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第四十八話 「公爵令嬢は諫める」

 調理場をあとにした私は、客室の扉を軽くノックしてからオーク材の扉を開ける。第二王子は寝台から半身を起こして、窓の外の景色を眺めていた。


 夜の訪れが近づくと共に、中天から冷たい蒼玉色が、その濃さを増している。しかし地平線近くは、凪いだ波状雲の隙間から一日の終わりを惜しむかのように、炎の如く眩い残陽が今日、最後の耀きを放ちながら、広大な針葉樹の森林と大地を見事なオレンジスピネル色に染め上げていた。


 光が届かない場所に、漆黒の陰影をくっきり浮かび上がらせる光景は、沈みゆく斜陽の尊さをより引き立てている。大自然が織りなす美しい情景は、見る者の心を捉えずにはいられない。黄昏に一瞬、心奪われた私だったが、気を取り直して寝台上の王子に声をかける。



「ディートリヒ殿下」


「ブランシュフルール公爵令嬢か……」



 声をかければ音も無く、金髪を揺らして、こちらに視線を向けた第二王子だが、初めて会った時、まるで宝石のようだと感じた両眼からは鋭気が失われ、白皙の美貌には心労と食欲不振が原因と思われる翳りが見えた。


 しかし、その事には触れずに木製トレイを持ち、パチパチと小さな音を立てながら薪を燃やしている暖炉の前を通って、寝台の傍に置いてある椅子に腰かける。



「普通の食事が、あまり咽喉を通らないと聞きましたので、野菜スープにお米を入れた物をお持ちしましたわ」


「……」


 木製トレイの上に置かれている白磁の深皿には、甘みと栄養が凝縮されている乾燥トマトに玉ねぎ、人参、じゃがいも、キャベツ、豆、鶏肉を食べやすいサイズに刻んで、米と一緒にブイヨンで煮込み、塩と香草で味を整えた優しい味わいのスープが熱い湯気を立てている。笑顔で先程ヴィクトルに作ってもらったばかりの一品を見せ、穏やかに話す。



「これなら食べやすいですわ。ディートリヒ殿下」


「殿下はよしてくれ……」


「え?」


「元より、王子の身分は形だけだったのだから、俺には殿下と呼ばれる資格は無い……」



 一瞬、どう返すべきか迷ったが先日、ディートリヒ王子は王位継承権が無いという事を聞いたばかりなので『殿下』と呼ばれる資格が無いと言うのに一理あるのは理解できる。


 何より、気落ちして体力も低下している人間に反論したりするよりも、ひとまず同意しておいた方が無難であろう。私はそう判断した。



「……では、ディートリヒ様と呼ばせて頂きますわ」


「ああ」


「それでは、早速この野菜スープを……」


 持っていたトレイごと、寝台で半身を起こすディートリヒ様の前に差し出すが、王子は食事に目もくれず、私を見据えた。


「ブランシュフルール公爵令嬢。話しておかなければならないと思っていたんだが」


「はい?」


「もしグルーテンドルスト国の兵が俺を探して、この屋敷に尋ねてきたら匿わず、速やかに引き渡してほしい」


「そんな事……!」


 私は即座に否定しようとしたが、美貌の王子は至極、冷静な様子で続ける。


「分かっていると思うが、下手に俺を匿っているとグルーテンドルスト国側に知られれば最悪、戦になる」


「……」


「其方も貴族令嬢なら、物の分別がつくだろう?」


「嫌です」


「!」


 諭すように問われたが、私にとっては到底、受け入れられるものでは無い。


「本当にグルーテンドルスト国王がディートリヒ様の命を狙っているんだとしたら……。殺されると分かっていて、みすみす引き渡すなんて真似、出来ませんわ!」


「ブランシュフルール公爵令嬢……」


「そもそも、父親が実の息子を殺すよう兵に命じたなんて、信じられません!」


「……」


 私の言葉を聞いた美貌の王子は、眉根を寄せてやや俯いた。長い睫毛に縁どられた瞳に影が落ちる。



「もし、本当にそうなのだとしても、逃げたら良いじゃありませんか?」


「逃げようにもな……」


「?」


「十人並みの顔なら、逃亡の望みも多少はあっただろうが、こんな特徴的な瞳の人間が、俺以外に早々、居るとも思えないからな……」


「ディートリヒ様……」


「遅かれ早かれ、見つかってしまうならば極力、迷惑がかからないようにしたいんだ」



 確かにサファイア、アクアマリン、エメラルドを溶かして閉じ込めたかのような、特徴的な瞳の人物はまず居ない。まして彼は驚くほどの美貌の持ち主である。


 どこへ行ったとしても、輝く金髪に宝石の如き瞳を持つ類まれな容貌は、すぐに人々の噂に上るだろう。しかし、最初から何もかも諦めて、眼前の人物を死地に送り出すなど出来る訳が無い。



「ディートリヒ様は、ずっと王室で生きてこられたから……。きっと、その価値観を基準に生きて来られたのでしょうけど」


「……」


「今まで住んでいた場所や視点を変えれば案外、楽になるかも知れませんわよ?」


「それは、どうかな」


 美貌の王子が皮肉気に失笑して、視線を落とす。



「……私が学園に通っていた時、ちょうど婚約破棄の件で色んな人から、謂れの無い中傷されたり、嫌がらせを受けて、本当に辛い思いをしましたわ」


「!」


「おかげで王都を離れて、こんな辺境に来る事になって……。でも、ここに来たら、私の事を悪く言う人なんか居ないし、意外と楽しくて充実した日々を送ってますのよ?」


「……」


「ディートリヒ様は弟君を捜索されてた関係で、ずっと休まずにいらしたから、少しお疲れなのもあるんでしょう……。暫くの間は、ゆっくりお休みになって下さい。きっと時間が疲弊した心を癒してくれますわ」


 私が告げれば、眼前の王子は、苦し気にその貌を歪ませた。


「俺は……。君に気遣って貰う資格など無い」


「え?」


「アルヴィンが行方不明になった時、ジュリアが手紙を捏造していたであろう事は、おおよそ見当がついていた」


「!」


 思いがけない告白に驚愕して、私は言葉も出なかったが、眉根を寄せて王子は述懐を続ける。


「弟はイカ墨のインクを愛用していたのに、あの置き手紙は何故か、没食子インクで書かれていたからな」


「……」


「俺は、君がジュリアに、いわれのない罪で糾弾されたと聞いても、助けようとは思わなかった。こんな薄情な男に、君が心を砕く必要は無い」


 すべてを諦め切っているかのような表情で語り終えた王子は嘆息した。



「……私、王族とは関わりあいたくないと思ってましたの」


「?」


「仮に戦争でも起こって、敗戦国ともなれば……。直接、戦争に関わっていなくても、王族であるだけで、処刑の対象になりますし、王侯貴族として大きな責務を負わされるより、平穏に暮らしたい……。ずっと、そう願っておりました」


「……」


「そんな自分本位の考えで生きていたから、ディートリヒ様が会った事も無い、私を助けなかったと仰られても『私だって、同じような立場なら見て見ぬふりをしたかも……』と思わなくも無いですわ」


「……」


 呆然としている王子に、ほんの少し笑って告げる。


「つまり……。現時点で、私はディートリヒ様に恨み言をいう気はありませんし、気にしておりませんから、私の事で今更、後ろめたく思って下さらなくて結構ですわ」


「ブランシュフルール公爵令嬢……」


「そんな事より、今は食事をしっかり食べて、体力を回復して下さい」


「しかし……!」


 納得いかない様子で食い下がる王子に対して、私は静かに答える。


「どうしても、ディートリヒ様の気が咎めると仰るのなら今度、私が困った時に助けて下されば、それで良いですわ」


「……」


「間違わない人間なんて、一人もいませんもの……。大事なのは間違った時、後悔して落ち込み続けるより、同じ間違いを二度としないように気を付けたり……。失敗した後に、自分が今できる最善の行動を考える事……。その方がずっと建設的ですわ」


「最善の行動……」


「と言う訳で、今はしっかりと食事を召し上がって、体力を回復する事に専念して下さいね!」


「君には負けたよ……」



 美貌の王子は少し苦笑した後、スプーンを手に取り、ゆっくりと野菜スープを口に運んだ。それを見届け、内心、ホッと胸を撫で下ろす。


 ふと窓の向こうに視線を向ければ、太陽は地上から姿を消す間際で、外は深い蒼玉色をした、夜の帳が落ちようとしている。


 私は客室に置かれている真鍮の燭台を手に取り、暖炉の炎から蝋燭に火を灯す。寝台の傍らにある飴色のキャビネット上にそっと燭台を置けば、小さな明かりが王子の横顔を柔らかく照らした。



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