第五十二話 「公爵令嬢は婚約を申し込まれる」
私と第二王子は、見た目だけでなく、味も申し分ないアップルローズタルトに舌鼓を打ちながら食べ終わった。食後のハーブティーを軽く飲んだ後、白磁のカップを受け皿に置き、居住まいを正して第二王子に向き合う。
「ディートリヒ様……。いい機会ですから、今後のことについて考えておきませんか?」
「今後のこと?」
「グルーテンドルスト兵が撤退した今なら、ディートリヒ様がこの屋敷から移動するのも、難しくないはずですわ」
「確かにそうだが……」
「ここから南下して、ファムカ王都まで行き、そこから船に乗って西国ベルギアあたりにでも行けば、グルーテンドルスト兵に見つかるリスクは、より低くなりますわ」
「船……」
「いったん海に出てしまえばアルベンシス内海を渡って、他の国に行くのもたやすいですわ。完全にグルーテンドルスト国の目をくらますなら、いっそ船に乗ってカレンデュラ西海を超え、西大陸や他の土地を目指すという手も――」
その時、遠くから馬の嘶きが聞こえ、ゆるやかな轍の音がわずかに響きながら近づいてくるのが分かった。一瞬、室内に緊張が走る。ミシェルとセバスティアンが素早く窓の外をうかがった後、ホッと息を吐く。
「エリナお嬢様。ご心配には及びません。信頼できる者です」
「信頼できる者って……?」
「顔見知りの行商人でございます」
そう報告した老紳士はにこやかに一礼した後、行商人に応対すべく玄関に向かった。私は緊張で乾いた咽喉を潤すべくカップに残っていたハーブティーを飲み干す。
窓の外に視線を向ければ、庭師のラウルが薔薇の世話をしてる姿が見えたので、その姿を見ながら少しソファに背を預けていると、セバスティアンはすぐに居室にへ戻って来た。
「さきほどの行商人が、こちらの手紙を持って来てくれました」
「手紙?」
「グルーテンドルスト国の王都から、フィリップが出してくれたようです」
「フィリップが?」
老紳士から蜜蝋で封印された手紙を受け取ると、確かに封筒にはフィリップの名前が記されている。セバスティアンが用意してくれたペーパーナイフで開封すれば中から、もう一つ封筒が出てきた。
私のティーカップが空になっているのを確認した老紳士が再び、熱いお茶を淹れてくれるのを横目に、手紙の中に入っていた封筒を見れば、そこには意外な宛名が書かれていた。
「あら、これはディートリヒ様宛てだわ」
「俺に?」
「ええ……。ヨハンという方からですわ」
「ヨハン!?」
「どうぞ、ご覧になって下さいませ」
私が手紙を渡せば、第二王子は手早く開封して中をあらためた。
「これは……」
「確か、ヨハンって、ディートリヒ様がこの屋敷に来られた時、口にしていた方のお名前ですわよね?」
「ああ。俺の侍従だ……。馬車が谷底に落ちた時、一緒の馬車に乗っていたんだ」
「そうだったのですね。ご無事で何よりでしたわね……」
はじめてこの屋敷に第二王子が運び込まれた時、身体が冷え切っていた上、全身にケガを負っていて大変だった。一緒にいた侍従も同じように、危ない目に遭いながら命が助かったのだから、僥倖であるといえるだろう。
「ふむ。成程な……」
「何か分かったのですか? ディートリヒ様」
首を傾げて尋ねれば、美しい金髪を揺らせて、美貌の王子が視線を向けた。
「ああ……。差し当たって、ブランシュフルール公爵令嬢」
「なんでしょう?」
「一つ頼みがあるのだが……」
「私に出来ることでしたら、何なりと仰って下さいませ」
笑顔でそう答えると、金髪の王子はテーブル上に置いてある白磁の花瓶から、薄紅色の薔薇を一輪取り出して、茎を半分ほど折った後、私の髪にそっと薔薇を飾り、宝石の如き瞳を優しげに細めて囁いた。
「俺と婚約してほしい」
「はい。……って、ええ!?」
その瞬間、居室のすぐ外で剪定の作業中だった、庭師のラウルは赤い薔薇のつぼみを「パチン」という音を立てながら、うっかりハサミで切り落とし、老紳士はやや驚きの表情を見せ、ミシェルは驚愕しアイスブルーの瞳を大きく見開いた。
そして、ソファに鎮座していた白鳥は、驚きで身を起こしたと同時に、前にのめり過ぎてバランスを崩し「ふぁ!?」っと謎の声を発しながらソファからズリ落ちた。
さらに運の悪いことに白鳥が転がり落ちる瞬間、大きな両翼をバサッと広げたことで、テーブルの上に置いてあったティーカップの受け皿に翼がぶつかり、入れたての熱いお茶が入っていたティーカップが宙に飛ぶ。
そこに、絶妙なタイミングで居室の前を通りかかった赤髪の料理人が、熱いお茶を頭からかぶり「ぐぁ! あっちぃ!」と絶叫する声が屋敷中に響き渡った。




