第五十五話 「公爵令嬢は血の気が引く」
私は全身の血の気が引くのを感じながら後ずさった。眼前にいる黒衣の大男が腰に帯びている大剣を抜けば、私の命など風前の灯……。
その事実に気付き、愕然とする私の様子を見ていたディートリヒ王子が、大男の視線を遮るように私の前に立った。
「ブランシュフルール公爵令嬢の知己か? ……それにしては、穏やかな雰囲気では無いな」
「その瞳の色……。グルーテンドルスト国の第二王子か?」
「……」
問いに答えず、無言で眉目を顰める金髪の王子を一瞥した、黒衣の大男は興味無さそうに鼻で笑う。
「引っ込んでいろ。第二王子に用は無い」
「……俺が退けば、ブランシュフルール公爵令嬢に危害を加える気か?」
「エリナ嬢には話があって来たのだ」
「話?」
「我は……」
その時、廊下の奥から老紳士が足早にやって来た。
「エリナお嬢様!」
「セバスティアン……!」
「そいつから離れろ! エリナ!」
「ミシェル!?」
先ほど調理場で料理人と口論していた金髪の麗人は、いつの間にか外に出ていた。ミシェルはレイピアを抜刀しながら黒衣の大男に全速力でかけ寄り、問答無用で上段から切りかかる。その剣撃をマリウスは自身が帯びていた大剣を抜き放って受けとめた。
「貴様ッ! やはり、生きていたか!」
「おまえは……。あの時の……」
突如、現れた金髪の麗人に切りかかられ、琥珀色の瞳を瞠目する黒衣の男に、ミシェルは敵意を隠そうともしない。互いにギリギリと大剣と細剣を擦りながら肉薄した。
そのまま両者の剣による激しい打ち合いが始まり、雨が打ちつける庭園に剣戟の音が響き渡る。そして、その音を聞きつけたのだろう。二階からバタバタと大慌てで白鳥がやってきた。
「エリナっ! 兄上! この音は……? いったい何が!?」
「アルヴィン!」
足元に来た彼を抱きかかえ、窓の外を見えるようにしてやれば、腕の中の白鳥は目を丸くした。
雷鳴が轟き、強い雨の降りつける中、激しく刀身が激突する。目にもとまらぬ斬撃と突きが次々と繰り出され、ミシェルの猛攻に防戦一方のマリウスであったが、敵もさるもので金髪の麗人から放たれる攻撃を、すべて紙一重で避けている。
だが、それを追うレイピアの剣先がマリウスの揺れる髪を捉え、切りつけられた黒灰色の髪が一筋、切り落とされる。次の瞬間、返す刀で横薙ぎに振るわれたミシェルの剣尖をマリウスは完全に見切り、上段から振り降ろした剛剣でレイピアを叩き折った。
高い音を立てて、半ばから折られた白刃は空中を旋回しながら落下し、ザクリと音を立てて地面に突き刺さる。手にしていたレイピアを折られたミシェルは濡れた地面に片膝をつき、雨に打たれながらサファイア色の瞳を茫然と見開いていたが、その眼前にマリウスは大剣を突き付けた。
「くっ!」
「残念だったな……」
しかし、勝利を確信したマリウスの背後から激しい雨音と雷鳴に紛れ、密かに気配を消して近づいていた者がいた。遠くで落雷が眩い光を放った次の瞬間、ミシェルに気を取られていたマリウスの首筋に、赤髪の男がピタリと長剣の白刃を当てた。
「残念だったのは、テメーの方だったな」
「!」
「ヴィクトル!」
過剰なまでに殺気を溢れさせていたミシェルは、最初から自分に注意をひきつける囮のつもりだったのだろう。彼女の猛攻に気を取られていたマリウスは、激しい雨音も相まって背後から忍び寄るヴィクトルの気配に気づけず、まんまと後ろを取られた。
雨に濡れながら無表情で、マリウスの首元に長剣を向けるヴィクトルの姿を認めたミシェルは、僅かに口端を上げた。
「大きな物音が聞こえた時……。念の為、すぐに屋敷の内外を見回ることにしたんだ。セバスティアンは屋敷の中を……。私は調理場の裏口から外に出て左回り。そいつは右回りに」
「俺の天使が住む屋敷に、無断で立ち入るとは良い度胸じゃねーか」
雨脚がやや弱くなる中、剣呑な雰囲気で不敵に笑みを浮かべながら、マリウスの咽喉元に剣を突き付ける料理人に、金髪の麗人が柳眉を吊り上げる。
「ヴィクトル! その男はフィリップを昏倒させた奴だ! 油断するなよ!」
「イケメンは油断しねぇから安心しろ!」
「安心できる要素が皆無じゃないか」
「あ゛!?」
ドヤ顔の料理人にミシェルは真顔で率直な感想を述べた。その時、屋敷の入口の方から第三者による拍手の音が聞こえ、視線を向ければ意外な人物がいた。見覚えのある銀縁眼鏡の公爵が、場違いなほどの笑みをたたえながら拍手している。
「いや~。面白いことになってますねぇ~」
「フィサリス公爵!?」




