実に明快な理論を知ることが出来て、腑に落ちました。今回、ファムカ王図書館に足を運んだのは実に有意義でした!」
長年の疑問が氷解したと嬉しそうに語る銀縁眼鏡の公爵は実に満足そうだ。
「ダリオン様……」
「はい?」
「よく、変わってるって言われるのでは?」
「あはは。よく分かりましたねぇ! 私は何故か周囲の者から『変わってる』と言われるんですよ! 何故、分かったのですか?」
「分かりますわよ……」
まさか、そのような愛の解釈をして納得する人がいるとは夢にも思わなかった私は、眼前で愛について語ってご満悦な表情を浮かべるダリオン様に唖然とするばかりだった。




